くちなし町、夜の記録

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第27話『借家の縁側』

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くちなし町の南の外れに、小さな平屋の借家がある。

築五十年を超えたその家は、夏になると障子の向こうから涼しい風が吹き抜け、縁側で昼寝をするには絶好の場所だった。

数ヶ月前、私は転職を機にこの町へ越してきて、その家を借りた。

最初は少し古いくらいで気にも留めなかった。

けれど大家から引き渡しのとき、妙なことを言われた。

「夜中、縁側で人の気配を感じても、絶対に声をかけちゃいけませんよ」

どういう意味か尋ねても、大家は「気のせいですよ」と笑うだけだった。



引っ越してしばらくは何事もなかった。

夜は虫の声だけが響き、畳に寝転ぶと自然と眠りに落ちた。

けれど、ある夜のことだった。

夜中に喉が渇いて目が覚めた。

台所へ水を取りに行こうと襖を開けると、ふっと縁側の方から風が吹いた。

風の匂いが少し生臭かった。

「…?」

首を傾げて縁側を見る。

障子は閉まっていたが、その向こうに黒い影が立っていた。

月明かりに照らされ、薄い紙の向こうに人の輪郭だけがはっきり浮かんでいる。

細くて、背が高い。

こちらに顔を向けているように見えた。

心臓が大きく脈打つ。

だが障子は閉まっているし、鍵もかかっているはずだった。

恐る恐る近づくと、その影はゆっくりと手を上げた。

そして障子の紙を爪でコツリ、と叩いた。

硬直した体が震えた。

再びコン、と小さく叩く音。

「……そこにいるの、わかってるよ」

かすれた女の声だった。

私は必死に声を出すのをこらえた。

大家の言葉が頭をよぎった。

“絶対に声をかけちゃいけませんよ”

黙って立ち尽くす私に、障子の向こうの影は小さく笑った気がした。

そのまま音もなくスッと消えた。



翌朝、恐る恐る障子を開けて縁側を確かめた。

外はただ蝉の声が響くばかりで、誰の気配もなかった。

安心したのも束の間、障子の紙をふと見上げると、そこには昨日の夜に爪で引っかかれたような小さな裂け目が残っていた。

薄く破れた障子の隙間から、冷たい風がそよいだ。



それからというもの、夜中に目が覚めると、必ず縁側の向こうに誰かが立っていた。

子供のような小さな影のときもあれば、着物を着た女のような影のときもあった。

どの影もじっとこちらを見つめ、時折コツリと障子を叩く。

決して返事をしないようにしていると、そのうち影は薄れていく。

だがある夜、耐えきれずに声をかけてしまった。

「……誰?」

返事はなかった。

代わりに障子の紙の向こうから細い指が五本、そっとこちら側へ突き出された。

白く、節くれ立ったその指は、探るように空を撫で、やがて私の頬に触れた。

氷のように冷たかった。

私は悲鳴を上げて飛び退いた。

指は障子の向こうへ引っ込み、そのまま影も消えた。



翌朝、障子には五つの小さな穴が開いていた。

穴の周りには薄黒い痕があり、まるで長い間そこに指を押し付けていたかのようだった。



大家にその話をすると、ただ無言で頷き、

「声をかけてしまいましたか……」

とだけ言った。

それから小さな護符のようなものを渡され、

「これを縁側の柱に貼っておいてください」

と言われた。

私は言われた通りにそれを貼った。

それ以来、影は現れなくなった。

けれど夜中、障子を通して聞こえる微かな声はまだ消えない。

「……どうして こたえてくれないの」

薄い紙一枚隔てて、誰かがこちらにいる。

私は二度と声を返さない。

それでもいつかまた、あの指が紙を破って、私を探しに来る気がしてならない。
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