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第5章:優しさの仮面
89、割り切れない真実(前半)
しおりを挟む研究棟第六棟、南西端の隔離通路。無機質な白に包まれた直線の廊下を、倫はゆっくりと歩いていた。
蛍光灯が頭上から容赦なく照りつけ、影が長く背後に伸びる。白衣でもなく、制服でもない。血と薬液で汚れた拘束服の裾は破れ、赤黒い乾いた跡を引きずっている。
それでも、彼の足取りには迷いがなかった。
照明がまた一つ、彼の頭上で瞬いた。金属音が響くたび、空気に冷えた鉄と消毒液の臭いが満ちていく。コードが這う壁、監視カメラが僅かに軋む。
彼の背後には、無言の巨影――ラウル・アイゼンヴァルトが歩いていた。
彼は目を伏せ、手袋越しの指で無言のまま工具袋を弄っていた。巨大な体は音も立てず、ただ静かに、倫の背後を守るでもなく、追うでもなく、影のように歩いている。無表情な仮面は、まるで機械人形。死の執行人。
扉が開いた。
無音のまま自動ドアが左右に割れ、倫の前に白光が差し込む。
中には、会議卓と、煌々と照らされた投影スクリーン。そこには彼の身体が、断面図で、血液の流れで、脳波で、赤と青の曲線と数字で、克明に晒されていた。
四角い会議室に並ぶのは、島の最奥に潜む“研究者たち”。
中央研究棟・第四会議室。
彼の存在そのものが、研究対象。
誰も倫を人間として見てはいない。
だが、だからこそ、彼に向けられる視線は、異常な熱を帯びていた。
「おや……ようこそ、人ならざる者よ」
最初に立ち上がったのは、黒いラボコートに身を包んだアルベロス・ニクトヴァルトだった。義手の指がカップを持ち上げる音が、小さく響く。
「驚いたよ、倫くん。テルナインC――あれは神経を腐食させる劇毒だ。脳幹に届けば、人格を焼ききる。死ぬ前に錯乱し、嘔吐と痙攣に沈むのが通常……なのに、君は生きている。しかも正気だ。素晴らしい。まるで、君の存在そのものが抗体のようだ」
彼はスクリーンに表示された数値を指でなぞる。
毒素の数値は致死量を遥かに超えているが、脳波は安定していた。
「ねえ、どうして? なんで、君は死ななかったのかな?」
倫は答えなかった。
その沈黙に、くすんだ金髪の女――ロザヴェル・ノクテインが苛立ちを爆発させた。
「気取ってんじゃないわよ、この笑ってる顔! 虫酸が走るのよ、あなたのその目、何を悟ったような気でいるのよ……!」
彼女は香水瓶を乱暴に開け、自分の首筋へ吹きかける。部屋に甘く焦げたような香りが広がった。
「誰かのため? 自己犠牲? この島でそんな幻想、通じると思ってるの!? 人は、もっと……浅ましくて、臭くて、壊れやすいものなのよッ!」
香水の匂いが重なり、空気が濁る。
「……ロザヴェル。香りが強すぎますよ」
静かにたしなめたのは、白いスーツの女――マリセラ・ノクティスだった。彼女は手元の端末を操作し、倫の生体データを次々に切り替えていく。
「見てください、このホルモン分泌の数値。脳下垂体も副腎皮質も“正常”に作動しています。これだけのストレス下で、だ。常人ならば神経系は麻痺してるわ」
微笑を浮かべたまま、彼女の声には冷えた剃刀のような切れ味がある。
「テルナインCは、脳の感情中枢を破壊する毒物です。投与された患者の約96%が、自我崩壊を起こしました。けれど――倫、あなたは喋ることすら可能」
彼女は一歩前へ進み、倫の目を覗き込む。
「それは、あなたが“異物”である証拠では?」
淡く揺れる声が、他者たちの目をさらに倫へと向けさせる。
「異物、か。良い響きだな」
低く唸るように言ったのは、青い瞳の男――バラカン・フォルンシュタール。テーブルの端で腕を組み、あぐらをかいて座っている。
「体が動くなら、実験台でも格闘相手でも、どっちでもいい。あの毒で生きてるなら、どれだけ切れば壊れるか……試してみたくなるな」
倫の手首を見て、にやりと笑う。
「それとも、拷問の痛みも感じないか? 人形みたいに冷たいのか? お前の限界が見たくて、うずいてきた」
彼は皮手袋の音をパチリと鳴らした。
「壊れないなら、お前を鍛えてやるよ。壊す価値のある素材だ」
「まあまあ、皆さん。あまり興奮なさらないで」
その声は、甘やかな蜂蜜のように部屋を包んだ。銀髪の男――グラエリン・ヴェインが、椅子に体を預けながら微笑んだ。
「倫……ねぇ、あなたの心の奥にはまだ誰かがいるの? それとも、もう全部飲み込んでしまったのかな?」
彼は倫の顔を覗き込むように首を傾げる。
「ねぇ、教えてくれないか。なんで生きたの? それとも――生きることすらもう、惰性なのかな?」
彼の声は艶やかで優しいのに、倫の心を弄ぶような冷たさが潜んでいた。
「……沈黙ね。言葉を選んでいるのか、それとも……」
その声は、ヴェールの奥から紡がれた。マダム・ノワレンヌ。彼女は手元の古い日記を閉じ、倫の視線に鋭い一線を走らせる。
「沈黙の奥に、秘密がある。口を開かずに支配する者……あなたもそうかもしれない」
「けれど忘れないことね。秘密はいつか暴かれる。そして、その瞬間が……美しいのよ」
白手袋の指が、倫のスキャンデータを撫でるように動いた。
「――その時が、楽しみだわ」
部屋の空気が張り詰めていく中、倫はただ、沈黙の中にいた。
足元から血液が乾いた痕が伸び、背後の壁に投影される自らのスキャンが、脈動するように揺れる。
脳波は安定。ホルモン値は平常。毒素は体内に充満しているのに、正気は崩れていない。
「テルナインC」――それは、通常の神経では耐えきれないものだった。
そして今、彼の身体が証明していた。
倫は、ヒトでありながら、ヒトではない。
彼は、壊れていない。
それが、この部屋にいる者たちの渇望を煽っていた。
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