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国立魔法兵士学園編

第13話 善人

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何回謝罪の言葉を綴っただろう。白い世界の中で僕は「ごめんなさい」を言い続けた。今も、あの2人は戦い続けている。僕が助けを呼ぶことを信じて。僕の、帰りを信じて。

 もう全てを捨ててしまった方が。楽なのだろうか。

「お顔を上げてよお兄ちゃん」

「—————へ?」

 拍子の抜けた間抜け声を晒した。こんな状況で声を掛けてくれるなんて思わなかったから。

「何か悲しいことがあったの?私全然わからないけど。けど、そんなお顔していたら幸せが逃げちゃうよ?」

 幸せ。そんなものがこれから自分に訪れてくれるのだろうか。友を見捨て、自分だけが助かる道を選んだこんな人でなしに。

「お兄ちゃんってさ、まほうへいしがくえんの生徒さんでしょ?」

「え‥‥どうしてわかるの?」

「だってそれって剣じゃないの?」

 少女が指を指したのは腰に備え付けられた木刀。指摘されるまで忘れていた。そういえば寮を出る前に護身用だと言われてエリサに渡されていたことを。

「ママ言ってたよ!まほうへいしがくえんに通う生徒さんたちはみんな強くて!将来立派なお国を守る兵士さんになるんでしょ!?わたしの学校でもみんな憧れてるんだ!」

 絶対の期待と全幅の信頼を寄せ、目を輝かせている少女の言葉に強い焦燥感を覚える。

「僕は、僕は何をしているんだ‥‥‥」

 兵士。そう、僕は兵士を目指している。それは弱き者を助け困っている人に手を差し伸べる存在。なのに、今僕がやっていることはなんだ。醜い本心を曝《さら》け出し、挙句の果てには友人を、真実を知らない少女を裏切る始末。これがどうして皆んなを守る兵士になるという台詞が吐ける?

 違う——違うだろカナタ・ガーベラン。何を立ち止まる必要がある。これはお前が選択したことだろ。周りがどうなっても自分さえ助かればいい、自分が嫌いになっても、身勝手に少女を振り回しても、一刻も早く安全な場所に逃げられればいい。それだけだったろ。

なのに———どうして今になって。

「お兄ちゃん。私ね、前にママに言われたの。たくさん泣く人は優しい人なんだって。涙を流さない人って何かを悲しむ優しさを持ってないから泣かないんだって。きっとお兄ちゃんは、優しい人なんだね」

 何かが剥がれ落ちていく。偽りの自分が、皮を被った自分が。今の今まで溜め込んできた全ての嘘が剥がれていく。

 あぁ、そうか。僕は心の底から悪人になることができなかったんだ。友を見捨て、これから先平然と生きられるほど強い人間じゃなかった。今この瞬間に少女を騙して逃亡への一歩を踏み出せるほど肝も据《すわ》わってない。

 時と場合に応じて善人にも悪人にもなる。いや違う。どちらにもならない僕は中途半端な人間だ。そんな奴がこれからの元に行ったところで何か意味があるのだろうか。

「お兄ちゃん?」

 もういいうんざりだ。これ以上言い訳をして自分を嫌いにさせるなカナタ。取り返しがつかないことになっていたとしても。今、目の前にいるこの子だけは守ろう。この子は間違いなくあの化け物の標的になっていたんだ。

なら———この命を賭して。彼女を守ろう。それが‥それが出来損ないの兵士にできる最後の役目だ。

「ううん。ごめんね、もう大丈夫」

「ほんと?」

 純粋な黒瞳で見つめる少女。カナタはそっとその小さな頭に手を添えた。

「ごめんな。お兄ちゃんこれなら行かなきゃいけないところがあるんだ————っ、君1人にさせてしまうけど、大丈夫かな?」

 話し途中に震える声を抑えながら少女に提案する。それは酷く残酷で、ここまで一緒だった少女を突き放すものだ。

「え?お兄ちゃん、どこ行くの?」

「それは————友達のところにかな」

「お友達?あ!もしかして、仲直りしに行くの!?」 

「仲直り———そうだね。仲直り、してくるよ」

 すると少女はパッと顔が明るくなると、「大丈夫!」と声を張り上げた。最後に、痛む胸を抑えながら僕は少女に語りかける。

「これから君に向かってほしいところは———」

「お役所でしょ!」

「だったけど。ちょっと変えてもいいかな?」

 役所に行っても少女の母親は待っていない。そもそもどこを探しても、どれだけ待っても少女の母親は帰ってこない。少女は首を傾げると僕の話に耳を傾ける。

 もし、僕に何かあった時。役所の人間が少女を守り切れるとは考えられない。なら確実に少女を守ってくれる場所。僕はに向かうよう指示し、最後に伝言をお願いすると彼女は頷き、ゆっくりと小さな歩幅で歩き出した。





 間に合え———間に合え———間に合えッ!!

 ここまで来た道は鮮明に覚えてる。正確に、そして真っ直ぐに暗く、不気味すぎる路地をただひたすらに駆け抜けていく。あの場から逃げてきたと同じくらい頭の中はからっぽだ。正直血迷っていると思う。今更殺されに向かうなんて。

 足を止めて引き返すなら今だ。そんなことを片足片足を踏み出すと同時に考えている。ただ今足を止めてしまえば、一度走り出したこの足を止めてしまえば、僕はもう2度と前に進むことができなくなる。それが何よりも怖い。決心した覚悟が瓦解《がかい》しそうで恐ろしい。
 
 そしてとうとう、視界に入る死の曲がり角。ここを曲がればアイツが、あの化け物がいる。そして鈴鹿が、アカネが奮闘しているはずだ。

 そうして身を翻しながらカーブする。住宅街の路地から抜けて、一度は逃げ出した地に再び。

 謝ろう。まずは謝って、それから邪魔にならないように戦いに————

「え?」

 視界に入ったのは、鈴鹿やアカネの姿でも、化け物の姿でもない。誰もいないいつもの路地の一角だった。もはやあれら全て夢だと言われた方が合点がいくほどに。

「一体どうなって————」

「何しに帰ってきたんです?君」

 重々しく、脳天を貫くその声を忘れるわけがない。体が硬直するこの感覚も、ただ息を呑むことしかできないこの無力さも。

「仲間を見捨てて一度逃げ出した君が。どうしてまたここに?」

 一度味わっているからか。動かなかったのは今の一瞬だけだった。カナタは後方に急いで飛ぶと、化け物と正面向かって見合わせた。

「お前————ッ!アカネたちをどうした!」

「アカネ?あー。あの子たちのことですか。おかしいですね。てっきりお迎えにきたと思ったのですが、違いましたか?」

「なに?」

 言っている意味が理解できず。その場で混乱していると、化け物はすぐまた口を開いた。

「あーそっか。ごめんなさいごめんなさい。今、見えるようにしますね」

 組んでいた腕を解くと、巨大な腕を天に掲げて指を鳴らした。すると途端に夜道でただ暗いだけだと思っていたあらゆる黒色が晴れていく。暗かったからじゃない。今立っているこの地面も黒いなにかで染め上げられていただけで、本当ははっきりと見ることができたんだ。

 暗黒の世界がフェードアウトしていくと、とてつもない吐き気と悪辣が僕を襲った。住宅街の壁は一面に真っ赤な血が飛び散っており、惨《むご》たらしい引っ掻き傷や血痕がこの場を地獄に飾り付けていた。

 自然に視界は足元へと移ると、眼球が抉られるほどの衝撃を受ける。

「え————これは、まさか」

 信じられない、これが——なのか。とてもじゃないがこれを、現実を直視することができなかった。

「よく見てあげなさいよ。大事なお友達なのでしょ?確か‥‥その体型から察するに。アカネちゃん?でしたっけ?」

 脳内で処理するよりも早く、化け物が現実を僕に突き抜けた。腕や脚は不規則な方向に曲がり、傷口からは大量の血を噴き出している。

「どうして、こんなことに‥‥‥」

「どうしても何も。君が選んだ選択違いますの?2人を見捨て、自分だけ助かる道を君は選んだんです。こうなることも分かりきっていたでしょう?」

 背後で化け物が軽蔑の眼差しを向け、罵倒する中僕は血の池で動かなくなったアカネをそっと抱きかかえた。

「———ッ!ごめん。ほんとに‥‥ごめんなさい」

「謝罪なら本人と面に向かってお話し下さい。あの世で」

 鋭く光る銀製の槍をその手に宿すと、項垂れ戦意を喪失したカナタに向けて突き刺した。しかしその場に響いたのは人肉を貫いた音とは程遠く、甲高い金属音。強烈な一撃はコンクリートを木っ端微塵にさせた。

「この期に及んでまだ生きられますか?」

 心臓を貫かれる刹那。ありったけの力を足裏に振り絞り、カナタはアカネを抱えたまま化け物から距離を取った。

「ごめんアカネ、君をこんな風にした僕が言える台詞じゃないけど。僕に、勇気を—————ッ」

 そっとアカネを鉄壁に寄り掛からせるようその場に降ろすと、化け物に向けて抜刀する。

「まったく救いようのない‥‥開き直りだとは思わないのですか?まぁ、おめおめと命乞いされるよりはマシか」

「責任なら取るさ。僕がここでお前を倒して、アカネも、鈴鹿君も全員救い出す」

「————なるほど。気づいていましたか」

 アカネの息は続いている。

 まだ僅かながら心臓が動いている。

 今すぐ手当てをすれば、もしかしたら助けられるかもしれない。

 雲を掴むような望み薄の可能性。それだけが、今の僕を突き動かす原動力になっていた。

「君がここに来たタイミングもなんとも絶妙でね。丁度息の根を止める直前に現れたものだから、損ねたんですよ」

「鈴鹿君はどこだ」

「さぁどこでしょう?うっかり消し炭にしてしまったかもしれません————そんなことよりご自分の心配をなされたらどうです?」
 
 唾を飲み、喉を鳴らすと同時に精神を研ぎ澄ませえ握られた木刀の切っ先を奴の頭部に合わせる。

————自分に、勝てるのか。

 極地を超えた緊張をその身に纏いながら、カナタは自分にとって始まりの一歩を踏み出した。
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