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捜索
12 ヴィーナスの情報
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一方、そのころ。
はるか西南のドンの王都、ピングー王宮の奥の院では。
「ねええん、陛下あん♡ お願いでございますゥん♡ 今一度、お情けをちょうだいませませぇん♡ ねええん、陛下ってばあんっ♡」
国王の寝所。
贅を尽くした寝台。紫のシルクのシーツを引き寄せた美妓があざとすぎる科を作り、艶のある布地の下の美しい素肌をこれ見よがしにチラ見せしつつ、国王の太鼓腹をつんつん突いていた。
「だああっ、うるさい! もう散々可愛がってやったではないか! まだせよと申すのか」
「えええん? だあって、まだ足りないのです。もっと愛してくださりませぇん、ねええん、陛下ったらぁんっ♡ ちゅ♡ 」
「も、ムリ! そちは底なしではないか! これ以上そちの相手したらこの身が持たぬわ! そちは余をコロす気か? 」
「そんなあん♡ 滅相もございませんわ、陛下あん♡ 陛下大好き♡ 陛下あってのこの王国。わたくしいつも陛下の御体第一に思っておりまするのにん♡ 陛下ったら、イケズですわ♡」
「どうだか・・・」
そう言って、太鼓腹の国王はシーツの中に隠れた。
「とにかく、そちに散々搾り取られ、余はもうクタクタなのだっ! そちも下がって好きにせい! 」
「そんなあ・・・」
「だーっ! も、いいから下がれ! 下がれと言っておるっ! 」
「もしや、陛下はわたくしをお嫌いに? 」
「だーっ、もうっ! そうは言っておらぬではないか! 」
太鼓腹はガバッと身を起こし、美妓の手を取った。そして、その手に脂ぎったドジョウ髭の顔を頬ずりしつつ、切々と語った。
「余はそちを心から愛しておる。側室の中では一番じゃ! あのウルサいババアさえいなければ、すぐにでもそちを正室に迎えたいほどなのじゃ! でも、今は休みたいのだ! それでなくても北の野蛮人どもとか西の豪族どもとかでもうっ! 判れ! 判ってくれ! 頼む! 」
「では陛下。陛下がお相手下さらぬのでは寂しゅうてたまりませぬゆえ、一度里に帰りまして親に顔など見せとうございますが、よろしいですか? 」
「好きにせいと言っておる! 」
「行って来いで、数日ほどおヒマを賜っても? 」
「よい! 許す! だからもうとにかく下がれ! お願いだから、下がってくれ! 」
「うう・・・。わかりました、陛下。お名残り惜しゅうはございますが、これも陛下の御ためと、寂しいのはガマンいたします。でも、きっと。わたくしをお忘れなきよう」
「たかが数日ではないか、大袈裟な」
「お約束くださいませ! いっときも、片時もわたくしを忘れぬと」
「あーもーわかったわかった。忘れぬから早よ下がれ。気をつけるのじゃぞ」
ヴィーナスは、心の中でほくそ笑んだ。
「ふんっ! 」
部屋に戻るとすぐにお付きの女官を呼び、支度を命じた。
国王の気が変わらないうちに。
国王の側室メイリーことヴィーナスは、護衛の一隊を引きつれて王城を出た。
帝国軍の編成ならば1個大隊強、500名もの護衛隊の行進に続いて何両もの壮麗な馬車が王城前大路を西へ、金光門を市街へ出てゆく様は華麗の一語に尽きた。
「よく見てごらん。国王陛下の御側室の行列だよ」
「わーすごい! キレイ・・・」
沿道に立って行列を見送る人々は口々にそんなことを呟いて感嘆した。
王都ピングーの西は延々と続くコウリャン畑。
粛々と進む行列は半日かけてその西端に達した。そこは南北に延びる広葉樹の樹林地帯であり、そこからさらに西に広がる標高の高い砂漠と草原の混在地域、いわゆるステップ気候のような地帯から吹く風が砂を東に運ぶのを食い止める役割を果たしていた。その高地の向こうに、ドンが新たに従えている西の諸豪族の領地、西域がある。
西域への道はその樹林地帯をまっすぐ突き抜けて行くのだが、林の中で行列は止まった。
道から外れ少し林の中に入ったところに滾々(こんこん)と泉が湧く池があった。
車を降りた侍女の一人が護衛隊長に何やら囁くと、一群の兵たちがその泉のほとりに小さな天幕を張り、その周りをぐるりと固めた。
準備が終わるとひときわ豪華な車からまるで天女のような衣をまとったご側室様が現れ、侍女の案内で天幕に入った。
要は、ご側室様の「おトイレタイム」というわけである。
続いて侍女が中に入り、林の中はしばし泉の湧く水音と枝葉を駆け抜ける風の音だけに満たされた。
しばらくして、ご側室様が天幕をお出になり、ふたたび車上の人となった。
「では、出発する! 」
護衛隊長の命令一下、行列は再び動き出した。
一個大隊強の隊列はやがて全隊森を抜けて西域への道を歩き出したが、兵たちの誰一人として、森の中を北に向けて駆け抜けていった馬の蹄の音を聞いた者はいなかった。
こうしてヴィーナスはしばしの自由な時間を手に入れた。
十分に森の中を走り西域に向かう本道から離れてから、ヴィーナスもまた馬首を西へと向け砂漠と草原が入り交じる、岩だらけの高地をひた走った。
もう天女の衣などは着ていない。
西域の民の男たちが身に着ける、地域によってシュマッグとかゴトラと呼ばれるターバンを巻き、これもトーブとかカンドゥーラと呼ぶ身体全てを覆う白い衣をつけ、肩から腰に幅広の革帯を巻いていた。そして、腰のベルトには細身の剣。
ヴィーナスはこの地方産の名馬グレーのサラブレッドの手綱を握り、ただひたすらに西を目指した。
ドン王宮の側室であり、ウリル少将の特務部隊のエージェント「ヴィーナス」、Anouk Aimard アヌーク・エマール中尉は歳の候なら20代の後半。今ヤヨイと行動を共にしているリーズルよりも歳上になる。本来は赤味がかったブラウンの瞳を持つ彼女は色ガラスを仕込んで黒に変え、ブルネットも漆黒に染めていた。
リセ在学中より語学に堪能で帝国語フランス語だけでなくチナ語に通じていたので卒業後は貿易事務所に勤務。徴兵され近衛軍団に配属中にウリル少将に見いだされてスカウトされた経緯はヤヨイと似ている。
ウリル少将は当時から計画されていた対チナ戦争で彼女を豪族ドンの「ディープスロート(潜伏内通者)」として使うつもりだったが、戦役の主舞台が当初予定されていた北ではなく南のミン一族の領地に変更されてしまったため、アヌークはそのままドンの根拠地クンカーに留まり酒場の歌姫兼舞姫として偽装潜伏し続けていた。
生来の美貌が功を奏したのか、運よくドンの最高権力者の目に留まって側室に収まり、今に至っていた。傀儡政府ドンの王宮中枢に食い込んだ、帝国とウリル少将にとっては最重要な情報源でもあった。
そして、もう一つ。
アヌークには、特務部隊エージェントたるに相応しい特技があった。
目の前にオアシスが見えてきた。それを過ぎるとテランの街である。馬にも水を与えねばならない。
丘を越えればオアシスに入れるというところで、アヌークはガラの悪そうな2、3騎に捉まった。
「旅の者か」
親分と思しき一番ガラが悪くて人相も悪い男が声をかけてきた。そのまま突っ切ってもよかったが、オアシスまで追って来られるのも面倒だ。
「だったら、どうした」
つい朝方までの、「ねええん、陛下ったらあん♡・・・」などとトロトロに甘すぎる艶声とは全く違う、ドスの利きすぎた声音を腹の底から絞り出した。
「旅の途中なら、いくらかは持ってるだろう。その毛並みのいい馬と一緒に置いていけ。
2人の手下がジリジリと馬を進めてアヌークに寄った。
「カネも馬も手放せば困るのだが」
「そりゃそうだろう。だが、おいらたちにゃ、カンケーねえ! 」
親分は鞍に差していた旧式な銃を抜いた。帝国軍がごく初期に装備していた先込め雷管式の旧式銃だ。連発はできない。
アヌークは腰の剣をスラリと抜き放った。
「では、腕ずくで奪うんだな」
そして、親分の黒毛に向かって突進した。
泡を食った親分は、その形相の割には場数が足りなかったのだろう。慌てすぎて銃を暴発させた。アヌークは身を低くして避けつつ、黒毛に肉薄して剣を一閃。矢のように通り過ぎてから馬首を返した。
「さあ、どうするのだ! お前たちも同じ目に遭いたいのか! 」
は? 2人の手下は、何を寝ぼけたことをとでも言いたげにアヌークに向かってくる気配を見せたが、銃を持ったままの親分が固まっているのに気付き、ついで、彼の太い首がゆらっと傾いてごろん、と転がり落ちたのを見た。
「う、うげっ! わああああっ! 」
手下たちが算を乱して東の彼方に逃げ去るのを見送ると、アヌークは血糊を振って剣を収め踵を返した。
街の入り口の新鮮な水が流れ込む水場に馬を繋ぎ、鞍を外して肩に背負い、手近のコーヒー屋のスイングドアを押した。
カウンターにかけ、「コーヒーを」と奥にいたトルコ帽の口ひげ男に告げた。
店主は黙ってやってきて、カウンターの下で手にぶら下げた木のホルダーを見せた。
「コーヒーよりも、もっと神に近づけるヤツはどうだね? 」
木のホルダーの中には銀色のボディーに帝国産を示すラベルの貼られたフラスコが入っていた。ウヰスキーだ。
帝国の南にも一神教を奉ずる人々が住んでいるし今の皇帝陛下にしてからがその南の国のご出身だ。彼らは戒律で酒を呑まない。
このドンの西域でも同じ神を奉じていたのだったが、南の国の人々よりは「人間的」なのだった。
でも、南の国の人々の故郷である、今は海の底に沈んでしまった旧文明のインドネシアという国でも飲みたい者は隠れて飲むかそれ用の店で飲んでいたという。それと同じだ。
「街のゴミを掃除してくれたってね。初顔だが、ささやかな礼とお近づきのなんとやらってヤツさね」
テーブル席を見回した。ゴトラを被った男たちが手にしたコーヒーのカップを持ち上げたり、ご丁寧にも右手を胸に当ててお辞儀をしたりしていた。
西域では人の好意を断ってはいけない。素直に受け取ることにした。
「でも、あいにく裏が先客でね。どうせ一晩泊まるんだろう? 宿に帰ってから飲みなよ」
言われれば、カウンターの奥の部屋からは賑やかな声が響いていた。
「なにか、景気のいいことがあった衆か? 」
細身の葉巻に火を点けて、煙と一緒にさりげなく訊いた。店主は奥を指さしながら教えてくれた。
「やつら、小舟で商いしてる連中だということなんだが、数日前にテランに騎馬隊が来てさ。そいつらが景気良く大盤振る舞いしてくれたらしい。舟一艘貸すだけでまる一年分の実入りがあったって! それで、舟もないし、カネはあるし、ってわけさ。いいご身分だよ! 」
「ああ、実はクンカーから来たんだ。オレと一足違いで騎馬隊にやられたって。
なるほど。その余禄に預かったご仁たち、ってわけだな。あやかりたいもんだぜ」
「お客人はなんの商売をしてなさる? どこまで行くんだね? 」
「アスファハンまで。材木の商いをしに行くんだが、その騎馬隊とやらはどこへ向かったかな。帝国かね。これからドンパチやるつもりかな?」
「さあねえ。馬ごと舟に乗って行っちまったらしいが、舟は貸したらしいから、いずれ返しに来るだろう」
「返しに来るなら商売にはならないが、還って来ないなら、材木が欲しい船大工には売れるな。帝国が全部沈めてくれりゃうまいんだがな! そうすりゃ、こんどはこっちがお大尽さ!」
「がっはっはっは! そりゃあ、いい!」
その晩、アヌークはオアシスに宿を取った。
部屋に入るや、フラスコごとウヰスキーを飲み、通信機を出してアンテナを伸ばした。コーヒー屋で仕入れたネタと騎馬隊の行方を探るためアスファハンまで行くことを伝えるために。
―― ヴィーナスより、マーキュリーへ ――
アサシン・ヤヨイシリーズ ひとくちメモ
32 アヌーク・エーメ、ディープスロ―ト、サラブレッド
去る6月18日。世界的大女優が天に召されました。
作中の「アヌーク・エマール中尉」のモデルです。
以下、ウィキペディア。
「アヌーク・エーメ (アヌーク・エメ、アヌーク・エメー:Anouk Aimée 本名:フランソワース・ソリヤ。ドレフュス Françoise Sorya Dreyfus, 1932年 - 2024年) は、フランス出身の女優。
70年以上のキャリアを誇る、欧州を代表する女優の一人。欧米各国で各賞を獲得するなど国際的にも高く支持され、「映画史上最もセクシーな女優の一人」とも評された。晩年期まで各地で名誉賞を受賞した。
1958年の『モンパルナスの灯』ではアメデオ・モディリアーニの妻ジャンヌ・エビュテルヌを演じ、その美貌で世界的な人気を博した。その後、フェデリコ・フェリーニ監督の『甘い生活』(1960年)や『8 1/2』(1963年)やジャック・ドゥミ監督の『ローラ』(1961年)などに出演した。
1966年、クロード・ルルーシュ監督の『男と女』でヒロインを演じ、ゴールデングローブ賞「主演女優賞」と英国アカデミー賞「外国女優賞」を受賞し、「アカデミー主演女優賞」にもノミネートされた。」
ディープスロート
「ディープ・スロート(英語: Deep Throat)とは、1972年6月にアメリカで起こったウォーターゲート事件で、事件を調査報道した『ワシントン・ポスト』のボブ・ウッドワード記者に指導する形で情報を示した、当時のニクソン政権内部の重要な情報源の人物の通称である。その正体は長い間不明であったが、事件から33年後の2005年5月に、事件当時FBI副長官だったマーク・フェルトが、自分が「ディープ・スロート」であったことを公表して正体が判明した。」
後に「ディープスロート」は主に諜報のシーンで敵側や敵国に潜入した情報源を指す用語になりました。
そこのあなた。
いいですか? あくまでも「内部情報源」のことですからね。ヘンな想像はしないでくださいよw。
サラブレッド
「サラブレッド(英語: Thoroughbred)とは、18世紀初頭にイギリスでアラブ馬やハンター(狩猟に用いられたイギリス在来の品種)等から競走用に品種改良された軽種馬である。
体高(肩までの高さ)は160-170cmほど、体重は450~500kgが標準的。頭は小さく、四肢は長く、胸や臀部の筋肉は発達しており、速く走ることに向いている。一方でケガや病気をしやすく、物音や閃光に敏感など、虚弱かつ神経質な面もある。」
標準的な毛色は、鹿毛・黒鹿毛・栗毛・芦毛で、他に青鹿毛・青毛・栃栗毛がある。白毛・月毛・河原毛・佐目毛・駁毛・粕毛・薄墨毛はかなり珍しい。
はるか西南のドンの王都、ピングー王宮の奥の院では。
「ねええん、陛下あん♡ お願いでございますゥん♡ 今一度、お情けをちょうだいませませぇん♡ ねええん、陛下ってばあんっ♡」
国王の寝所。
贅を尽くした寝台。紫のシルクのシーツを引き寄せた美妓があざとすぎる科を作り、艶のある布地の下の美しい素肌をこれ見よがしにチラ見せしつつ、国王の太鼓腹をつんつん突いていた。
「だああっ、うるさい! もう散々可愛がってやったではないか! まだせよと申すのか」
「えええん? だあって、まだ足りないのです。もっと愛してくださりませぇん、ねええん、陛下ったらぁんっ♡ ちゅ♡ 」
「も、ムリ! そちは底なしではないか! これ以上そちの相手したらこの身が持たぬわ! そちは余をコロす気か? 」
「そんなあん♡ 滅相もございませんわ、陛下あん♡ 陛下大好き♡ 陛下あってのこの王国。わたくしいつも陛下の御体第一に思っておりまするのにん♡ 陛下ったら、イケズですわ♡」
「どうだか・・・」
そう言って、太鼓腹の国王はシーツの中に隠れた。
「とにかく、そちに散々搾り取られ、余はもうクタクタなのだっ! そちも下がって好きにせい! 」
「そんなあ・・・」
「だーっ! も、いいから下がれ! 下がれと言っておるっ! 」
「もしや、陛下はわたくしをお嫌いに? 」
「だーっ、もうっ! そうは言っておらぬではないか! 」
太鼓腹はガバッと身を起こし、美妓の手を取った。そして、その手に脂ぎったドジョウ髭の顔を頬ずりしつつ、切々と語った。
「余はそちを心から愛しておる。側室の中では一番じゃ! あのウルサいババアさえいなければ、すぐにでもそちを正室に迎えたいほどなのじゃ! でも、今は休みたいのだ! それでなくても北の野蛮人どもとか西の豪族どもとかでもうっ! 判れ! 判ってくれ! 頼む! 」
「では陛下。陛下がお相手下さらぬのでは寂しゅうてたまりませぬゆえ、一度里に帰りまして親に顔など見せとうございますが、よろしいですか? 」
「好きにせいと言っておる! 」
「行って来いで、数日ほどおヒマを賜っても? 」
「よい! 許す! だからもうとにかく下がれ! お願いだから、下がってくれ! 」
「うう・・・。わかりました、陛下。お名残り惜しゅうはございますが、これも陛下の御ためと、寂しいのはガマンいたします。でも、きっと。わたくしをお忘れなきよう」
「たかが数日ではないか、大袈裟な」
「お約束くださいませ! いっときも、片時もわたくしを忘れぬと」
「あーもーわかったわかった。忘れぬから早よ下がれ。気をつけるのじゃぞ」
ヴィーナスは、心の中でほくそ笑んだ。
「ふんっ! 」
部屋に戻るとすぐにお付きの女官を呼び、支度を命じた。
国王の気が変わらないうちに。
国王の側室メイリーことヴィーナスは、護衛の一隊を引きつれて王城を出た。
帝国軍の編成ならば1個大隊強、500名もの護衛隊の行進に続いて何両もの壮麗な馬車が王城前大路を西へ、金光門を市街へ出てゆく様は華麗の一語に尽きた。
「よく見てごらん。国王陛下の御側室の行列だよ」
「わーすごい! キレイ・・・」
沿道に立って行列を見送る人々は口々にそんなことを呟いて感嘆した。
王都ピングーの西は延々と続くコウリャン畑。
粛々と進む行列は半日かけてその西端に達した。そこは南北に延びる広葉樹の樹林地帯であり、そこからさらに西に広がる標高の高い砂漠と草原の混在地域、いわゆるステップ気候のような地帯から吹く風が砂を東に運ぶのを食い止める役割を果たしていた。その高地の向こうに、ドンが新たに従えている西の諸豪族の領地、西域がある。
西域への道はその樹林地帯をまっすぐ突き抜けて行くのだが、林の中で行列は止まった。
道から外れ少し林の中に入ったところに滾々(こんこん)と泉が湧く池があった。
車を降りた侍女の一人が護衛隊長に何やら囁くと、一群の兵たちがその泉のほとりに小さな天幕を張り、その周りをぐるりと固めた。
準備が終わるとひときわ豪華な車からまるで天女のような衣をまとったご側室様が現れ、侍女の案内で天幕に入った。
要は、ご側室様の「おトイレタイム」というわけである。
続いて侍女が中に入り、林の中はしばし泉の湧く水音と枝葉を駆け抜ける風の音だけに満たされた。
しばらくして、ご側室様が天幕をお出になり、ふたたび車上の人となった。
「では、出発する! 」
護衛隊長の命令一下、行列は再び動き出した。
一個大隊強の隊列はやがて全隊森を抜けて西域への道を歩き出したが、兵たちの誰一人として、森の中を北に向けて駆け抜けていった馬の蹄の音を聞いた者はいなかった。
こうしてヴィーナスはしばしの自由な時間を手に入れた。
十分に森の中を走り西域に向かう本道から離れてから、ヴィーナスもまた馬首を西へと向け砂漠と草原が入り交じる、岩だらけの高地をひた走った。
もう天女の衣などは着ていない。
西域の民の男たちが身に着ける、地域によってシュマッグとかゴトラと呼ばれるターバンを巻き、これもトーブとかカンドゥーラと呼ぶ身体全てを覆う白い衣をつけ、肩から腰に幅広の革帯を巻いていた。そして、腰のベルトには細身の剣。
ヴィーナスはこの地方産の名馬グレーのサラブレッドの手綱を握り、ただひたすらに西を目指した。
ドン王宮の側室であり、ウリル少将の特務部隊のエージェント「ヴィーナス」、Anouk Aimard アヌーク・エマール中尉は歳の候なら20代の後半。今ヤヨイと行動を共にしているリーズルよりも歳上になる。本来は赤味がかったブラウンの瞳を持つ彼女は色ガラスを仕込んで黒に変え、ブルネットも漆黒に染めていた。
リセ在学中より語学に堪能で帝国語フランス語だけでなくチナ語に通じていたので卒業後は貿易事務所に勤務。徴兵され近衛軍団に配属中にウリル少将に見いだされてスカウトされた経緯はヤヨイと似ている。
ウリル少将は当時から計画されていた対チナ戦争で彼女を豪族ドンの「ディープスロート(潜伏内通者)」として使うつもりだったが、戦役の主舞台が当初予定されていた北ではなく南のミン一族の領地に変更されてしまったため、アヌークはそのままドンの根拠地クンカーに留まり酒場の歌姫兼舞姫として偽装潜伏し続けていた。
生来の美貌が功を奏したのか、運よくドンの最高権力者の目に留まって側室に収まり、今に至っていた。傀儡政府ドンの王宮中枢に食い込んだ、帝国とウリル少将にとっては最重要な情報源でもあった。
そして、もう一つ。
アヌークには、特務部隊エージェントたるに相応しい特技があった。
目の前にオアシスが見えてきた。それを過ぎるとテランの街である。馬にも水を与えねばならない。
丘を越えればオアシスに入れるというところで、アヌークはガラの悪そうな2、3騎に捉まった。
「旅の者か」
親分と思しき一番ガラが悪くて人相も悪い男が声をかけてきた。そのまま突っ切ってもよかったが、オアシスまで追って来られるのも面倒だ。
「だったら、どうした」
つい朝方までの、「ねええん、陛下ったらあん♡・・・」などとトロトロに甘すぎる艶声とは全く違う、ドスの利きすぎた声音を腹の底から絞り出した。
「旅の途中なら、いくらかは持ってるだろう。その毛並みのいい馬と一緒に置いていけ。
2人の手下がジリジリと馬を進めてアヌークに寄った。
「カネも馬も手放せば困るのだが」
「そりゃそうだろう。だが、おいらたちにゃ、カンケーねえ! 」
親分は鞍に差していた旧式な銃を抜いた。帝国軍がごく初期に装備していた先込め雷管式の旧式銃だ。連発はできない。
アヌークは腰の剣をスラリと抜き放った。
「では、腕ずくで奪うんだな」
そして、親分の黒毛に向かって突進した。
泡を食った親分は、その形相の割には場数が足りなかったのだろう。慌てすぎて銃を暴発させた。アヌークは身を低くして避けつつ、黒毛に肉薄して剣を一閃。矢のように通り過ぎてから馬首を返した。
「さあ、どうするのだ! お前たちも同じ目に遭いたいのか! 」
は? 2人の手下は、何を寝ぼけたことをとでも言いたげにアヌークに向かってくる気配を見せたが、銃を持ったままの親分が固まっているのに気付き、ついで、彼の太い首がゆらっと傾いてごろん、と転がり落ちたのを見た。
「う、うげっ! わああああっ! 」
手下たちが算を乱して東の彼方に逃げ去るのを見送ると、アヌークは血糊を振って剣を収め踵を返した。
街の入り口の新鮮な水が流れ込む水場に馬を繋ぎ、鞍を外して肩に背負い、手近のコーヒー屋のスイングドアを押した。
カウンターにかけ、「コーヒーを」と奥にいたトルコ帽の口ひげ男に告げた。
店主は黙ってやってきて、カウンターの下で手にぶら下げた木のホルダーを見せた。
「コーヒーよりも、もっと神に近づけるヤツはどうだね? 」
木のホルダーの中には銀色のボディーに帝国産を示すラベルの貼られたフラスコが入っていた。ウヰスキーだ。
帝国の南にも一神教を奉ずる人々が住んでいるし今の皇帝陛下にしてからがその南の国のご出身だ。彼らは戒律で酒を呑まない。
このドンの西域でも同じ神を奉じていたのだったが、南の国の人々よりは「人間的」なのだった。
でも、南の国の人々の故郷である、今は海の底に沈んでしまった旧文明のインドネシアという国でも飲みたい者は隠れて飲むかそれ用の店で飲んでいたという。それと同じだ。
「街のゴミを掃除してくれたってね。初顔だが、ささやかな礼とお近づきのなんとやらってヤツさね」
テーブル席を見回した。ゴトラを被った男たちが手にしたコーヒーのカップを持ち上げたり、ご丁寧にも右手を胸に当ててお辞儀をしたりしていた。
西域では人の好意を断ってはいけない。素直に受け取ることにした。
「でも、あいにく裏が先客でね。どうせ一晩泊まるんだろう? 宿に帰ってから飲みなよ」
言われれば、カウンターの奥の部屋からは賑やかな声が響いていた。
「なにか、景気のいいことがあった衆か? 」
細身の葉巻に火を点けて、煙と一緒にさりげなく訊いた。店主は奥を指さしながら教えてくれた。
「やつら、小舟で商いしてる連中だということなんだが、数日前にテランに騎馬隊が来てさ。そいつらが景気良く大盤振る舞いしてくれたらしい。舟一艘貸すだけでまる一年分の実入りがあったって! それで、舟もないし、カネはあるし、ってわけさ。いいご身分だよ! 」
「ああ、実はクンカーから来たんだ。オレと一足違いで騎馬隊にやられたって。
なるほど。その余禄に預かったご仁たち、ってわけだな。あやかりたいもんだぜ」
「お客人はなんの商売をしてなさる? どこまで行くんだね? 」
「アスファハンまで。材木の商いをしに行くんだが、その騎馬隊とやらはどこへ向かったかな。帝国かね。これからドンパチやるつもりかな?」
「さあねえ。馬ごと舟に乗って行っちまったらしいが、舟は貸したらしいから、いずれ返しに来るだろう」
「返しに来るなら商売にはならないが、還って来ないなら、材木が欲しい船大工には売れるな。帝国が全部沈めてくれりゃうまいんだがな! そうすりゃ、こんどはこっちがお大尽さ!」
「がっはっはっは! そりゃあ、いい!」
その晩、アヌークはオアシスに宿を取った。
部屋に入るや、フラスコごとウヰスキーを飲み、通信機を出してアンテナを伸ばした。コーヒー屋で仕入れたネタと騎馬隊の行方を探るためアスファハンまで行くことを伝えるために。
―― ヴィーナスより、マーキュリーへ ――
アサシン・ヤヨイシリーズ ひとくちメモ
32 アヌーク・エーメ、ディープスロ―ト、サラブレッド
去る6月18日。世界的大女優が天に召されました。
作中の「アヌーク・エマール中尉」のモデルです。
以下、ウィキペディア。
「アヌーク・エーメ (アヌーク・エメ、アヌーク・エメー:Anouk Aimée 本名:フランソワース・ソリヤ。ドレフュス Françoise Sorya Dreyfus, 1932年 - 2024年) は、フランス出身の女優。
70年以上のキャリアを誇る、欧州を代表する女優の一人。欧米各国で各賞を獲得するなど国際的にも高く支持され、「映画史上最もセクシーな女優の一人」とも評された。晩年期まで各地で名誉賞を受賞した。
1958年の『モンパルナスの灯』ではアメデオ・モディリアーニの妻ジャンヌ・エビュテルヌを演じ、その美貌で世界的な人気を博した。その後、フェデリコ・フェリーニ監督の『甘い生活』(1960年)や『8 1/2』(1963年)やジャック・ドゥミ監督の『ローラ』(1961年)などに出演した。
1966年、クロード・ルルーシュ監督の『男と女』でヒロインを演じ、ゴールデングローブ賞「主演女優賞」と英国アカデミー賞「外国女優賞」を受賞し、「アカデミー主演女優賞」にもノミネートされた。」
ディープスロート
「ディープ・スロート(英語: Deep Throat)とは、1972年6月にアメリカで起こったウォーターゲート事件で、事件を調査報道した『ワシントン・ポスト』のボブ・ウッドワード記者に指導する形で情報を示した、当時のニクソン政権内部の重要な情報源の人物の通称である。その正体は長い間不明であったが、事件から33年後の2005年5月に、事件当時FBI副長官だったマーク・フェルトが、自分が「ディープ・スロート」であったことを公表して正体が判明した。」
後に「ディープスロート」は主に諜報のシーンで敵側や敵国に潜入した情報源を指す用語になりました。
そこのあなた。
いいですか? あくまでも「内部情報源」のことですからね。ヘンな想像はしないでくださいよw。
サラブレッド
「サラブレッド(英語: Thoroughbred)とは、18世紀初頭にイギリスでアラブ馬やハンター(狩猟に用いられたイギリス在来の品種)等から競走用に品種改良された軽種馬である。
体高(肩までの高さ)は160-170cmほど、体重は450~500kgが標準的。頭は小さく、四肢は長く、胸や臀部の筋肉は発達しており、速く走ることに向いている。一方でケガや病気をしやすく、物音や閃光に敏感など、虚弱かつ神経質な面もある。」
標準的な毛色は、鹿毛・黒鹿毛・栗毛・芦毛で、他に青鹿毛・青毛・栃栗毛がある。白毛・月毛・河原毛・佐目毛・駁毛・粕毛・薄墨毛はかなり珍しい。
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熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)
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