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第1章:暮れ色の帰路
12、賞味期限の切れた豆腐と、沈黙の夜(後半)
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食後の食器をシンクに置いたまま、私はソファに沈みこんだ。
今日の仕事、特別に何があったわけじゃない。でも、無性に疲れていた。言葉のやりとりも、人の視線も、すべてがじわじわと皮膚の内側に染みてきて、重くなる。
スマホを手に取る。ホーム画面には通知がいくつか溜まっていた。
けれど、開く気になれなかった。誰かが話しかけている気配がしても、いまはそれに応える自信がない。
代わりに、何気なくSNSのタイムラインを開いた。
無言のスクロール。猫の動画、ランチの写真、意味のないポエム、ニュースの見出し。いつもの雑多な流れの中に、ふと目を引かれた投稿があった。
「賞味期限1日切れた豆腐、捨てるか悩む夜。お腹より、心が弱い気がする。」
知らない誰かの、何気ないつぶやき。
……それが、私の胸の奥に、ぽとりと落ちた。
「心が弱い気がする」
その言葉が、なぜだか痛かった。
そして、それがまるで、自分の言葉みたいに思えた。
私は立ち上がって、再び冷蔵庫の扉を開けた。
豆腐は、まだそこにいた。変わらない姿で、冷気の奥にじっとしていた。
「捨てるか、食べるか……」
誰に聞かせるでもない声が漏れる。
たった一個の豆腐。
でも、この豆腐をどうするかを決めるのに、私はこんなにも時間がかかっている。まるで人生の岐路か何かのように。
私はもう一度、スマホを見た。
先ほどの投稿には、いくつかいいねがついていた。
その中に、あの猫アイコンのアカウントがあった。数日前、私の手作りご飯に「美味しそう」と反応してくれた人だ。
猫の名前はムギ。アカウント主のプロフィールには、ただ田舎暮らし、ひとりと一匹とだけある。
知らない人。でも、知らないからこそ、なんだか救われる気がするときがある。
私は、そっとスマホのキーボードを開いた。
迷いながらも、こう打ち込んだ。
「うちにも1日過ぎた豆腐がいます。捨てるには惜しいけど、お腹が弱くて……。でも、なんか、誰かが同じことで悩んでるの、ちょっと心が軽くなりますね」
送信ボタンを押すまでに、何度か躊躇した。
でも、最終的にえいと押した。それだけで、胸の中にほんのわずか、空気が入った気がした。
しばらくして、「ムギ」のアカウントから通知が来た。
「わかります、それ。私も結局、今日は見送っちゃいました。豆腐って、弱いけど、なんかすごく人間くさい存在ですよね」
私は、思わずくすっと笑ってしまった。
豆腐が人間くさいなんて、今まで考えたこともなかった。でも、わかる気がした。壊れやすくて、静かで、扱いを間違えるとすぐに駄目になる。
それって、まるで自分のことみたいだ。
私はもう一度、冷蔵庫を開けた。
豆腐はそこにいて、でも今度はさっきほど判断を迫ってくる感じがしなかった。
「……よし、明日食べよう。冷奴にして、生姜ちょっとのせて。お腹と相談しながら」
そう口に出すと、不思議と気が楽になった。
今夜は見送る。でも、捨てない。
それだけで、ちょっとだけ今日という日を乗り越えたような気がした。
スマホを見やると、ムギの写真がまたひとつ投稿されていた。丸くなって眠る猫の姿。
投稿にはこうあった。
「今夜も冷蔵庫に豆腐が眠っています。食べるかどうかは、明日の私次第。でも、今日の私はそれでいいや、って思える夜です」
その文に、なんだか救われた。
私はスマホをテーブルに置き、照明をひとつだけ残して電気を消す。
静かな部屋。聞こえるのは、雨粒が窓に打つ音だけ。
豆腐ひとつで、こんな夜があるなんて、誰が思うだろう。
眠る前に、もう一度、声に出して言った。
「……ありがとう。たかが豆腐、されど豆腐、だね」
その言葉が空中に消えていくとき、ほんの少しだけ、自分がこの世界のどこかとつながっている気がした。
今日の仕事、特別に何があったわけじゃない。でも、無性に疲れていた。言葉のやりとりも、人の視線も、すべてがじわじわと皮膚の内側に染みてきて、重くなる。
スマホを手に取る。ホーム画面には通知がいくつか溜まっていた。
けれど、開く気になれなかった。誰かが話しかけている気配がしても、いまはそれに応える自信がない。
代わりに、何気なくSNSのタイムラインを開いた。
無言のスクロール。猫の動画、ランチの写真、意味のないポエム、ニュースの見出し。いつもの雑多な流れの中に、ふと目を引かれた投稿があった。
「賞味期限1日切れた豆腐、捨てるか悩む夜。お腹より、心が弱い気がする。」
知らない誰かの、何気ないつぶやき。
……それが、私の胸の奥に、ぽとりと落ちた。
「心が弱い気がする」
その言葉が、なぜだか痛かった。
そして、それがまるで、自分の言葉みたいに思えた。
私は立ち上がって、再び冷蔵庫の扉を開けた。
豆腐は、まだそこにいた。変わらない姿で、冷気の奥にじっとしていた。
「捨てるか、食べるか……」
誰に聞かせるでもない声が漏れる。
たった一個の豆腐。
でも、この豆腐をどうするかを決めるのに、私はこんなにも時間がかかっている。まるで人生の岐路か何かのように。
私はもう一度、スマホを見た。
先ほどの投稿には、いくつかいいねがついていた。
その中に、あの猫アイコンのアカウントがあった。数日前、私の手作りご飯に「美味しそう」と反応してくれた人だ。
猫の名前はムギ。アカウント主のプロフィールには、ただ田舎暮らし、ひとりと一匹とだけある。
知らない人。でも、知らないからこそ、なんだか救われる気がするときがある。
私は、そっとスマホのキーボードを開いた。
迷いながらも、こう打ち込んだ。
「うちにも1日過ぎた豆腐がいます。捨てるには惜しいけど、お腹が弱くて……。でも、なんか、誰かが同じことで悩んでるの、ちょっと心が軽くなりますね」
送信ボタンを押すまでに、何度か躊躇した。
でも、最終的にえいと押した。それだけで、胸の中にほんのわずか、空気が入った気がした。
しばらくして、「ムギ」のアカウントから通知が来た。
「わかります、それ。私も結局、今日は見送っちゃいました。豆腐って、弱いけど、なんかすごく人間くさい存在ですよね」
私は、思わずくすっと笑ってしまった。
豆腐が人間くさいなんて、今まで考えたこともなかった。でも、わかる気がした。壊れやすくて、静かで、扱いを間違えるとすぐに駄目になる。
それって、まるで自分のことみたいだ。
私はもう一度、冷蔵庫を開けた。
豆腐はそこにいて、でも今度はさっきほど判断を迫ってくる感じがしなかった。
「……よし、明日食べよう。冷奴にして、生姜ちょっとのせて。お腹と相談しながら」
そう口に出すと、不思議と気が楽になった。
今夜は見送る。でも、捨てない。
それだけで、ちょっとだけ今日という日を乗り越えたような気がした。
スマホを見やると、ムギの写真がまたひとつ投稿されていた。丸くなって眠る猫の姿。
投稿にはこうあった。
「今夜も冷蔵庫に豆腐が眠っています。食べるかどうかは、明日の私次第。でも、今日の私はそれでいいや、って思える夜です」
その文に、なんだか救われた。
私はスマホをテーブルに置き、照明をひとつだけ残して電気を消す。
静かな部屋。聞こえるのは、雨粒が窓に打つ音だけ。
豆腐ひとつで、こんな夜があるなんて、誰が思うだろう。
眠る前に、もう一度、声に出して言った。
「……ありがとう。たかが豆腐、されど豆腐、だね」
その言葉が空中に消えていくとき、ほんの少しだけ、自分がこの世界のどこかとつながっている気がした。
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