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第3章:霧の向こうで
41、朝露の音(前半)
しおりを挟むしずくの音がやけに大きく聞こえた。
ぽとり、ぽとりと、どこかで葉を叩く水の音。まだ夜の匂いが残る湿った空気が、私の頬に静かに触れている。まるで世界全体が、柔らかい霧の中で、息を潜めているみたいだった。
私は、ゆっくりと目を開けた。
薄い毛布の重さが、ほんの少しだけ、心地よい。だけど、私はもうここで眠っていられない。ルーカンに言われていた。
——明日の朝、三時ちょうど。森に行こう。
低く、でも確かに響くその声が、まだ耳の奥に残っていた。
私はそっと体を起こす。隣のベッドで、レオが静かに寝息を立てていた。イザベルも、ニコラも、みんなまだ夢の中。だけど、彼らも目を覚ますはず。ルーカンが「行く」と決めたのなら、きっと、もう動いている。
私も——行かなきゃ。
布団を押しのけ、足を床に降ろす。ひやりとした感触が、まだ夜の続きだと教えてくる。私は息を殺しながら、ゆっくりと立ち上がり、ほとんど音を立てないように部屋を出た。
廊下には、朝というにはまだ遠い、濃い闇が漂っていた。
私の頬に、しっとりと湿気が張り付く。まるで空気の中に水が溶けているみたいだ。肌を撫でる冷たさは、目を覚ましたばかりの私の感覚を、じわりと研ぎ澄ませていく。
廊下の角を曲がったところで、ルーカンが待っていた。
彼は壁にもたれ、目を伏せている。だけど私が近づくと、ゆっくりと顔を上げた。
「来たな」
それだけの短い言葉なのに、胸の奥が少しだけ温かくなる。
私は黙って頷く。ルーカンは、私たちの誰よりも静かに、でも確かに先を見ている。彼が「やる」と決めたなら、それはもう、動くということだ。
後ろから、小さく足音が続いた。
レオが来た。ニコラも。イザベルも。誰も何も言わない。ただ、目が合っただけで、わかる。
私たちは、もう、言葉を交わさなくても、動けるようになっていた。
……少し、慣れてきたのかもしれない。
8号島での暮らしも、監視官たちの目の抜け穴も。ルーカンが見つけた「一時間だけ監視カメラが止まる時間」も。
「他のカメラは動いてる。ここを抜ける時は気をつけろ」
そう言っていた彼の声を、私は何度も思い出してきた。
私たちは、慎重に、でも迷わず歩を進める。
冷たいコンクリートを踏みしめ、中庭へ抜ける。
湿った空気の中で、草に結ばれたしずくが落ち、ぽたり、と音を立てた。朝露のしずくの音だけが、霧に閉ざされた世界でひどく鮮明に響いている。
息をするたび、ほんのかすかに、土の匂いが鼻をくすぐった。
この空気、この匂い、そしてこの時間。
大人たちの目がない、たった一時間。私たちは、ここで息をすることを許されている。
ルーカンは、振り返りもせず、森の入り口まで歩くと、ひとつだけ合図をくれた。
「走るぞ」
その低い声に、私たちは同時に頷く。
目の前に広がる白い霧。その向こうにあるのは、誰にも奪われない、自分の足で踏みしめる場所。
私は、一歩、森に踏み込む。
足元で、しっとりと濡れた草を踏みしめる感触が伝わる。
走り始めると、空気の冷たさが、頬をすり抜けていった。
……どうして、私たちは、こんなことをしているのだろう。
ふいに、そんな疑問が浮かんだ。
ルーカンは「体力をつけるためだ」と言った。走ること、足踏みを続けること、握力を鍛えること。全部、逃げるためでも、戦うためでもない。ただ「生き延びるため」に必要なもの。
——でも、それだけ?
私の胸に、小さな霧のような問いが渦巻く。
走っていると、ニコラが私の横に並んだ。
「ミナ、こっちの方が走りやすいよ」
息を切らさないまま、ニコラは草の少ない小道を指差す。彼も、ルーカンみたいに、こういう小さなことを毎日観察している。
「うん、ありがとう」
私は短く返し、その道に足を向けた。
しずくが、ぽとり、とまた落ちる。
しん、とした霧の中に、その音だけが残る。
走るたびに、草の葉が私の腕をかすめる。湿った木の皮に、手が触れる。土の香りが、少しずつ濃くなる。
私は息を吐きながら、静かに思った。
これが、私たちの「やれること」なんだ。
走る。足を踏み出す。呼吸する。それだけで、私たちはここで「生きている」って、たしかめているんだ。
ルーカンの背中は、少し先で、霧に溶けそうなくらい静かだった。
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