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第3章:霧の向こうで
42、朝露の音(後半)
しおりを挟む私たちの足音を吸い込むように、森は静かだった。
しん、とした空気の中で、私の心臓の鼓動だけが、自分の体の奥で不思議に大きく響いている。
ふいに、前を走っていたルーカンが手を挙げた。
私たちは自然に足を止める。
「この先にいる。たぶん、いつもの場所だ」
ルーカンが振り返り、私たち一人ひとりの顔を確かめる。
私は小さく頷いた。
霧の向こうに、見慣れた影がぼんやりと現れる。その姿を見た瞬間、私は思わず肩の力を抜いた。
彼らは、いつものようにそこにいた。
「フィリックス!」
私が声をかけると、フィリックスはちらりとこちらに目を向けて、静かに手を挙げた。
琥珀色の瞳が、相変わらず深くて静かで、でも私は、その奥にある微かな温かさを、ちゃんと知っている。
「おはよう」
「おう、今日も早いな」
彼は私たちを迎えるように、軽く顎をしゃくった。
レオが息を弾ませたまま、にこにことフィリックスの隣に駆け寄っていく。
「昨日教えてくれた道、ちゃんと通れたよ!」
「それは良かった」
フィリックスは小さく笑った。
彼は森のことを本当に良く知っている。森で足を取られない歩き方も、獣道の場所も、鳥が好んで集まる枝の形も、全部。
私たちがここへ来てから、彼は少しずつ、私たちに森のことを教えてくれるようになった。……でも、そのことは、大人たちには絶対に知られちゃいけない。
「ミナ」
やわらかい声に振り向くと、そこにセリオンが立っていた。
「今日はこっちの道を使ったんだね」
「うん。教えてもらった通りに行ったら、迷わず来られた」
私がそう答えると、彼はふっと安心したように笑った。
セリオンは、言葉数は少ないけれど、誰よりも静かに、優しく見ていてくれる。私は、彼に対してはもう、ほとんど警戒心を持っていなかった。
「足、痛くない?」
「少しだけ。でも、平気」
「……無理しないで」
私の声は笑っていたけれど、心のどこかで、本当に彼のそういうところに、救われている自分がいる。
少し離れたところで、サラが、ニコラとイザベルに何か話しかけている。
「これね、鳥の足跡だよ。見て、ここからあっちに飛んでる」
彼女は、霧の薄い地面に小さく残った爪先の跡を指さしていた。
イザベルが興味深そうに覗き込む。
「ほんとだ、すごい……」
「サラはこういうの、よく見つけるよね」
ニコラが素直に感心した声を上げる。
サラは嬉しそうに、小さく胸を張った。
「森、好きだから」
その声が、なんだか可愛くて、私はつい笑ってしまった。
「今日はどのくらい走る?」
フィリックスがルーカンに声をかける。
「あと二周くらいして、少しだけ筋トレを入れる」
「了解。セリオン、カリセール、行くぞ」
「はーい!」
カリセールが明るく返事をし、私たちは再び、ゆるやかに走り始める。
もう、私たちの間に、ぎこちなさはなかった。
私も、ルーカンも、レオも、ニコラもイザベルも、いつの間にか彼らと自然に話すようになっていた。
私たちは、名前を知っている。顔を知っている。走る歩幅も、息を整える癖も、少しずつ、少しずつ分かってきている。
そんな関係が、ここで、確かに芽生えている。
私が走る横で、ルーカンがふいに口を開いた。
「……動きにくいな、まだ」
「え?」
「肩の使い方が硬い」
「あ、うん……」
私は少し恥ずかしくなって、ぎこちなく肩を回してみる。
ルーカンは小さくため息をついて、でもその声はどこか優しかった。
「続ければ慣れる。……でも、焦るなよ」
彼がそう言ったとき、ふいに私の心に小さな光が灯った。
たぶん、きっと。
私たちは、もっと速く走れるようになる。
もっと強くなれる。
でも、強くなることが、きっと「ここで生き延びること」と同じなんだ。そう思うと、少しだけ苦くて、でもほんの少しだけ、嬉しくもあった。
朝露が、再び、葉の先からこぼれ落ちる。
ぽたり、という音が、私の心に深く響く。
私たちは、また明日も、ここで走る。走りながら、少しずつ、森のことを覚える。
少しずつ、体を作っていく。きっと、この先も。
霧の向こうに、まだ見えない未来が広がっている。
でも、私は、今、確かにこの瞬間を走っている。
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