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第1章:静寂に沈む船出
5、偽りの微笑(前半)
しおりを挟む港に、着いたらしい。
無機質な船内放送がそう告げたとき、私はまどろみの底から、冷たい手に首を掴まれて引き上げられるような感覚に襲われた。」
照明は変わらず、鈍く黄色い。湿り気を帯びた錆びた空気が、肺の奥に絡みつく。誰かの肩が叩かれ、誰かが背を押され、誰かが黙って列に加わる。その一つひとつが、まるで同じ型で作られた機械の動作みたいだった。
私も、抗うことなく、その流れに身を委ねていた。
一歩、また一歩と足を動かすたびに、視界がゆらぐ。霧のような何かに魂ごと飲み込まれていくような感覚。目の奥がぐらつき、足元が頼りなくなる。
「立て。歩け」
背後から投げられた声に、反応する気力もなかった。ただ前を歩く子の背中だけを目印に、機械のように動く。きぃ、と扉が軋む音がして、前方から白い光が差し込んだ。けれど、それは希望の光ではなかった。
それは——霧だった。
乾いた風が霧を巻き上げ、船の中へと吹き込んでくる。港の輪郭は何ひとつ見えず、ただその白い帳の向こうに、ぼんやりと何かが蠢いているような気配だけがあった。
子どもたちは一人、また一人と船を降りてゆく。
ある少年は霧の中から現れた大人にしがみつき、わっと泣き出した。ある少女は修道服の女性に手を引かれ、伏し目がちに頭を下げた。
小さな再会が、まるで連鎖のように繰り返されていた。けれど、その一つひとつがどこか不自然で、舞台の幕間のように見えた。台本通りに動く登場人物たち——私は列の脇で、その光景を静かに見つめていた。
皆の顔には、安堵と戸惑いと、別れの痛みが微かに混じっていた。
……そのときだった。
霧の向こうから、ひとりの少年が現れた。
白磁のような肌、淡い金の髪。虹の破片を沈めたような、色の定まらない瞳。背は高くないのに、どこか際立っていて、他の誰とも違う何かを纏っていた。まるで、物語の中から抜け出してきたかのような。
空気が、一瞬止まった気がした。
彼は何も言わず、ただ静かに船員に付き添われて歩いていた。無表情でも、虚ろでもない。むしろ、すべてを把握しているような——そんな歩き方だった。
子どもたちがそっと視線を向ける。その気配に気づかずにいられず、私も目で彼を追っていた。
やがて彼は、私たちが押し込められていた船室へと入っていった。
ごとり、と扉が閉まる。重い音だった。まるで、また一つ世界が分断されたような感覚が胸に広がった。
しばらくして、監視官たちが食事を配り始めた。
銀色のトレイに乗せられていたのは、乾いてひび割れた塊のようなパンと、底に沈殿物が見える薄いスープ。それが何のかけらなのか、私たちにはもう、考える気力すらなかった。
これは食事じゃない。ただ生きるための装置。
「誰もが無言で受け取り、音を立てぬように口へ運ぶ。反抗や規律の乱れは許されず——すべてが見張られている。
そして、あの少年の番が来た。
彼は静かにトレイを受け取り、ふと顔を上げた。
その目が、まっすぐ監視官を見た。
「ありがとうございます」
その一言を、彼は何のためらいもなく口にした。
媚びでも、命乞いでもない。ただ、そこにあって当然の所作のように。
そして——笑った。にこり、と。
それは柔らかな笑みだった。けれど、私にはすぐに気づいた。その笑みには、どこか「形」だけが先に浮いていた。温度が、感情が、ほんの少しだけ追いついていない。
監視官は目を細めたが、何も言わずに次の子へと動いた。
ざわめきが広がった。
その一瞬を、誰もが見ていた。
異質なものが、ひとつ。この船室に差し込まれたようだった。
その波紋は、霧のように静かに、でも確実に、部屋の隅々へと染みこんでいった。
私は、スープ皿を見下ろしていた。動かす手が止まっていた。
どうして、あの子は笑えるの?
どうして、あんなに自然に「ありがとう」なんて言えるの?
口にした言葉じゃなかった。所作、目線、姿勢……全部が、完成された演技のように思えた。なのに、なぜか嘘には見えなかった。
そっと顔を上げると、彼はすでに席についていて、スープをひと口すすっていた。
ただの食事風景——そう見えるはずだった。けれど。
彼の瞳は、深くて、透きとおっていて、何色とも言い表せない。
そして、彼はまた——微かに、笑っていた。
その笑みに、何が込められているのかはわからない。
なのに——怖い。
心臓が、どくんと跳ねた。
そのときだった。彼の目が、ふいにこちらを向いた。
私は、息を止めた。
逃げられなかった。視線に貫かれたように、ただ、その場に凍りついた。
……あの笑みの奥にあるものは、いったい何?
霧の向こうから来たこの少年は——いったい、何者なの……?
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