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婚約破棄
(1)婚約を破棄してほしい
しおりを挟む「フィオナ、俺との婚約は破棄してほしいっ!」
カイルの言葉は突然だった。
舞踏会が催されている王宮の広間は、しんと静まり返ってしまう。動きを止めた人々が、一体何があったのかと固唾を飲んで見守っている。
カーバイン公爵令嬢フィオナは、美しい顔を隠すように扇子を広げ、ひらりひらりと動かした。
目の前で跪いているのは、婚約者のカイル。
フィオナより二歳年上で、二ヶ月前に婚約したばかりのハブーレス伯爵の次男だ。母親同士が友人で、幼い頃からの顔見知りだった。
フィオナは、未婚令嬢としては年齢が高めの二十一歳。
そして、カイルも二十三歳だ。
貴族の家に生まれた以上、二十代になったのにいつまでも婚約していないのは体裁が悪いし、顔も性格も知っている相手だし……という感じで婚約した相手だった。
お互いに恋愛感情とは無縁だ。
でも、全く知らない相手ではなく、気が合わないということもない。同席していて不快になったこともない。
子供は二人くらい欲しいけど、できなかったらそれはそれでいいよね、などと冷めた話をする程度には信頼関係を築きつつあった。
それなのに。
いきなり、これだ。
フィオナは扇子の影でため息をついてから、こほんと咳払いをした。
「ねえ、カイル。そう言う冗談は、こういう場所では控えるべきだと思うわよ?」
よりによって、王宮の舞踏会の場で、音楽がちょうど止んだタイミングで、人々の視線のど真ん中で。
今なら冗談でギリギリ許される範囲だ。
普通なら許されないだろうけれど、フィオナに限っては許される。
サラリとした銀髪に、エメラルドグリーンの目の公爵令嬢は、少しもショックを受けていない。いつも表情が乏しく、人形令嬢などと言われる美貌にはほとんど変化がないが、その美しい顔は今日に限っては心の内を裏切っていない。
フィオナの気持ちは外見通りに極めて落ち着いている。周囲への配慮もできていた。
だから、周囲のことを思い出してくれと言外ににじませたつもりだったのに、カイルはフィオナの助け船に気付いていないのか、深く頭を下げて膝をついた姿勢を続けた。
「君には何の瑕疵もない。悪いのは俺だ。君という素晴らしい婚約者がいながら、別の女性に恋をしてしまった。こんな不実な男だったなんて、自分でも信じられない。君と、愛してしまった女性への誠意を貫くために、俺は皆の前で自分の罪を懺悔する。だから……どうか、婚約を破棄してほしい……っ!」
カイルは真面目な青年だ。
だから、カーバイン公爵も気に入っていたし、フィオナも結婚してもいいと思っていた。
(……でも、こういう時まで真面目すぎるのはよくないものなのね)
深々と頭を下げ続けるカイルを見ながら、しみじみと考えた。
彼の誠意は非常によく伝わってくる。
フィオナの体面を傷つけないように、自分の罪を皆に見せようとしてくれるのだとわかっている。そこまで考えてくれたのかと思えば、嬉しくもある。
……でも。
結局は婚約がダメになったわけで、フィオナは「また」結婚が遠のいてしまったのだ。
それを多数の目撃者たちの目の前でやってしまったのは、果たして良いことだったのか。カイルの誠意は疑わないが、逆効果だったのではないか……。
思わず眉間に皺が寄りそうになったが、フィオナは扇子の影でそっとため息をついてから、敢えて微笑みを——美しいが、密かに「高慢な微笑み」と言われてしまう表情を浮かべてみせた。
「話はわかりました。でも、どうか立ってちょうだい。きっと私の父が、あなたと話をしたいと思っているわよ。……ねえ、そうでしょう、お父様?」
精一杯優しくカイルに声をかけたフィオナは、くるりと振り返った。
そこには父親であるカーバイン公爵がいて、どこか達観したような顔で遠くを見ているようだった。
しかし、カーバイン公爵はさすが切れ者と名高い人物。
突然話を振られたのに、娘と目が合うとすぐに我に返って表情を引き締める。
フィオナと共通した整った顔に、魅力的だがどこか冷ややかで皮肉げな笑みを浮かべ、尊大な態度でカイルの肩を叩いた。
「そうだな。カイル君、場を移して少し話をしようか。こう言う話は、できれば先に私にしてほしかったのだがね」
「申し訳ありませんっ!」
「……あ、うん、まあ、別にそんなに怒っていないから、そんなに落ち込まなくても……いや、怒っているぞ! 多少は怒っているから、こっちに来なさい!」
一瞬、気の毒そうな顔になりかけ、しかしそれを無理矢理に不機嫌そうな顔に戻し、カーバイン公爵はカイルを立たせて別室へと引っ張っていった。
その姿を見送った舞踏会の会場には、まだざわめきが残っている。
しかし、フィオナが密かに舌打ちをする前に軽やかな音楽が始まった。今日の指揮者は気が利くようだ。思わず体を動かしたくなるようなメロディーに乗せられて、まだフィオナにチラチラ視線を向けつつ、人々はダンスを始めた。
フィオナにとって幸いなことに、今日は指揮者だけでなく、楽士たちも腕が良かった。
軽やかだった楽曲は、すぐにじわりと熱を帯びるような音色に変わり、どこかまだ気がそぞろだった人々もいつの間にか熱中していく。
やがてダンスによって空気が完全に変わり、カイルが膝をつく前までの楽しげな笑い声が戻っていた。
その空気に紛れるように、フィオナはそろりと壁際へと歩いていく。
さすがに目の前の人々からは視線が集まるが、圧力の減った今は大して気になるものではない。
手にしている扇子をひらりと動かして、何事もなかったかのように受け流しながら広間を後にした。
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