恋の魔法は耳で揺れ

キマメ

文字の大きさ
17 / 40

17

しおりを挟む
「体、大丈夫か?」

 日曜の夜、アパートの部屋の前で将馬に言われ、菜穂は頷いた。
 扉は開けているものの、彼は廊下に立っている。
 引き出物の紙袋と、もらった梅漬けのタッパーは玄関に置いていた。
 金曜の夜からついさっきまで、何度愛し合っただろう。
 つながった状態でイクことは出来なかったけれど、菜穂は幸せだった。
 心身ともに、ほんのりと温かい。
 外に面した廊下の手すりの向こう、黒雲に覆われた空を見た。

(……引き止めちゃダメ、よね)

 湿り気を帯びた風が髪を揺らす。昨日コンビニへ行ったとき話していた通り、台風が近づいている。お互い明日は仕事だし、アパートまではバイクだった。この辺りは市の南端に当たる。繁華街から各駅停車の電車で一時間、通勤快速でも三十分はかかる距離だ。帰路を辿る彼を危険な目に遭わせたくはない。

「菜穂」
「は……」

 返事をする前に、将馬が覆いかぶさってきた。
 両頬をつかまれて唇を奪われる。舌は来ず、激しく吸われて離された。
 彼は両頬に当てた手を外そうとしない。

「明日、うちの店に来いよ。昼でも夕方でもいい。……待ってる」

 恋は『来い』、恋は『乞う』──夢に出てきてくれなくても、来いと望んでくれるなら、給料日前でも関係ない。

「はい、行きます」
「そうか」

 大きな手は、撫でるように優しくゆっくりと、頬を離れていった。

「じゃあ明日」

 広い背中が廊下を進み、鈍い音を立てて金属の階段を降りていく。
 菜穂は手すりに駆け寄り駐車場を見下ろした。大学を卒業するまで自転車を置いていたスペースに停めたバイクの横で、ヘルメットをかぶった将馬がこちらに手を振っている。菜穂が借りたもうひとつのヘルメットは、座席の下に収納されていた。
 早く部屋へ入れと言われているのはわかっていたけれど、どうしても動けない。
 もう遅い。幼い子どもがいる隣の一家は眠っている時間だ。
 扇風機と同じ十二年選手の洗濯機は音がうるさい。一番音が伝わる階下の部屋の住人は帰郷していて留守だったが、出来るだけ早く始めて終えたほうがいい。
 それでも将馬が見えなくなるまで、菜穂は部屋へは入らなかった。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 茶色い土壁、黄ばんだ白い襖。畳は毛羽立っている。
 どんなに似ていても違う、四畳半の和室。
 毛羽立った畳は古く色褪せていた。前の更新で張り替えてから何年経つだろう。
 ノートパソコンを載せた縦置きの収納ボックスは腰の高さほど。畳に座って使う低いテーブルの前には、台に載せたテレビとDVDプレイヤーが置かれている。狭い台所には流しとコンロ、冷蔵庫とオーブンレンジ。押入れには布団と枕、冬物とこまごました雑貨を入れた収納ボックスが仕舞われていた。
 風呂トイレ付きの1DK、小さな小さな菜穂のお城。
 クーラーも扇風機もなかったが、天候のせいか時間のせいか窓を開けると涼しい。
 アパート裏の川から吹き寄せる水気を含んだ風が、薄手のカーテンを揺らす。
 明るければ川原にある野球場の緑色のネットが見える。
 あの川にかかった橋を渡れば、市の最南端にある大学に着く。菜穂の母校だ。
 家賃の安さと大学まで自転車で五分の距離に惹かれて選んだアパートに、十二年も暮らすことになるとは思わなかった。もっとオフィス街に近い町に引っ越してもいいかもしれない。彼の家へ歩いていける距離が理想だ。とはいえ、市の中心地の家賃はバカ高い。本気で引越しを考えるなら、節制が不可欠だ。
 ぽつぽつと屋根を打つ雨音に、バイクで帰る男を思う。

(将馬さん、大丈夫かな)

 菜穂は顔の横に手をやった。
 ずっとつけたままだったイヤリング。魔法なんてあるわけないと思いつつも、息を殺してネジを緩める。

 しゃらん。

 軽く揺らして聞こえる音に、彼の吐息を思い出す。
 菜穂はまだ、真夏の夢から覚めてない。将馬に酔っている。
 解放された耳たぶが熱かった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です

朝陽七彩
恋愛
 私は。 「夕鶴、こっちにおいで」  現役の高校生だけど。 「ずっと夕鶴とこうしていたい」  担任の先生と。 「夕鶴を誰にも渡したくない」  付き合っています。  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  神城夕鶴(かみしろ ゆづる)  軽音楽部の絶対的エース  飛鷹隼理(ひだか しゅんり)  アイドル的存在の超イケメン先生  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  彼の名前は飛鷹隼理くん。  隼理くんは。 「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」  そう言って……。 「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」  そして隼理くんは……。  ……‼  しゅっ……隼理くん……っ。  そんなことをされたら……。  隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。  ……だけど……。  え……。  誰……?  誰なの……?  その人はいったい誰なの、隼理くん。  ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。  その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。  でも。  でも訊けない。  隼理くんに直接訊くことなんて。  私にはできない。  私は。  私は、これから先、一体どうすればいいの……?

【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される

奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。 けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。 そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。 2人の出会いを描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630 2人の誓約の儀を描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」 https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041

黒瀬部長は部下を溺愛したい

桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。 人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど! 好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。 部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。 スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。

側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、孤独な陛下を癒したら、執着されて離してくれません!

花瀬ゆらぎ
恋愛
「おまえには、国王陛下の側妃になってもらう」 婚約者と親友に裏切られ、傷心の伯爵令嬢イリア。 追い打ちをかけるように父から命じられたのは、若き国王フェイランの側妃になることだった。 しかし、王宮で待っていたのは、「世継ぎを産んだら離縁」という非情な条件。 夫となったフェイランは冷たく、侍女からは蔑まれ、王妃からは「用が済んだら去れ」と突き放される。 けれど、イリアは知ってしまう。 彼が兄の死と誤解に苦しみ、誰よりも孤独の中にいることを──。 「私は、陛下の幸せを願っております。だから……離縁してください」 フェイランを想い、身を引こうとしたイリア。 しかし、無関心だったはずの陛下が、イリアを強く抱きしめて……!? 「離縁する気か?  許さない。私の心を乱しておいて、逃げられると思うな」 凍てついた王の心を溶かしたのは、売られた側妃の純真な愛。 孤独な陛下に執着され、正妃へと昇り詰める逆転ラブロマンス! ※ 以下のタイトルにて、ベリーズカフェでも公開中。 【側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません】

『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』

鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、 仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。 厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議―― 最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。 だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、 結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。 そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、 次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。 同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。 数々の試練が二人を襲うが―― 蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、 結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。 そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、 秘書と社長の関係を静かに越えていく。 「これからの人生も、そばで支えてほしい。」 それは、彼が初めて見せた弱さであり、 結衣だけに向けた真剣な想いだった。 秘書として。 一人の女性として。 結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。 仕事も恋も全力で駆け抜ける、 “冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。

処理中です...