紅真珠の姫武士

五月野 翠

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5 捨てられた貴公子

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珠輝王は震えた。今や遠くなった姫の話を聞けた喜びと、その彼女と己の現状との、あまりにも遠い距離に。

「勇ましい上に美人ときたか。そうかそうか」
「すでに出仕している上の姫も、かなりの美女らしい。源氏の三の君だったか」
「そちらは、女房として出仕というよりも、行儀見習いとして道長の元にいるそうじゃないか。今回の堀河中納言邸での活躍から、鬼姫は堀河中納言の家に養子として入るという話も出ているそうだ」
「おや、妻として迎え入れるのではなくか?」

酒呑童子の一味が勝手なことを話している。遠く離れた、源氏の鬼姫のことを話している。

堀河中納言とは、誰の事か。数年にわたり寺にいた珠輝王には、都のことはわからなかった。寺で彼の面倒を見てくれた僧侶たちは、都の情報など与えてはくれなかった。寺院に俗世の噂など届くわけがない。届いたとしても、藤原摂関家の中で行われた激しい権力闘争と、その末など、元服前の子どもに伝えるわけがない。ましてや、この若君は、権力闘争に敗れて没落した中関白家に連なるものであり、道長に閥を越えて可愛がられていたとはいえ、後ろ盾の父を失った、もはや何の価値もない存在である。都へ戻ったところで、彼の家族も何も残ってはいない。哀れに思った僧侶たちが、彼をこのまま元服させず、出家させようと思っていたことも、知らなかった。

ただ、「堀河」の名には聞き覚えがあった。従兄伯父の道長の閥に所属する堀河少納言の家ではなかったか。当時はまだ老人の父が館を取り仕切り、少し年上の嫡男が、少納言の地位に就いたばかりだった。容姿は平均より少し良いくらいで、うだつの上がらない少納言どまりの男に過ぎないと、生前の父が嘲笑っていた男ではなかったか。

そんな男が、いくら下位の存在とはいえ、彼の大切な幼馴染を囲おうというのか。あの誇り高く美しい「紅真珠の姫武士」を、奪い取ろうというのか。

珠輝王の眼の前が、真っ赤に染まった。

珠輝王を踏みつけていた茨木童子の足が揺らいだ。さらに強く踏みつけようとして、足元の感触が不意に消え、茨木童子がたたらを踏んだ。誰かがアッと思う間もなく、茨木童子の腰の刀が閃いて、前に座る酒呑童子の喉元へと、銀光が伸びた。

「頭!!」
「小僧がっ!!」

酒呑童子がその剛腕を振るって、刃を払いのける。当代最強の鬼と呼ばれる男である。その拳をまともに食らえば、珠輝王の秀麗な細面など、一瞬にして瓜の如く割れ砕け、血と脳漿をまき散らしていただろう。だが、豹の如く空中で身をよじった珠輝王は、致命的な一撃を避けた。束ねた黒髪が空気の渦に巻き込まれて散り、月光を反射して青く蒼く輝いた。蒼い光は銀光と重なって、酒呑童子の顔面に再び襲い掛かった。

しかし、その光は一歩、届かなかった。

一度は払いのけられた茨木童子の手が伸びる。渡辺綱に片腕を切られたために、彼の剛腕は片方だけである。それでも、酒呑童子の一の子分としての力はいささかの衰えはない。いしくま童子、かね童子といった名のある子分たちを差し置いて、いち早く珠輝王の衣のそでをつかみ取った。ぐいと引く、勢いで衣が裂ける音が響く、銀光が揺らぐ、化鳥の如く宙に舞った珠輝王の瘦身が揺らぎ、酒呑童子の眼前を不規則な軌道を描いて、銀光がかすめる。

どう、と板張りの床に叩きつけられたのは、珠輝王だった。再びうつぶせに押さえつけられた貴公子の懐から、ころりと紫水晶の数珠が転がり出た。

紅真珠の見事な大玉を結び付けた、思い出の数珠が。

「ほう? これは見事な真珠だ」

再び床に組み伏せられ、眼の前に奪い取られた刀が突きたてられる。一瞬目を閉じた珠輝王の耳に、酒呑童子の声が届いた。紫水晶を連ねた数珠のたばね、その根付に丁寧に編まれた絹の網かご。そこに輝く紅真珠を摘み上げて、酒呑童子が酒臭い呼気を吐き出す。「酒呑童子」という呼び名の通り、彼は無類の酒好きである。今しがた捕らえた獲物に牙をむかれたというのに、まるで動じた様子がないのは、酒気を帯びているからだろうか。それとも、豪胆な性格ゆえだろうか。

「かえせっ!!」
「なかなかの気性だな。見た目に合わず。気に入った」

再び床に額をこすりつけられた珠輝王の前に、酒呑童子が膝をついた。珠輝王の頬のすぐそばに突き立てられた刀を取り、ぴたり、と白い頬に刃を当てる。ぷつ、と皮膚が切れて淡く血をにじませる。殺しますか、と配下の一人が聞いた。酒呑童子の高笑いが、居並ぶ配下のざわめきを圧して轟いた。

「もったいないだろう! 都一の美少年を、あたら役に立てずに殺すのは!」
「ぼく、を、愚弄するなっ!! 愚かな鬼どもめ、ぼくに手を出したら、朝廷も中の関白家も、黙ってはいないぞっ!!」
「ほう? 本当に何も知らないんだな、この御曹司は。哀れよな」

酒呑童子は酒臭い呼気を震わせて、再び大笑した。

「おい、御曹司。貴様に手を出したら、朝廷がどう黙っていないというんだ?」
「討伐の兵が出るに決まっているだろう! 検非違使なんて生易しいものじゃない、それこそ、源頼光殿も藤原保昌殿も、兵を仕立てて……!!」
「なんの後ろ盾を持たない藤原一族の末席の小僧っこ一人のためにか?」
「僕は中の関白家に最も近い家柄だっ!! 道長叔父上の覚えもめでたく……!」
「はーあ? 中関白家なんざとっくに失脚して、大宰府辺りに流されてるぜ?」

藤原摂関家と一口で言っても、藤原兼家以降、その係累内で激しい権力争いがあった。一条天皇の中宮の座を先に射止めたのは中関白家と呼ばれた藤原道隆の娘定子であり、それに伴い、道隆の息子の伊周・隆家らもまた位人臣を極め、一族は隆盛した。だが、道隆が早世すると、すぐさまその後を道隆の末弟である道長が襲って、年若い嫡子伊周は蹴落とされ、中宮の座にあった定子は「皇后」という名ばかりの座につく。定子の後を追って中宮の座に就いたのは、道長の娘の彰子である。定子のそば近く仕えたのが「枕草子」の清少納言であり、彰子に仕えたのが紫式部・和泉式部とその娘の小式部内侍などの才媛である。

珠輝王は、藤原摂関家に連なる貴公子ではあったが、同じ兼家の子孫でも、激烈な争いを繰り広げた道隆と道長のはざまの立場にあった。そして、彼の亡くなった父は、どちらかというと道隆の中の関白家よりの立場にあった。

幼い子供にまで、大人たちの権力闘争に巻き込むのは残酷だと思われた故であろうか。それとも、人並み優れた美貌をもって生まれたからであろうか。珠輝王は、そのようなことをまったく知らされず、ただ美貌をもてはやされ、周りから可愛がられて、父を海難事故で失ってからは道長の屋敷や、道長に仕える源頼光・藤原保昌の屋敷に一時身を寄せて、そして寺へと送られたのだった。

源頼光と藤原保昌は、早くから道長の家令などとしてそば近く仕え、朝家の守護を担っていたために、同じ藤原一族でも中関白家に連なる珠輝王の哀れな身の上を知っていたのだろう。彼の面倒を見ている間、一度として彼の存在を厭うようなそぶりを見せなかった。だから、彼は知らなかった。自分が、もはや藤原家にとっても、朝廷にとっても、何の価値もない人間であることなど。
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