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第3話 春のはじまり、町の朝市
しおりを挟む春の光が町を包んでいた。
桜はもう散り始めていて、舗道には花びらが重なっている。山の雪も溶けはじめ、川の水音が心なしか勢いを増していた。
「よいしょっと……これで全部かしらねぇ」
木箱に並べられた焼きたてのパンは、湯気を立てながらトラックの荷台に収まっていく。チーズパン、トマトのフォカッチャ、くるみ入りのライ麦パン。朝市用の特別なラインナップだ。
今日は週に一度開かれる「春の朝市」の日。
町の広場には、朝から人が集まり始めていた。野菜、漬物、陶器、手編みのマフラー。そんな中で、このパン屋の屋台はいつも人気らしい。
「直人さん、これお願いね」
千代子さんが手渡してきたのは、厚手の布に包まれたサンドイッチ。菜の花と卵を使った春限定の味だという。
「売り子、できる?」
「ええ、やってみます」
そう答えたが、少し緊張していた。
これまでは裏方の作業ばかりだった。だが今日は、広場の屋台に立ち、お客さんと直接やりとりするのだ。
とはいえ――
屋台に並んだパンの匂いに、すぐに人が集まりはじめた。
「あら、千代子さんとこの新しいお手伝いさん?」
「うちの孫がこのあいだ、ここのメロンパンが世界一って言ってたわよ」
ひっきりなしに声をかけられた。
最初は戸惑っていたが、笑顔で「ありがとうございます」と返すうちに、徐々に自然と対応できるようになっていった。
「こちら、春の新作になります。菜の花と卵のサンドです」
「まぁ、春らしくていいわねえ。じゃあ、それと……」
言葉のやりとりが続く。小さな会話、小さな笑い。
お釣りを渡しながら、ふと気づいた。
――自分は今、「町の誰か」になれている気がする。
都会では誰にも名前を呼ばれなかった。話しかけられるのは仕事のミス、あるいは数字の催促。誰かと笑い合うことなんて、いつからなかっただろう。
そんなことを思いながら、客足がひと段落した頃。
「こんにちは……あの、メロンパンはありますか?」
その声に、顔を上げた。
中学生くらいの女の子が一人で立っていた。紺のスカート、白いブラウス。髪を二つに結んでいる。
「メロンパン、あと二つだけ残ってますよ。どうぞ」
「じゃあ、ひとつください。もうひとつは……うーん、友達の分にしようかな……」
財布を覗き込んで困ったようにしていた。
その表情に、つい言葉が出た。
「一個、サービスします。今日は頑張った人へのプレゼントの日ということで」
「……ほんとですか?」
「ほんとですよ。うちの店、そういう気まぐれあるんです」
少女はぱあっと表情を明るくして、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます! わたし、この町に来たばかりで、パン屋さんのにおいがすごく好きだったんです。……引っ越してきて、初めて友達とお昼に食べます!」
その言葉に、胸がきゅっと締めつけられた。
この町に来たばかりの自分と、どこか重なったからかもしれない。
「名前、聞いてもいいですか?」
「花音です。花の音って書いて、かのん」
「きれいな名前ですね。じゃあ、また来てください。次は桜あんパンがおすすめです」
花音はうなずいて、メロンパンを手に広場の奥へ駆けていった。
春風にスカートが揺れていた。
あの後ろ姿を見ていて、ふと、自分がようやく何かを返せた気がした。
やさしさを受け取っただけじゃなく、自分の手からも誰かに“ぬくもり”を渡せた。
――そうか、これがパン屋なんだ。
ただの売り手じゃない。誰かの心に残るものを手渡している。
「パンで、誰かを笑顔にする」なんて大げさに思っていたけど、ほんとうに、そんなことがあるのだと今日初めて知った。
気がつけば、売れ残りはひとつもなかった。
「すごいじゃない、完売ね」
千代子さんが、軽く僕の背中をたたいた。
「……はい。楽しかったです」
答えながら、自分でも驚くほど素直な声が出た。
朝市が終わった帰り道。
空は晴れていた。空気はやわらかく、花びらがふわふわと風に舞っていた。
花音のような誰かの笑顔が、町のどこかで今日も生まれている。
この町に、もう少し居てみたいと思った。
◆あとがき
今回も読んでくださりありがとうございます。
第3話では、主人公が「町の朝市」で初めて“誰かのために”動く場面を描きました。
ささやかなやりとりの中に、人はぬくもりを感じます。
出会いや会話、焼きたてのパンを渡す一瞬が、人生の方向を変えることもある。
そのことを伝えたくて、この回を書きました。
次回は「トマトジャムと夏みかん」。
季節と味、そしてちょっとした町の噂話が登場します。どうぞお楽しみに。
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ほっこりした気持ちになれた方、続きを読みたいと感じた方、ぜひ――
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