くちなし町、夜の記録

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第28話『路地裏の犬』

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くちなし町の駅近くに、古びた飲み屋やスナックが軒を連ねる細い路地がある。

夜になると、赤提灯がぼんやり光り、酔客たちの笑い声が途切れ途切れに響く。

私は仕事の帰りによくその道を抜ける。

人通りは少なく、狭い路地に残る油や酒の匂いは、どこかこの町の裏側を感じさせた。



ある晩のこと。

残業で遅くなり、終電間近に駅へ向かうため、その路地を歩いていた。

昼間の喧騒は跡形もなく、店の明かりもほとんど落ちていた。

そのとき、路地の奥に何かがいた。

街灯に照らされて、地面に長く影を伸ばしていた。

小さな犬だった。

黒い雑種のようで、痩せて肋骨が浮いていた。

夜に野良犬を見かけることは珍しくない。

けれど、その犬はじっとこちらを見ていた。

動かない。
息をしているのかすら分からなかった。

何気なく目を逸らし、また前を向くと――犬はいつの間にか目の前にいた。

まるで瞬きをした隙に移動してきたように。

私は思わず立ち止まった。

犬は動かず、ただ黒い目で私を見つめていた。

その目はどこか人間のようだった。

息を呑んで立ち尽くすと、犬の口が僅かに開いた。

そして――笑った。

人間のように口角を引き上げ、歯を見せて。

「……みつけた」

声がした。

犬のものとは思えない、低く湿った声。

私は恐怖でその場から動けなくなった。

次の瞬間、犬は細長い舌を垂らしながら、ぺたりと私の足元に座り込んだ。

背筋に氷のような冷気が走る。

「……ついて おいで」

声が頭の奥で響いた。

私は反射的に踵を返して駆け出した。

後ろから小さな爪音が追いかけてくる。

リズムよく、私の走る速さに合わせて。

やがて、後ろで何かがくぐもった声で笑った。



ようやく駅の明るい通りまで出ると、追いかけてくる気配はなくなっていた。

振り返っても、あの犬はいなかった。

胸を押さえ、必死に呼吸を整えた。

そのまま電車に飛び乗り、家に帰った。

玄関で靴を脱ぐと、靴下が泥で汚れていた。

床に細い犬の足跡がついていた。

私が歩いてきた泥とは違う、もっと黒く、ぬめりのある跡だった。



それから毎晩、夢にあの犬が出てくる。

真っ暗な路地で、私は立ちすくみ、その先に犬がいる。

犬は私に背を向けて歩き出す。

「……ついて おいで」

夢の中でだけ、その声がはっきりと聞こえる。

私は必ず、犬の後を追って歩き出してしまう。

気づけば、道はどんどん狭くなり、足元は泥に沈み込み、引き返そうとしても足が動かなくなる。

犬は振り返り、またあの笑みを浮かべる。

「……もう はなさない」

目が覚めると、決まって布団の上に黒い毛が数本落ちている。



最近、夜道を歩くと小さな爪音が背後からついてくる。

振り返っても誰もいない。

でも気配はすぐ近くにある。

そのうち、夢ではなく現実であの犬が「ついておいで」と言い出すかもしれない。

その時、私はもう逆らえずについて行ってしまうだろう。

そして二度と、家には戻れなくなる。
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