灯びの系譜ー静寂なる闇に芽吹くもの

武内れい

文字の大きさ
70 / 120
第4章:鏡に映る心の影

64、名を呼ばれない少女(後半)

しおりを挟む
 港に満ちたあの静けさは、きっと私たちの中にも、深く染みこんでいたのだと思う。

 倫は、監視官に腕を掴まれても、何一つ抵抗しなかった。
 彼は知っている。逆らうことが、私たち子どもたちにどれほどの不利益をもたらすかを。
 彼は、いつもそうだ。冷静で、正しくて、私たちの誰よりも規律に従っているように見せて、その実、私たちを守るためにあえて従順なふりをしている。

 けれど、彼の呼んだ「宮乃」という名前が、どうしようもなく私の胸に引っかかっていた。

 私も、ルーカンも、その名前を知らなかった。
 いや、私たちだけじゃない。きっとこの8号島にいる誰も、彼女の名前を聞いたことがない。
 それなのに――倫は、呼んだのだ。

「倫……あの子のこと、知ってたんだよね……」

 戻る道すがら、私はふと口を開いた。

「……ああ。」

 ルーカンは短く返す。
 彼の声はいつもより低く、どこか沈んでいた。
 灰色の空の下、私たちは足元の冷たい石畳を見つめながら歩いた。

「だけど、倫が知り合いを、この島で見るなんて……考えたこともなかった。」

 ルーカンは黙っていたが、少しだけ眉を寄せていた。
 きっと私と同じだ。驚きと、不安と、そして……言葉にできない奇妙な感情が渦巻いている。

 8号島に来た子どもたちは、名前を失い、番号で呼ばれる。
 ここでの生活は、「実験」のためのものだ。
 一度この島に送られた者は、もう二度と戻れない――そんな噂が、この島には根強くある。
 だから、本来ならば、ここで知り合いに出会うなんて、誰も喜べない。

 私たちは無言で部屋に戻った。

 扉を開けると、レオとイザベラ、ニコラが私たちを待っていた。
 レオはすぐに立ち上がり、興味津々に私たちへ近寄ってきた。

「なあ、新しい子が来たんだろ?どんな奴だった?」

 レオの青い瞳がきらきらと輝いている。
 イザベラも、ニコラも、じっとこちらを見つめていた。

「……倫が、名前を呼んだんだ。」私は静かに告げた。「宮乃、って。」

「宮乃?」レオが目を丸くする。

「でもさ、名前呼ぶのって……ダメなんじゃねぇの?」

「うん。規律違反って、すぐに連れていかれたよ。」

 イザベラはおそるおそる手を上げた。

「ねぇ……倫しゃま……その、みやのってひと……おともだち?」

「どうだろう。」私は首を振った。「でも、きっと大切な人だと思う。」

 ルーカンは壁にもたれたまま、腕を組んで黙っていた。

「……倫が、自分から名前を呼ぶなんて、ただの知り合いじゃない。」

 その声は低く、でも確信に満ちていた。

 ニコラがふわりと微笑む。

「ぼく……その子と仲良くなりたいな。」

 イザベラも小さく頷く。

「わたちも……いっしょにあそびたい。」

 ルーカンがゆっくりと目を伏せた。

「……簡単に仲良くなれるとは限らない。」

「でも、あの子は……」私は静かに口を開く。「きっと、何かを背負ってる。そんな目をしてた。」

 レオは、まだ納得できない顔をしていた。

「でもさ、倫って、ふつう他人のこと、あんな風に呼ばないだろ。」

「うん……きっと、倫にとっても特別なんだよ。」

 会話の糸は、そこでふっと切れた。

 ──夕食の時間。

 食堂は今日も変わらぬ冷たい空気に満たされていた。
 金属の食器がぶつかる音、子どもたちの淡々とした足音。
 ここでは皆、静かに、機械のように食事を済ませる。

 そんな中、私はすぐに、彼女を見つけた。

 宮乃――倫がそう呼んだ少女は、食堂の隅の席に座っていた。

 彼女は灰色の制服に身を包み、背筋をぴんと伸ばし、姿勢良く、丁寧にスプーンを口に運んでいた。
 食べ方はとてもきれいで、一つ一つの動作が静かで整っている。
 艶のある黒髪は肩にかかり、真っ直ぐに切り揃えられた前髪が、白い額を際立たせている。
 瞳は淡い青――けれど、それは凍ったような冷たさではなく、深い湖のように静かで、澄んだ色をしていた。

 彼女の周りには誰もいなかった。
 彼女は一人で、ただ静かに食事を続けている。
 その様子は、まるでこの食堂のざわめきに、初めから属していないかのようだった。

 ふと、彼女が顔を上げた。

 私と、目が合った。

 彼女は、ほんの一瞬、微かに――本当に、かすかに――微笑んだ。

 気のせいかもしれない、と思うほど儚い笑みだったけれど、それでも確かに私に向けられたものだった。

 私は、胸が少しだけ温かくなるのを感じた。

 でもその温もりの奥で、ずっと小さな棘が疼いていた。

 倫と彼女は、どんな関係だったのだろう。
 どうして彼は、あのとき、無意識に彼女の名前を呼んだのだろう。

 そして、彼女は――何を考えて、ここにいるのだろう。

 曇り空の下で始まった、私たちのささやかな新しい日々。
 けれど、その曇りは、まだ晴れそうになかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

性別交換ノート

廣瀬純七
ファンタジー
性別を交換できるノートを手に入れた高校生の山本渚の物語

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

服を脱いで妹に食べられにいく兄

スローン
恋愛
貞操観念ってのが逆転してる世界らしいです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

入れ替わり夫婦

廣瀬純七
ファンタジー
モニターで送られてきた性別交換クリームで入れ替わった新婚夫婦の話

処理中です...