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第3章:霧の向こうで
49、言葉の贈り物(前半)
しおりを挟む夕暮れの茜色が、森の梢を静かに染めていた。
私は肩越しにゆっくりと流れていく空を見上げる。
一日中夢中になっていた糸紡ぎの手仕事も、だんだんと疲れが滲み始めていた。
木の枝に絡まった細い草の糸を、私はそっと指先で撫でながら考えていた。
隣のレオやニコラ、イザベラは、どうにもそわそわしている。学習時間にしては、あまりに落ち着きがなかった。
レオは何度も周囲を見回し、ニコラは言葉少なに舌なめずりをし、イザベラは時折目を伏せては私の視線を避けていた。
「どうしたの?」
私は小さく声をかけた。
イザベラは小さく息を呑み、口元を指で押さえたままだった。
何か秘密があるらしい。森の澄んだ空気が重く感じられ、胸の奥に不穏な影が差し込む。
「……気にしすぎだよ、ミナ」
レオは短く言って、ぎこちない笑みを浮かべる。
でも、その笑顔はどこかぎこちなくて、本当は落ち着いてなんかいないことを隠せていなかった。
私たちがこうして森の中で夢中になって過ごせるのも、倫が与えてくれたわずかな自由時間の一環だと思っていた。
糸を紡ぎ、籠を作り、薬草から薬を作る。そんな地味な作業の中に、私たちは小さな楽しみを見つけていた。
けれど、そのささやかな幸せの裏側で、誰かの視線が、私たちを監視している。
不意に、そんな冷たい感覚が私の背筋を凍らせた。
――来る。
それは、気配でわかった。森の静けさが、何か別の色を帯び始めたのだ。
足音が落ち葉を踏みしめて、私たちに近づいてくる。
「アルベロスだ。」
レオの声が小さく震えた。
アルベロスは普段は森の巡回に来ることはないはずだった。
だが、今夜は違う。
目の端でそっと振り返ると、木々の間から、長い白衣をはためかせた男の姿がゆっくりと現れた。
彼の目は深く、獣のように鋭く輝いていて、好奇心というよりも、獲物を狙う狡猾な光がぎらついている。
「やっぱり、見つけてしまったか」
彼の低い声が、森の風に混じって私の耳を刺した。
アルベロスはまるで私たちを観察対象の実験動物のように見下ろしている。
その存在が、突然この静かな楽園を染め上げる暗い影のようだった。
「逃げよう」
ニコラがレオの腕を掴み、震える声で囁いた。
イザベラは半泣きのまま私の隣に寄り、私が自然に彼女を包み込むように体を動かした。
「静かに……声を出さないで」
私はイザベラの目をじっと見つめ、無言で促す。
レオは顔を蒼白にして、必死に唇を押さえていた。
アルベロスは無言で、私たちの秘密の小さな基地へと足を踏み入れてくる。
その一歩一歩が、まるで冷たい刃のように心を締めつける。
「これは……いいね」
アルベロスは秘密基地を隅々まで舐めるように見渡し、目に浮かんだ好奇心が一層深くなった。
彼は私たちの作った小さな籠を指で弾き、薬草の束を持ち上げ、ふっと鼻先で匂いを嗅ぐ。
「君たち、ここでずいぶん楽しいことをしているようだね」
私たちは誰一人、声を出せなかった。
アルベロスは、一歩、また一歩と倫に近づく。
倫は一瞬だけ私たちを見た。
何を考えているのかわからなかった。
けれど、その次に彼が発した言葉に、私は凍りついた。
「このこと、黙っていてくれるなら、僕は協力するよ。」
アルベロスの目が、嬉々と輝く。
「ふむ。協力とは、どういう内容だね?」
「……次の実験、夜間の追加検査。君が求めるなら、進んで協力する。拒まない。」
「いいのかい? 君は、それがどんな内容でもいいということかね?」
倫は、ほんの一瞬だけルーカンを見た。
ルーカンは食いしばった歯を鳴らし、今にも飛び出しそうな顔をしていた。
けれど、倫が静かに首を振ると、ルーカンはその場で凍りついた。
「いい。僕は、この子たちを守りたいだけだ。」
その言葉を聞いた時、私の心が、ざらりとした痛みを覚えた。
倫は、私たちのために、自分の体を差し出すつもりだった。
アルベロスはその返事に、心底嬉しそうに口角を上げた。
「面白い。君は……実に面白い。」
その目は、もはや私たちではなく、倫だけを見つめていた。
倫という存在を、彼はどこか特別な『興味深い実験体』として見ている。
彼は倫の反応を観察し、どうすればより良い結果が引き出せるかを楽しんでいるのだ。
「では、今夜、私の部屋においで。条件はそれで成立だ。」
そう告げると、アルベロスはゆっくりと踵を返し、森の奥へと消えていった。
彼が去った後も、私たちはしばらくその場から動けなかった。
倫はいつも、そうやって私たちを守ってきた。
でも、その代わりに、彼は何を差し出してきたのだろう。
私の中で、静かに、冷たい痛みが膨らんでいく。
倫のいない夜は、もしかしたら、いつもこんなことを繰り返していたのかもしれない。
私たちの知らないところで、彼はずっと……
私はその想像を途中で断ち切った。
レオが、突然、震えながら倫にしがみついた。
「ご、ごめん、ごめんなさい……!」
倫はレオの頭を軽く撫でて、いつものように優しく笑った。
「いいんだよ。いずれ、大人たちにバレると思ってたからね。今日が、ちょうどいい機会だっただけ。」
倫のその笑顔が、私にはとても、遠く感じられた。
私は倫に、何も返せなかった。
――私は、あの人の力になりたいのに。
私の胸に、どうしようもない罪悪感が、夜の帳のようにゆっくりと降りてきた。
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