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第4章:鏡に映る心の影
64、名を呼ばれない少女(後半)
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港に満ちたあの静けさは、きっと私たちの中にも、深く染みこんでいたのだと思う。
倫は、監視官に腕を掴まれても、何一つ抵抗しなかった。
彼は知っている。逆らうことが、私たち子どもたちにどれほどの不利益をもたらすかを。
彼は、いつもそうだ。冷静で、正しくて、私たちの誰よりも規律に従っているように見せて、その実、私たちを守るためにあえて従順なふりをしている。
けれど、彼の呼んだ「宮乃」という名前が、どうしようもなく私の胸に引っかかっていた。
私も、ルーカンも、その名前を知らなかった。
いや、私たちだけじゃない。きっとこの8号島にいる誰も、彼女の名前を聞いたことがない。
それなのに――倫は、呼んだのだ。
「倫……あの子のこと、知ってたんだよね……」
戻る道すがら、私はふと口を開いた。
「……ああ。」
ルーカンは短く返す。
彼の声はいつもより低く、どこか沈んでいた。
灰色の空の下、私たちは足元の冷たい石畳を見つめながら歩いた。
「だけど、倫が知り合いを、この島で見るなんて……考えたこともなかった。」
ルーカンは黙っていたが、少しだけ眉を寄せていた。
きっと私と同じだ。驚きと、不安と、そして……言葉にできない奇妙な感情が渦巻いている。
8号島に来た子どもたちは、名前を失い、番号で呼ばれる。
ここでの生活は、「実験」のためのものだ。
一度この島に送られた者は、もう二度と戻れない――そんな噂が、この島には根強くある。
だから、本来ならば、ここで知り合いに出会うなんて、誰も喜べない。
私たちは無言で部屋に戻った。
扉を開けると、レオとイザベラ、ニコラが私たちを待っていた。
レオはすぐに立ち上がり、興味津々に私たちへ近寄ってきた。
「なあ、新しい子が来たんだろ?どんな奴だった?」
レオの青い瞳がきらきらと輝いている。
イザベラも、ニコラも、じっとこちらを見つめていた。
「……倫が、名前を呼んだんだ。」私は静かに告げた。「宮乃、って。」
「宮乃?」レオが目を丸くする。
「でもさ、名前呼ぶのって……ダメなんじゃねぇの?」
「うん。規律違反って、すぐに連れていかれたよ。」
イザベラはおそるおそる手を上げた。
「ねぇ……倫しゃま……その、みやのってひと……おともだち?」
「どうだろう。」私は首を振った。「でも、きっと大切な人だと思う。」
ルーカンは壁にもたれたまま、腕を組んで黙っていた。
「……倫が、自分から名前を呼ぶなんて、ただの知り合いじゃない。」
その声は低く、でも確信に満ちていた。
ニコラがふわりと微笑む。
「ぼく……その子と仲良くなりたいな。」
イザベラも小さく頷く。
「わたちも……いっしょにあそびたい。」
ルーカンがゆっくりと目を伏せた。
「……簡単に仲良くなれるとは限らない。」
「でも、あの子は……」私は静かに口を開く。「きっと、何かを背負ってる。そんな目をしてた。」
レオは、まだ納得できない顔をしていた。
「でもさ、倫って、ふつう他人のこと、あんな風に呼ばないだろ。」
「うん……きっと、倫にとっても特別なんだよ。」
会話の糸は、そこでふっと切れた。
──夕食の時間。
食堂は今日も変わらぬ冷たい空気に満たされていた。
金属の食器がぶつかる音、子どもたちの淡々とした足音。
ここでは皆、静かに、機械のように食事を済ませる。
そんな中、私はすぐに、彼女を見つけた。
宮乃――倫がそう呼んだ少女は、食堂の隅の席に座っていた。
彼女は灰色の制服に身を包み、背筋をぴんと伸ばし、姿勢良く、丁寧にスプーンを口に運んでいた。
食べ方はとてもきれいで、一つ一つの動作が静かで整っている。
艶のある黒髪は肩にかかり、真っ直ぐに切り揃えられた前髪が、白い額を際立たせている。
瞳は淡い青――けれど、それは凍ったような冷たさではなく、深い湖のように静かで、澄んだ色をしていた。
彼女の周りには誰もいなかった。
彼女は一人で、ただ静かに食事を続けている。
その様子は、まるでこの食堂のざわめきに、初めから属していないかのようだった。
ふと、彼女が顔を上げた。
私と、目が合った。
彼女は、ほんの一瞬、微かに――本当に、かすかに――微笑んだ。
気のせいかもしれない、と思うほど儚い笑みだったけれど、それでも確かに私に向けられたものだった。
私は、胸が少しだけ温かくなるのを感じた。
でもその温もりの奥で、ずっと小さな棘が疼いていた。
倫と彼女は、どんな関係だったのだろう。
どうして彼は、あのとき、無意識に彼女の名前を呼んだのだろう。
そして、彼女は――何を考えて、ここにいるのだろう。
曇り空の下で始まった、私たちのささやかな新しい日々。
けれど、その曇りは、まだ晴れそうになかった。
倫は、監視官に腕を掴まれても、何一つ抵抗しなかった。
彼は知っている。逆らうことが、私たち子どもたちにどれほどの不利益をもたらすかを。
彼は、いつもそうだ。冷静で、正しくて、私たちの誰よりも規律に従っているように見せて、その実、私たちを守るためにあえて従順なふりをしている。
けれど、彼の呼んだ「宮乃」という名前が、どうしようもなく私の胸に引っかかっていた。
私も、ルーカンも、その名前を知らなかった。
いや、私たちだけじゃない。きっとこの8号島にいる誰も、彼女の名前を聞いたことがない。
それなのに――倫は、呼んだのだ。
「倫……あの子のこと、知ってたんだよね……」
戻る道すがら、私はふと口を開いた。
「……ああ。」
ルーカンは短く返す。
彼の声はいつもより低く、どこか沈んでいた。
灰色の空の下、私たちは足元の冷たい石畳を見つめながら歩いた。
「だけど、倫が知り合いを、この島で見るなんて……考えたこともなかった。」
ルーカンは黙っていたが、少しだけ眉を寄せていた。
きっと私と同じだ。驚きと、不安と、そして……言葉にできない奇妙な感情が渦巻いている。
8号島に来た子どもたちは、名前を失い、番号で呼ばれる。
ここでの生活は、「実験」のためのものだ。
一度この島に送られた者は、もう二度と戻れない――そんな噂が、この島には根強くある。
だから、本来ならば、ここで知り合いに出会うなんて、誰も喜べない。
私たちは無言で部屋に戻った。
扉を開けると、レオとイザベラ、ニコラが私たちを待っていた。
レオはすぐに立ち上がり、興味津々に私たちへ近寄ってきた。
「なあ、新しい子が来たんだろ?どんな奴だった?」
レオの青い瞳がきらきらと輝いている。
イザベラも、ニコラも、じっとこちらを見つめていた。
「……倫が、名前を呼んだんだ。」私は静かに告げた。「宮乃、って。」
「宮乃?」レオが目を丸くする。
「でもさ、名前呼ぶのって……ダメなんじゃねぇの?」
「うん。規律違反って、すぐに連れていかれたよ。」
イザベラはおそるおそる手を上げた。
「ねぇ……倫しゃま……その、みやのってひと……おともだち?」
「どうだろう。」私は首を振った。「でも、きっと大切な人だと思う。」
ルーカンは壁にもたれたまま、腕を組んで黙っていた。
「……倫が、自分から名前を呼ぶなんて、ただの知り合いじゃない。」
その声は低く、でも確信に満ちていた。
ニコラがふわりと微笑む。
「ぼく……その子と仲良くなりたいな。」
イザベラも小さく頷く。
「わたちも……いっしょにあそびたい。」
ルーカンがゆっくりと目を伏せた。
「……簡単に仲良くなれるとは限らない。」
「でも、あの子は……」私は静かに口を開く。「きっと、何かを背負ってる。そんな目をしてた。」
レオは、まだ納得できない顔をしていた。
「でもさ、倫って、ふつう他人のこと、あんな風に呼ばないだろ。」
「うん……きっと、倫にとっても特別なんだよ。」
会話の糸は、そこでふっと切れた。
──夕食の時間。
食堂は今日も変わらぬ冷たい空気に満たされていた。
金属の食器がぶつかる音、子どもたちの淡々とした足音。
ここでは皆、静かに、機械のように食事を済ませる。
そんな中、私はすぐに、彼女を見つけた。
宮乃――倫がそう呼んだ少女は、食堂の隅の席に座っていた。
彼女は灰色の制服に身を包み、背筋をぴんと伸ばし、姿勢良く、丁寧にスプーンを口に運んでいた。
食べ方はとてもきれいで、一つ一つの動作が静かで整っている。
艶のある黒髪は肩にかかり、真っ直ぐに切り揃えられた前髪が、白い額を際立たせている。
瞳は淡い青――けれど、それは凍ったような冷たさではなく、深い湖のように静かで、澄んだ色をしていた。
彼女の周りには誰もいなかった。
彼女は一人で、ただ静かに食事を続けている。
その様子は、まるでこの食堂のざわめきに、初めから属していないかのようだった。
ふと、彼女が顔を上げた。
私と、目が合った。
彼女は、ほんの一瞬、微かに――本当に、かすかに――微笑んだ。
気のせいかもしれない、と思うほど儚い笑みだったけれど、それでも確かに私に向けられたものだった。
私は、胸が少しだけ温かくなるのを感じた。
でもその温もりの奥で、ずっと小さな棘が疼いていた。
倫と彼女は、どんな関係だったのだろう。
どうして彼は、あのとき、無意識に彼女の名前を呼んだのだろう。
そして、彼女は――何を考えて、ここにいるのだろう。
曇り空の下で始まった、私たちのささやかな新しい日々。
けれど、その曇りは、まだ晴れそうになかった。
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