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第一章
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第一章
忽然と消える
2013年、春休みの午後。
陽射しはまだ柔らかく、街路樹の新緑が風に揺れていた。高校1年生、橘佳織は、私服のカーディガンとスカートに身を包み、軽やかな足取りでバス停に向かっていた。
鞄には今日観るラブロマンス映画のパンフレットと、麗華に貸す約束の文庫本が入っている。『源氏物語』の現代語訳版だ。佳織は特に、六条御息所のエピソードに惹かれていた。
光源氏を好きすぎて、嫉妬に狂い、生霊を飛ばして夕顔を死に至らしめてしまう——そんな歪んだ愛の形が、怖いのに、どこか心を掴む。自分はあんな風にならないはずだけど、もし好きすぎたら……? 古典文学同好会の次回発表では、「愛の闇と生霊」をテーマにしようと、最近ずっと考えていた。
しかし、佳織にとって、この春休みは青春の絶頂だった。ケーキ屋のアルバイトを始め一年が経つ。甘い香りに包まれながら接客する日々は新鮮だった。先輩の柳沢洋介に「佳織ちゃん、今日は笑顔がいいね」と褒められるたび、胸が温かくなった。
ギター教室でコードを覚えるのも楽しく、面倒見のいい明るい少女だった。
でも、最近は洋介先輩のことが頭から離れなくて、少し困っていた。バイトのシフトをチェックしたり、SNSを覗いたり……ただの憧れのはずなのに、時々自分でも怖くなるくらい。
今日は特別な日。早川麗華とスターバックスで待ち合わせて、レイトショーで映画を観る。予告編を見た瞬間から心が躍っていた。
バスに揺られながら、麗華にメッセージを送った。「今、バス乗ったよ。予定通り二時頃着くね!」
昨日、バイト先で洋介先輩が「今日は映画観に行くんだよね」と言っていたのを思い出す。この時間、このバス停近くを通る可能性が高い。予定通りなら最寄りバス停で降りるはずだったけど
……今日は違う。
心臓が少し速くなった。
1つ前のバス停で降りて、少し歩けば……もしかしたら「偶然」会えるかもしれない。
ベルを鳴らし、バスが止まる。
佳織は深呼吸して降りた。
麗華に電話をかける。
「もしもし、麗華? ごめん、一つ前のバス停で降りちゃった。歩いて行くから、スタバで待っててね」
「え、なんで? 大丈夫?」
「うん、ちょっと散歩したくなって。すぐ着くよ!」
電話を切ると、佳織はバス停のベンチから立ち上がり、歩き始めた。
春の風が頰を撫でる。歩き始めて数歩。
向こうから、見覚えのある長身のシルエットが近づいてくる。
「あ、佳織ちゃん」
心の中で小さくガッツポーズ。
でも、顔には出さない。
映画館までは徒歩で十五分ほど。ちょうどいい距離だ。
洋介が軽く手を上げた。佳織も笑顔で応える。
「先輩! こんなところで」
「今日はオフ?」
「うん、先輩も?」
「俺も。映画観に行こうと思って」
二人は自然と並んで歩き始めた。同じ方向だ。
佳織は少し照れながら話す。
「私も映画なんです。麗華と待ち合わせで、ラブロマンスのやつ」
「へえ、俺は別のやつだけど。同じ映画館か。じゃあ、一緒に行こうか」
「いいんですか?」
「もちろん。道中、つまんない話でいいなら」
バス停から映画館の建物まで、他愛もない会話が続いた。ケーキ屋の常連の話、最近のバイトの失敗談、ギター教室で覚えた新しい曲のこと。
洋介は静かに聞き、時折笑って相槌を打つ。佳織は先輩の落ち着いた雰囲気が好きだった。話していると、なんだか安心する。
映画館の建物が見えてきた。モールに併設された大きなシネコンだ。
佳織はスターバックスに向かうため、建物内の通路を通るつもりだった。
「ここで別れますね。先輩、楽しんでください」
映画館前の広場で、佳織は軽く頭を下げた。洋介は微笑んで頷く。
「うん、佳織ちゃんも。映画、泣かないようにね」
「泣いちゃうかもですけど!」
笑い合って別れた。
佳織は浮かれた足取りで、建物の自動ドアをくぐった。
館内は暖房が効いていて、温かく柔らかい空気が肌を包む。
エスカレーターを上がり、通路を進む。
スターバックスはもうすぐだ。
麗華がもう来ているかもしれない。佳織はスマホを取り出し、時間を確認した。
二時五分前。ちょうどいい。
モール内の通路を歩きながら、佳織は軽くスキップするように足を進めた。
スターバックスは目と鼻の先。麗華の姿が見えるはずだ。
通路の角を曲がると、防犯カメラが天井から静かにこちらを見下ろしていた。赤いランプが点滅している。佳織はそれに気づきもせず、歩を進めた。
ふと、胸にざわめきがよぎった。源氏物語の六条御息所みたいに、好きすぎて生霊を飛ばしたらどうなるんだろう……? 馬鹿げた想像を振り払い、スターバックスに向かう。
その二分後。佳織はスターバックスに現れなかった。
麗華はカウンター横の椅子に座り、スマホを握りしめながら通路を見つめていた。
約束の時間はとっくに過ぎている。メッセージも電話も、既読にならない。呼び出し音が虚しく響くだけだ。
「佳織……どこ?」
麗華の小さな呟きは、コーヒーの香りと館内のざわめきに掻き消された。
防犯カメラが捉えた最後の映像では、佳織は確かにモール内に入り、通路を歩いていた。軽やかな足取りで。そして、二分後には忽然と姿を消していた。
春休みの午後、モールの喧騒は変わらず続いていた。誰も、少女が消えたことに気づいていなかった。
忽然と消える
2013年、春休みの午後。
陽射しはまだ柔らかく、街路樹の新緑が風に揺れていた。高校1年生、橘佳織は、私服のカーディガンとスカートに身を包み、軽やかな足取りでバス停に向かっていた。
鞄には今日観るラブロマンス映画のパンフレットと、麗華に貸す約束の文庫本が入っている。『源氏物語』の現代語訳版だ。佳織は特に、六条御息所のエピソードに惹かれていた。
光源氏を好きすぎて、嫉妬に狂い、生霊を飛ばして夕顔を死に至らしめてしまう——そんな歪んだ愛の形が、怖いのに、どこか心を掴む。自分はあんな風にならないはずだけど、もし好きすぎたら……? 古典文学同好会の次回発表では、「愛の闇と生霊」をテーマにしようと、最近ずっと考えていた。
しかし、佳織にとって、この春休みは青春の絶頂だった。ケーキ屋のアルバイトを始め一年が経つ。甘い香りに包まれながら接客する日々は新鮮だった。先輩の柳沢洋介に「佳織ちゃん、今日は笑顔がいいね」と褒められるたび、胸が温かくなった。
ギター教室でコードを覚えるのも楽しく、面倒見のいい明るい少女だった。
でも、最近は洋介先輩のことが頭から離れなくて、少し困っていた。バイトのシフトをチェックしたり、SNSを覗いたり……ただの憧れのはずなのに、時々自分でも怖くなるくらい。
今日は特別な日。早川麗華とスターバックスで待ち合わせて、レイトショーで映画を観る。予告編を見た瞬間から心が躍っていた。
バスに揺られながら、麗華にメッセージを送った。「今、バス乗ったよ。予定通り二時頃着くね!」
昨日、バイト先で洋介先輩が「今日は映画観に行くんだよね」と言っていたのを思い出す。この時間、このバス停近くを通る可能性が高い。予定通りなら最寄りバス停で降りるはずだったけど
……今日は違う。
心臓が少し速くなった。
1つ前のバス停で降りて、少し歩けば……もしかしたら「偶然」会えるかもしれない。
ベルを鳴らし、バスが止まる。
佳織は深呼吸して降りた。
麗華に電話をかける。
「もしもし、麗華? ごめん、一つ前のバス停で降りちゃった。歩いて行くから、スタバで待っててね」
「え、なんで? 大丈夫?」
「うん、ちょっと散歩したくなって。すぐ着くよ!」
電話を切ると、佳織はバス停のベンチから立ち上がり、歩き始めた。
春の風が頰を撫でる。歩き始めて数歩。
向こうから、見覚えのある長身のシルエットが近づいてくる。
「あ、佳織ちゃん」
心の中で小さくガッツポーズ。
でも、顔には出さない。
映画館までは徒歩で十五分ほど。ちょうどいい距離だ。
洋介が軽く手を上げた。佳織も笑顔で応える。
「先輩! こんなところで」
「今日はオフ?」
「うん、先輩も?」
「俺も。映画観に行こうと思って」
二人は自然と並んで歩き始めた。同じ方向だ。
佳織は少し照れながら話す。
「私も映画なんです。麗華と待ち合わせで、ラブロマンスのやつ」
「へえ、俺は別のやつだけど。同じ映画館か。じゃあ、一緒に行こうか」
「いいんですか?」
「もちろん。道中、つまんない話でいいなら」
バス停から映画館の建物まで、他愛もない会話が続いた。ケーキ屋の常連の話、最近のバイトの失敗談、ギター教室で覚えた新しい曲のこと。
洋介は静かに聞き、時折笑って相槌を打つ。佳織は先輩の落ち着いた雰囲気が好きだった。話していると、なんだか安心する。
映画館の建物が見えてきた。モールに併設された大きなシネコンだ。
佳織はスターバックスに向かうため、建物内の通路を通るつもりだった。
「ここで別れますね。先輩、楽しんでください」
映画館前の広場で、佳織は軽く頭を下げた。洋介は微笑んで頷く。
「うん、佳織ちゃんも。映画、泣かないようにね」
「泣いちゃうかもですけど!」
笑い合って別れた。
佳織は浮かれた足取りで、建物の自動ドアをくぐった。
館内は暖房が効いていて、温かく柔らかい空気が肌を包む。
エスカレーターを上がり、通路を進む。
スターバックスはもうすぐだ。
麗華がもう来ているかもしれない。佳織はスマホを取り出し、時間を確認した。
二時五分前。ちょうどいい。
モール内の通路を歩きながら、佳織は軽くスキップするように足を進めた。
スターバックスは目と鼻の先。麗華の姿が見えるはずだ。
通路の角を曲がると、防犯カメラが天井から静かにこちらを見下ろしていた。赤いランプが点滅している。佳織はそれに気づきもせず、歩を進めた。
ふと、胸にざわめきがよぎった。源氏物語の六条御息所みたいに、好きすぎて生霊を飛ばしたらどうなるんだろう……? 馬鹿げた想像を振り払い、スターバックスに向かう。
その二分後。佳織はスターバックスに現れなかった。
麗華はカウンター横の椅子に座り、スマホを握りしめながら通路を見つめていた。
約束の時間はとっくに過ぎている。メッセージも電話も、既読にならない。呼び出し音が虚しく響くだけだ。
「佳織……どこ?」
麗華の小さな呟きは、コーヒーの香りと館内のざわめきに掻き消された。
防犯カメラが捉えた最後の映像では、佳織は確かにモール内に入り、通路を歩いていた。軽やかな足取りで。そして、二分後には忽然と姿を消していた。
春休みの午後、モールの喧騒は変わらず続いていた。誰も、少女が消えたことに気づいていなかった。
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