くちなし町、夜の記録

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第29話『夜更けの踏切』

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くちなし町の東端を走る単線の線路に、小さな踏切がある。

昼間は農家の軽トラックや自転車が静かに通るだけで、周りは田畑ばかりののどかな場所だ。

けれど、この踏切には奇妙な話がある。

「夜中に踏切が鳴ったら、絶対に止まるな」

小さい頃からそう言われて育った。

夜の列車などとっくに運行していないはずなのに、踏切がカンカンと鳴り出すことがある。

その時に立ち止まったり、周囲を見回したりすると――

連れていかれるのだと。



仕事帰り、終電を逃し、酔いを覚まそうと歩いて帰った。

夏も終わりかけで、夜風は少し涼しく感じられた。

薄暗い道を抜け、ふと気がつくといつもの道を外れ、あの踏切の前に立っていた。

おかしい。

普段は避けて通る道なのに、なぜか自然と足が向いてしまっていた。

「……まぁいいか」

そう思って踏切に差し掛かった時だった。

突然、静寂を裂くように踏切の警報音が鳴り響いた。

カン、カン、カン……

赤いライトが点滅し、遮断機がゆっくり降りていく。

私は思わず立ち止まった。

この時間に列車が通るはずはない。

頭の奥で小さい頃の祖母の声がよみがえった。

「夜中に踏切が鳴っても、絶対に立ち止まっちゃいけないよ。どんな音がしても、前を見て歩きなさい。」

心臓が早鐘を打った。

足を動かそうとしたが、膝が小刻みに震えて一歩も出なかった。

踏切の奥の闇から、ゴウッ……と風が吹いてきた。

その中に、車輪が軋むような音が混じる。

レールの上を何かが近づいてくる。

見えないのに、確かに感じる。

「……乗って」

誰かが囁いた。

すぐ耳元で。

慌てて顔を上げると、踏切の向こうに人影があった。

真っ黒い人影で、帽子のようなものを被っていた。

その顔は見えず、ただ赤い踏切灯に照らされて口だけが歪んでいた。

笑っていた。

私は目を背け、必死に足を動かし、踏切を駆け抜けた。



家に着いても、まだ心臓の鼓動は収まらなかった。

靴を脱ごうとして気づいた。

靴の先がどこか湿っている。

見ると、靴の底に暗い油のようなものがべっとりとついていた。

手で払おうとした瞬間、部屋の奥でガタリ、と音がした。

振り返ると、廊下の突き当たりの暗がりに、さっきの踏切の向こうにいた人影が立っていた。

帽子を被ったまま、こちらを覗き込むように。

「……ちゃんと 来て」

低い声が、頭の中に直接響いた。

瞬きした隙に、その影は消えていた。

けれど、廊下の床には靴底についたのと同じ黒い油のような跡が、玄関から奥へ続いていた。

まるで、私の部屋に入ってきた足跡のように。



それからというもの、夜になると家の中で踏切の音が聞こえる。

カン、カン、カン……

どこからともなく赤い光が差し込み、床や壁に影を作る。

もう外だけではない。

今は家の中にも、あの踏切が続いている気がする。

いつかまた、あの声が「乗って」と囁いたとき、もう逃げられないのだろう。
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