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がつ子、社会の荒波にもまれる
7.
しおりを挟む「仕事に戻りたいんですがそろそ――」
ぬ。
ふんぞり返る和田に影が射す。
「今戻った」
声がかかった。広居主任だった。むっすりと眉間に皺が寄っている。
「和田。新人を困らせるな」
「えー……」
冗談をたたみかけようとしていた和田がすん、と口を閉じた。
「はーい」
ゆる細マッチョが口を尖らせるのを視界の隅で捕らえながら、同じ島の広居主任の席へ向かう。
「お帰りなさい」
「ん」
いつもはぴんしゃんとした美ゴリラが疲れを隠しきれていない。椅子の背にかけたジャケットから雨の気配がする。
「今日は定時で上がれそうなんじゃなかったのか」
「それが、その――」
「お先に失礼、しまーす」
慌てて帰り支度をした和田が脱兎のごとくフロアから出て行く。
がらんとしたオフィスにふたり、取り残された。
「……あいつか」
端末の電源を投入し、タスク管理ツールを立ち上げて広居主任が溜め息をつく。
まさしくボトルネックだ。急遽割り込んできた和田の資料作成依頼がガントチャート上にでん、と居座って業務の流れの障害と化している。
「和田のこれ、終わってるのか」
「はい、終わらせました。最優先でとのことでしたので」
「残りを片づけてしまおう」
「はい」
ぺこり、と頭を下げ樹子は自席に戻った。営業の島で広居主任がネクタイを緩め、シャツの袖をまくっているのが見える。
――絵になるな。
あらぬ方へ視線を投げ袖を折る仕草がいい。片方の袖を終え、もう片方の袖のボタンを外すときに上体をわずかにひねる、そうして顕れるくびれは女のなよやかなそれとは遠い。しかし一日働きとおした男の疲れた姿は意外に美しかった。
ぼんやり、見蕩れた。
休日を控えふたりきりの夜のオフィス、一週間のタスクもあと少しで終わりが見えている。どうしても、気が緩んでしまう。
「ん」
袖まくりを終えた広居主任と目が合った。つかつかと事務の島へやってくる。
「どうした?」
「いえ、その、――何でもありません」
「疲れているなら週明けにまわしても――」
「いえ、できます。だいじょうぶです」
「大路」
デスクの島をまわりこんで近づいてきた巨体がゆっくりと隣席に腰掛けた。マウスに載せていた樹子の手がそっととられる。解こうとしたらさらに深く握りこまれた。
「週末の約束は、有効?」
「はい……」
「よし」
手が離れる。包まれていた利き手が熱い。
「さっさとすませてしまおう」
「はい」
広居主任が気になるのは変わらない。でも約束の確認ができて、何より手に触れることができて先週のできごとが、週明けの約束が夢でないことが分かって
――そうだ、さっさとすませてしまおう。
残りの仕事へちゃんと気持ちを向けられるようになった。
そもそも和田に仕事を押しつけられた時点で予定していたタスクの残りは一時間分だった。残業は残業だが夜遅くなることもなく樹子はひとり先に退勤し、
――すまない、もう駆け引きとか一切合切抜きでとにかく、お願いだからうちに泊まりに来てくれ。
上司の懇願に折れて着替えやら何やらをボストンバッグにつめ洗濯をすませた。
――お泊まり、かあ。
広居主任からは月曜朝まで滞在するよう重ねて頼まれたが、樹子としては先週と同じく土曜には自宅アパートに戻るつもりでいる。帰途、残業中の上司と「土曜」「月曜」「土曜」とチャットツールで平行線のやりとりを交わした結果、樹子の主張が通った。連続お泊まり会だなんて、学生時代ですらしたことがない。一泊が限度だろう。合宿じゃあるまいし。部下とのお泊まりに前のめりすぎる上司にどん引きの樹子だが
――忘れもの、ないよね。
自身もかなりそわそわしている。
一泊なのだから、必要最低限の荷物でいい。通勤鞄から小さいショルダーバッグへ財布やスマートフォン、部屋着に下着や靴下の替え、洗面用具に歯ブラシ、化粧道具。常備薬などこの一週間、買いそろえておいたもの。
はしゃいでいる自覚はある。正直、楽しい。
〈今、着いた。玄関前にいる〉
広居主任からのメッセージ受信と当時に
ぴん、ぽん。
玄関のチャイムが鳴った。
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