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10 ミヤモト課長の破綻した結婚生活
しおりを挟む「課長は、なんで奥さんと別れたんですか」
その話か。とでも言うように、課長は天井を仰いで額をゴシゴシ擦り、俺を見据えました。
「話してもいいけどよ・・・」
課長は、まだ新婚の俺に話す話じゃないけどなと前置きしながらブツブツと喋り始めました。
「二十歳で出会って五年付合い、結婚して五年。別れたのが五年前だ。
それまで俺は『女なんて一晩抱けば思いのままだ』なんて思いあがっていたクソ野郎だった。ニョーボ・・・、もう元ニョーボだが、あいつに会ってそうでない女もいるんだと知った。
キッカケは忘れたが、俺たちは会ったその日から意気投合した。何だか知らんが不思議にウマが合う。お互いに相手の考えが読める。二手三手先を言ってやると、相手もその先を言ってくる。そういう相性のいい、刺激的な時間を共有できる相手ってのはなかなかいないもんだ。それに俺たちは熱中しやすく没入しやすいところも似ていた。俺はラグビーに夢中だったし、あいつは院に行って研究者の道に入ることを夢見てた。だから暗黙の裡にお互いになるべく干渉し合わないようになっていった。思えばそれがまずかったのかも知れんと今は思う。
俺もヤリタイ盛りだから、ニョーボに会えない時間が長くなると我慢できずに浮気をし始めた。敢て知らせなかったが隠すこともしなかった。やがてニョーボも俺の真似をし始めた。アイツも言わなかったし、俺も聞かなかった。でも、そんなのは肌で分かる。お互いに相手のセックスに関しては尋ねなかった。それが大人の行き方だとイキがっていたんだ。ただ、俺が浮気してるのがわかるとニョーボはどんなに忙しくても俺と寝たがった。今思えば、その時はいつもより求めが激しかったな。
俺たちはそんな風にして大学生活を過ごし、卒業して共通の居場所を失ってもまだ同じ時間が流れていると思い込んでた。だけど、周りが徐々に煩くなってくる。いつまでもブラブラしてないで早く身を固めろと。俺の親もそうだが、特にニョーボの親が煩かった。そういう煩わしさから逃れるようにして、俺たちは夫婦になった。
でもな、そのとき既に俺たちは倦怠期を迎えた中年夫婦みたいだった。お互いに苦笑いしながらライスシャワーを浴びてた。お互いに愛し合っている、というよりただ「一緒にいると面白いから」「気を遣わなくて楽だから」だから一緒にいるってだけだったのに、急に面倒なことばかりしなくちゃいけなくなったとお互いが感じてたと思う。
新居が新しい共通の居場所になるはずだったが、新婚最初の月からベッドを共にするのが週に一日も無かった。ニョーボは一日も早く助手から講師とステイタスを上げようとしていたし、俺はこの会社に入って社長に会って心底惚れて仕事が面白くて仕方なかった。
生活の歯車が合わなくなってくると、俺もニョーボも別の相手と寝るようになるのを躊躇しなくなっていった。学生の時と同じ調子でいたわけだ。それでも最後の一線として、お互いの相手を家に入れるのだけは、しなかった。
そんな風に何年かが過ぎていった。
形の上だけは、お互いを思い遣っていた。仕事の話もした。お互いの実家の話もした。たまには夫婦でどこかへ遊びに行こうかと話だけはした。結局行かなかったけどな。
子供の話もした。ここで初めて意見が分かれた。
俺は強いて欲しいとは思わなかったが、もし子供が生まれたら俺たちにも刺激になるだろうな。楽しいかも知れんな、と言った。
ところがニョーボは、今はムリ、と言った。大事な時期に差し掛かっていて、今子供を作ったら遅れを取ってしまう。簡単じゃないよ子育ては。到底出来ない。そんな言葉が続いた。じゃあ、一体いつになったら俺たちは子供を持てるんだろう。そう、投げかけた。
そうしたらニョーボは、そうね、私が助教授になれたら一息吐けるかも。そう言った。
俺は、じゃあその時お前は幾つになっている、と言いたかったが、飲み込んだ。あいつは俺の顔に浮かんでいるその言葉をもう、読んでいたからだ。その代わりに、今日はもう寝ましょう。明日大事な会議があるの。アイツはそう言った。そしてその話題はそれ以降もう二度と話されることは無かった。それからしばらくして俺たちに終わりが来たからだ。
それは唐突に来た。
何日か徹夜が続いてその日はいつもより早めに上がった。
ニョーボに帰ると電話を入れた。あいつもいつもの調子で家で待ってると言った。だから奮発して高いワインを買って帰ったんだ。久しぶりに構ってやろうと思い、まあ、ムードを作ろうとしたんだな。
マンションのドアには鍵が掛かっていなかった。俺のじゃない男物のスニーカーがあり、奥から聞きなれたニョーボの声が、嬌声が聞こえていた。アイツは素っ裸で、同じく素っ裸の若い男の上で腰を振ってた。
いつかそういう日が来るんじゃないかと思っていた。ただ、俺の想像と違ったのは、その当事者が俺じゃなかったことだ。ニョーボがそういうことを演じることは無いと思い込んでいたんだな。やるんなら俺だろうなと。だから動揺した。でもそれだけじゃなかった。心のどこかでホッとしている自分も感じて驚いていた。どっちが本当の俺なのか、わからなかった。
俺がボーッと突っ立っているうちに、若い男はアタフタと出て行った。ニョーボは落ち着いたもんだった。ガウンを羽織り、ベッドに座って俺を見上げてた。俺と別れてあの兄ちゃんと一緒になるんだな。そう訊いた。そしたら、ううんと首を振った。あの子はゼミの子で前から私に興味があったみたいだから誘っただけと言った。
別れましょ、私たち。
俺が言うべきセリフをアイツが吐いていた。ご丁寧に緑色の紙ともう一枚、別の紙を出してきた。何だこれ。そう思って手に取った。同意書だった。中絶手術の。
あなたの子じゃないけど、誰のだかわからなくなっちゃった。だから、お願い、それにもサインして。今生むわけにはいかないの。
アイツの言葉が終わらないうちに手を挙げていた。ニョーボは口の端から血を流しながら、やっと殴ってくれた、と言った。そして、泣いた。
ずっとあなたが好きだった。愛してた。やっとあなたの心がわかった。結婚してから今日が一番嬉しい日だ、と。アイツはそう言った。
そして、今までありがとう、と最後に付け足した。
その時気付いたんだが、俺はそれまでの十年間、一度もニョーボに愛していると言ったことがなかった。そんなのはお互いに言わなくても分かることだと思い込んでた。
でも、それは大きな間違いだったことに、その時気付いた。全てが手遅れになってから、気付いたんだ。ベッドサイドに置かれた二枚の紙の上にニョーボは指輪を置いた。
「もう、五年になるんだよなあ・・・」
二杯目のジョッキを空にして、課長は大きなゲップをし、グーンと体を伸ばし、安楽椅子に深く身を沈めました。
「でもな、お前らは俺らとは違うぞ」
「そうですね。俺は課長みたいに仕事できませんし、嫁も頭ワルイですから」
「違うよ。そういう意味じゃない。コタニはお前にゾッコンだってことさ」
「・・・・・・」
「お前、未だに気付いてないみたいだから敢て言うけど、アイツを狙ってたの結構いたんだぞ。かく言う俺も、あんまり皆が騒ぐんでふざけて口説こうとしてみたことがある」
「そ、そうなんですか?」
「ただし本気じゃないぞ。俺は自他共に認めるスケベだが今まで社内の女に手を出したことは一度も無い。お前結構モテるんだな、今度飲みに行くかって言っただけだ。そしたらコタニの野郎、事もあろうに課長であるこの俺に向かって舌打ちしやがった。他のヤツらも体よくあしらわれたんじゃないのか? そのうちにお前らがデキたのがわかって皆一斉に手を引いた」
「え? そ、そんなのどうしてわかったんですか」
「そりゃ、わかるよお前。それまで『コタニー』って呼び捨てしてたのに、急に『コッ、コタニサン』なんて。お前、必ず噛んでたしなあ・・・。あ、コイツラやりやがったなってすぐわかった。だいたいお前へのコタニのアプローチ、露骨だったろう。目立ち過ぎてた。社内で青春しやがってこの野郎! あのなあ、お前気付いてなかったようだけど、皆なあ、下向いて笑い噛み殺すの大変だったんだゾ」
課長はニヤニヤ笑っていました。
自分の顔が真っ赤になるのがわかりました。多分耳まで赤かったんじゃないかと思います。
「俺はさ、お前らが羨ましいよ。今時オマエラみたいに直球同士のカップルなんて珍しいんだから。どっちが悪いのか知らんが、犬も食わんものなんて、早めに止めとけ。俺みたいに下らんプライド振り回してもロクな事ないぞ」
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