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第2話 甘いものはね、心の薬なの
しおりを挟む「おはようさん。ずいぶんぐっすり寝てたわねぇ」
朝の陽ざしがやわらかく差し込む台所で、僕は目を覚ました。
気づけば、あのパン屋の奥の一室で毛布に包まれていた。床に敷かれた厚手の敷布と、重すぎず軽すぎない毛布。窓からは鳥のさえずりが聞こえる。
「……ここは?」
「うちの離れ。空いてたから使ってええよ。若い人は眠りが浅いって言うけど、あんたはよく寝るわねぇ」
茶色のエプロンをつけたおばあさんが、湯気の立ったマグカップを差し出してきた。中身は麦茶だった。
「昨日の……」
「そうそう、昨日の“泣き虫さん”。あんた、名前は?」
「……直人です」
「なおとさん。いい名前だこと。私は、町の人から“おばあ”って呼ばれてるけど、本名は千代子。よろしくね」
にこにこと、皺だらけの笑顔を向けてくる。
こちらが戸惑っていると、「まぁまぁ、麦茶でも飲んで落ち着きなさいな」と促される。恐る恐る口をつけると、麦茶の香ばしい味が広がった。身体の中に、じわりと温かさが染み込んでいくようだった。
「昨日のパン……すみません、勝手に……」
「代金? いらないわよ。うちのパン、ひとつくらい余ってもったいないこともあるし。何より、あの顔見たら、ほっとけなかったのよ」
あの顔、と彼女は目元を指でなぞる。泣きはらした目、くしゃくしゃになった頬。それでもパンを頬張っていた自分の姿が思い浮かぶ。
「お腹がすいてて、つらかっただけよ。大丈夫よ。人間なんて、そういう時もあるわ」
その声は、やさしかった。
思わず、うつむいた。
「……もう、戻る場所もなくて。職もなくして、金もない。ほんとは誰かに迷惑かけたくなかったんです」
「迷惑だなんて言わないわよ。あんた、昨日のパン食べて、ありがとうって言ったでしょ? その“ありがとう”が、何よりの代金。ね?」
あまりにさらりとした言葉に、返す言葉が見つからなかった。
「……それにね、甘いものはね、心の薬なのよ」
パン焼き窯の前に立ちながら、千代子さんはぽつりとつぶやいた。
「おじいさんが亡くなった時、あたし、ずいぶん泣いたわ。なにしても心が戻ってこなかった。でもね、そのとき近所の子がくれたのよ。焼き芋パン。そしたら不思議と、涙が止まってね」
千代子さんはくるりと振り向いて、僕に笑顔を見せた。
「それからなの。パンは、誰かの涙を止めるためにあるんだって思うようになったのは」
なんでもないように言うが、その言葉は深く、静かに響いた。
「直人さん、今日はお昼ごろまでここにいるなら、手伝ってくれない?」
「えっ?」
「うち、週に一度“町の市”ってのがあってね、ちょっと多めにパンを焼くのよ。トレイ運ぶくらいでいいからさ。朝ごはん、パンとスープつけるわよ」
気づけば返事していた。誰かの役に立つことが、こんなに嬉しいと思えるなんて。
その朝、僕は久しぶりに“食事”をした。パン屋の窓際で、焼きたてのチーズパンと、野菜のスープ。何か特別なものじゃない。ただ“普通の朝ごはん”だった。
でも、それが嬉しかった。
パンは、少ししょっぱくて、チーズがとろけていた。スープは人参と玉ねぎの甘さがじんわりと沁みてくる味だった。
何年も、こんな気持ちになっていなかった。
「おかわり、いる?」
「……ください」
そう言った自分の声が、少しだけ明るかったことに、後で気づいた。
その日からだった。
僕は、パン屋のお手伝いをするようになった。
見よう見まねでトレイを洗い、包装の手伝いをし、配達の袋を持ち、時にはお釣りを受け渡す。
客のほとんどは地元の顔見知りだった。近くの小学校の教師、畑帰りの老夫婦、夏休みに来ている孫連れのお母さん。誰もが「ああ、またあんた来てるのね」と気さくに話しかけてきた。
誰も僕の過去を聞こうとしなかった。
そして誰も、突き放さなかった。
パンを渡すたびに「ありがとう」と言われることが、胸のどこかを温かくしていった。
その日の夜、眠る前に聞こえたのは、風に揺れる木の葉と、遠くの蛙の声だった。
スマートフォンはカバンの底にあったが、もう何日も電源を入れていなかった。
ここには、時計もニュースもないけれど、焼きたての香りと、誰かの「おはよう」がある。
それが、今の僕には何よりの救いだった。
◆あとがき
今回も読んでいただき、ありがとうございます。
第2話では、主人公がパン屋のおばあさんとの距離を縮め、少しずつ町の日常に溶け込んでいく様子を描きました。
人の心が癒えていく過程は、決して劇的ではないけれど、日々の積み重ねの中に確かに存在します。
次回は「春の朝市」での出会いが描かれます。町の人々の息づかいや、小さな交流を通して、“直人”が少しずつ変わっていく姿をお楽しみください。
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