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 コースロープをくぐると、プールの縁に手を掛ける。
 わたしは思い出す。
 昨日、わたしの半身となったわたしは、ここから水の中に飛びこんだ。

 ギャラリーは静まり返っている。
 確かに、わたしはカエルになった。
 だから、こんなにも泳げたんだと思う。
 でも、それは単なるきっかけにしか過ぎないとも感じる。
 この2ヶ月間、必死になってやったこと。それはしっかりわたしの中に存在している。

 だから、わたしは恥じることはない。
 わたしはやりきったんだから。
 
 なんて考えるわけがないっ!

 勢いとは言え、見られてしまった。
 カエル娘を。
 さようなら、わたしの青春。さようなら、わたしの一之瀬先輩。
 こんにちは、研究所(どこの?)。

「すごい! 川原さん、すごいよ!」
 ぼんやりしてたわたしを驚かせる声が、上から降ってきた。
 弥子先生だ。
 すごいって、そりゃカエルだもん。すごいヘンですよ。

「これならインターハイも狙えるよ」
「へ?」
「いままで、辛い練習に耐えてがんばってきた甲斐があったじゃない! いやー、先生は嬉しいよ」
 は? 何を言ってるんですか、この人は!?

「いや、わたし、体がおかしくなったんですよ!? 弥子先生、ちゃんと見えてます?」
 わたしは黄色くなった手を先生の前で振ってみせた。
 先生は、値踏みするようにわたしを見下ろしてから、真顔でこう言った。
「……あなた、さっき熱は下がった、って言ってたわよね?」
「へ?」
 全然、意味が判らない。
「そういう問題、じゃないと思うんですけど……」
「もう、だから、熱は? あるの? ないの?」
 弥子先生はわたしの鼻先に顔を近づけて迫ってくる。
 コ、コワイよ……。
「ね、熱はないみたいですけど……」
 あるわけがない。仮病だったんだから。
「咳は? くしゃみは? 鼻水は?」
「い、いいえ!」
「じゃあ、風邪じゃないわね」
「ち、違うと思いますけど……」
 ……見ればわかるでしょ。
「そ!」
 弥子先生は両手を腰に当てると、ニッコリほほえんだ。
「風邪じゃなんだったら大丈夫」
「ええええええええっ!? そんな事でいいんですか!?』
「いいの、いいの。とにかく、明日からあなたは強化選手だから。毎日練習にくるのよ。(いや、もう、わたしの代で日本新も狙えるような逸材が出るなんて、こんなチャンス逃してなるもんですか…)」
「今、なんか、ぼそっととんでもないこと言いませんでした?」
「いやあ、すごいすごい」
 弥子先生はくるりと向きを変え、スタスタ歩き出した。

 人の気も知らないで――脳筋教師!
 わたしは心の中で叫ぶと舌を出した。べーっ。
 ドテッ! なぜだか先生がすっ転んだ。
 なんでだ?
「イテテテ、なんか足にひっかかったんだけど……」
 弥子先生が不思議がっている。
 人が真剣に悩んでいるのに……きっとバチが当たったんだ。
 
「強化選手コース、おめでとう」
「!?」
 信楽焼きの置物のようにへの字口をしていたわたしの上から別の声が降ってきた。
 い、一之瀬先輩!?
 思わず水の中に逃げ込んでしまう。いまさら隠れても、もう遅いのに。

 ――だけど。そうだ。
 わたしは、先輩にありがとうを言おう。そう思ったはずだ。
 水底に沈んだわたしは、水面を見上げた。
 開いた目からあふれ出たあたたかい水が頬を撫でる。
 目に入ったのは──
 7月の青空を背景に、ゆらゆら揺れている先輩の手だった。

 わたしは恐る恐る、吸盤のある手を水面から差し出した。
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