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第7話「遅延という名前の穴」
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朝、窓の内側に息を吹きかけると、白い曇りがゆっくりと消えた。
昨夜の最後の一行はかがみ(ミラー)。
――うつすな、まねるな。
鏡は増幅器でもある。私の息を世界の息継ぎに重ねすぎれば、秤は傾く。
時雨(しぐれ)が窓辺の同じ場所に丸くなり、耳だけ僅かに動かしている。私はノートの見出しに線を引き直した。
《今日の方針:**遅延(ディレイ)**へは近づくが、触れない/知らせない/視界で返す》
蒼真(そうま)は音響の人だった。遅延は、彼の言葉では「影時間」。影が濃すぎると、元の音が見えなくなる。
私はケトルの音が落ち着くのを待ち、スマホの下書きフォルダを開く。昨夜の行以外は増えていない。画面を伏せ、湯気を嗅ぎ、出勤の支度を始めた。生活の枠に観測を収める――私の決まり。
*
午前の返却ラッシュがおちつくと、影浦玲生(かげうら・れお)が背もたれに半身を預けた姿勢のまま、私の方へ手帳を傾けた。
「外縁ログ。夜明け前、川沿いの非常灯、一灯だけ点灯の遅延。午前、区のサイトのRSS、一つだけ更新が二分遅れで到着。商店街では『古いオーブンの予熱だけ遅い』という嘆き。あと、これは噂話だけど、桜丘(さくらがおか)スタジオ跡のテナント募集掲示が貼り替えの張り紙のまま一晩ずれてたらしい」
胸の奥に、小さく波が生まれる。スタジオ。
私は返却本の帯を整えながら、うなずいた。
「主観。体調は普通より少し上。息は浅くない。心拍、安定寄り」
「よし。今日は“節(ふし)”を意識して地図を眺めよう。スタジオ跡が電源系の“節”だった可能性は高い。だけど、装置には触れない。知らせない。外縁は座標と時刻だけ拾うから」
軽く笑って言うその口調に、私は救われる。距離が保たれている。
*
児童コーナーの掲示を貼り替えていると、ポケットの奥でスマホがひと拍だけ震えた。
下書きフォルダに青い点が増える。
【下書き保存】——おと
【下書き保存】——おくれ
私は“ボイスメモ”を開き、録音を始めた。
空調の低い帯域、ページの擦れる音。その底で、拍がある。ピッ……ピ、ピッ……。均一じゃない。
保存名が自動で埋まる。
【保存:桜丘スタジオ跡】
来た。
私はバックヤードに顔を出し、「掲示用の画びょうが切れたから外へ」とだけ告げる。
玲生は端末に時刻を書き込み、目だけで外縁了解と合図を返す。
*
桜丘スタジオ跡は、シャッターに「内装工事中」の貼り紙が重ねられ、片側の歩道にカラーコーンと立入禁止のテープが斜めに走っていた。
シャッターの上、古い非常灯が薄く緑を漏らしている。
歩道の端、工事の掲示板のクリップが片方だけ外れ、今日の日付と明日の日付の紙が重なったまま風に揺れていた。――一晩ずれ。
私は本能的にクリップに手を伸ばしそうになり、そこで踏みとどまる。
さわるな。
代わりに、掲示板の前を通りかかった年配の男性作業員に向かって、視線と顎で掲示を指し示す。
「すみません、これ、見えづらいかも」
男性が目を細め、掲示に近づく。
「ほんとだ、明日の紙が上に来てる。ありがとう」
彼が手袋越しに整え、クリップを留め直す。
その瞬間、ポケットのスマホが一度震えた。
【下書き保存】——みえた
私は周囲の音に耳を澄ます。
奥から、発電機の低い唸り。
その下に、リズムの崩れた金属の反復音。ローラー? いや、自動ドアが遅延で閉まり切らず戻るときの音に似ている。
私は建物には近づかず、角に立つ。
ちょうどそこへ、ヘルメットの現場監督が図面筒を抱えて戻ってきた。
私は監督の視界の延長線上に入り、掲示板に整然と並んだ日付を一拍見つめる。
監督の目が私の視線を追い、非常灯、シャッターの上のケーブル、仮設電源のルートへと移っていく。
「……非常電源、切り替え残りがあるな。ループしてる」
監督が無線で声をかけ、若い作業員が駆けてくる。
「テストの仮配、戻し切っておけって言っただろ。外の自販機側にも逆流してるかもしれん。確認」
私は何も触っていない。言葉もぎりぎりしか出していない。
ただ、見えやすくしただけ。
ポケットで、スマホが短く震えた。
【下書き保存】——いき
【下書き保存】——かえす
息。返す。
胸の奥で、小さな結び目がほどける。
スタジオ跡の角を曲がると、歩道の端に折りたたみ式の譜面台が倒れていた。黒いスチール。誰かが練習帰りに落としたのだろう。
拾いたい衝動が指に溜まり、私は足先でそっと譜面台を見える位置へ転がした。
通りがかった学生が「あ、俺のだ!」と声を上げ、走ってきて自分の手で拾い上げた。
――返すは、こういう小さな積み重ねだ。
私はその場を離れ、図書館へ戻った。
*
玲生は地図の前に立ち、透明付箋に新しい印を加えた。
「外縁ログ。桜丘スタジオ跡、仮設電源の切り替えを現場が実施したと近隣商店主が証言。周辺の自販機、午後から正しく釣銭が出るように。区のRSS遅延、夕方には収束。踏切の黄色は通常時間へ」
私はうなずき、胸の奥の拍を確かめる。
「主観。体調、良。息の通りが楽。……触れてない」
「うん、外縁から見ても、君は触ってない。見せただけだ」
玲生は少し間をおき、声を落とす。
「それと、さっき寄贈パソコンの古いメッセージアプリが、また勝手にミラー同期を試みて弾かれた。プロキシ設定が変だ。鏡像は便利だけど、勝手に過去の会話を呼び戻すのは怖い。システム担当に切断を依頼した」
胸の中で、警鐘が小さく鳴る。
――しらせるな。
私は短く頷いただけで、話題を流した。
*
閉館前、児童コーナーの棚で本を揃えていると、ポケットでスマホが二度、間を置いて震えた。
下書きに新しい行が増える。
【下書き保存】——ふるい
【下書き保存】——こえ
ふるい、こえ。
古い声。篩(ふるい)にかける、のふるいでもある。
私は“ボイスメモ”を開き、録音を始めた。
空調の底、そのまた下に、人声の帯域が遠くかすかにある。言葉までは分からない。
保存名が自動で埋まる。
【保存:鳴砂(なりすな)坂の旧電話局跡】
地図の川筋から一筋逸れた、古い電話局跡。通信の“節”。
私はカウンターに戻り、最小限の言葉を残して外へ出た。
玲生は時刻を記し、外縁の目線で私を見送る。
*
鳴砂坂の旧電話局跡は、背の低い建物が並び、壁面に「○月○日 停電試験」という過日の貼り紙が残っていた。剥がれかけの角。
脇の路地に、公衆電話ボックスがまだ一台だけ生きている。
ガラス越しに見える受話器は、掛け直しが甘いのか、フックのバネがぎりぎりで浮いたり沈んだりを繰り返している。
触れたい衝動を、私は喉で飲む。
さわるな。
代わりに、ボックスの上部の蛍光灯がちらつく瞬間を見送る。
通りかかった管理の人が足を止める。
私は視線だけで蛍光灯→受話器→フックをなぞる。
管理の人は「ああ」と頷き、ボックスの外から上部の電源を落とし、工具でフックの高さを調整した。受話器には触れない。
「これで落ち着くはず」
彼が電源を戻すと、蛍光灯は安定し、受話器のフックは静かに定位置に収まった。
私のポケットで、スマホが一度震えた。
【下書き保存】——おちついた
【下書き保存】——かえった
古い声の遅延が、ひとつ止まった。
私は坂を上がりきり、夕暮れの風を胸に入れた。
*
帰り道、川沿いの非常灯は今夜も一灯だけ消えたままだったが、歩道の影は昨夜より浅く感じられた。
私はスマホのライトを空へ向け、対岸の樹冠で柔らかく反射させる。鏡を作らないやり方。
部屋の扉を開けると、時雨が走ってきて、足に体を巻いた。
「ただいま」
ミルクの匂い。ソファの背の小さなへこみ。生活の輪郭が、私を人の世界に留める。
そのとき、リビングの照明が一度だけ明滅した。
時雨がソファの背で耳を立てる。
来る。
私は椅子に腰を下ろし、膝の上で指を組んだ。
25:61。
音は鳴らない。画面の上で青い泡がふたつ湧いて、間を置いて沈む。
既読:蒼真
下書きが、連続で現れる。
【下書き保存】——もどれ
【下書き保存】——おと
【下書き保存】——ふるい
【下書き保存】——さわるな
もどれ。
戻るのは――最初の地点。東栄橋。あるいは、桜丘スタジオ跡。
私は“ボイスメモ”を開く。
波形の底に、今日いちばん弱い拍がある。
保存名が埋まる。
【保存:桜丘スタジオ裏搬入口】
私は上着を掴み、鍵をとり、時雨に顔を寄せる。「すぐ戻る」
彼は窓辺に跳び、耳を立てたまま私を見送った。
*
桜丘スタジオの裏手は、低い石垣と搬入口のスロープ、簡易の養生板。
スロープの脇にある電源盤の外箱は鍵がかかり、私が触れる余地はない。
――さわるな。
私は石垣の上に古い張り紙が重なっているのを見つけた。「非常電源試験 実施済」の紙が、半分だけめくれて、下からは「予備:未実施」の赤い文字が覗いている。
影が元を隠している。
私は手を出さない。
代わりに、携帯のカメラを画面OFFのまま立て、自分の影を張り紙のめくれに重ねた。
通りかかった現場監督が、私の立つ角度を視界の端で拾い、張り紙の下に目を滑らせる。
「……これ、未実施のまま重なってる。明日じゃなくて今日回さなきゃ。遅延が出る」
監督が無線を飛ばし、作業員が動く。
私はただ立っているだけだ。
ポケットで、スマホが一度震えた。
【下書き保存】——とまる
【下書き保存】——かえる
裏手から、切り替えの重い音。ブレーカの堅いクリック。
外の空気が、一拍だけ軽くなった。
私はスロープの端に落ちていた黒いメトロノームの振り子(壊れた部品らしい)に気づく。拾わない。
視界の中央に置き直すだけ――靴先で。
搬入口から出てきた若い作業員が「あ、これ学校の音楽室の持ち出しだ」と言い、自分の手で拾い上げた。
返った。
私は短く息を吐き、ゆっくり吸い込む。
帰ろうとしたとき、背後で小さな靴音。
振り向くと、制服の少女がスロープの下で立ち止まっていた。東栄橋で出会った子かもしれないが、逆光で顔が分からない。
「ここ、写真撮ってもいいですか」
私は首を振る。
「今日は、工事。危ない。別の角度からがきれい」
少女は私の指す無害な壁に目を向け、「ありがとうございます」と言って位置を変えた。
まねるな。
知らせない。
視界で誘導する。
ポケットのスマホが短く震えた。
【下書き保存】——いい
私は頭を下げ、坂を上る。
*
部屋の扉を開けると、時雨が走ってきて、足に体を巻きつけた。
「ただいま」
靴を脱ぎ、テーブルにスマホを置く。
画面の上で、遅れて青い泡がひとつ湧いて沈む。
既読:蒼真
下書きが、三行増える。
【下書き保存】——ふるい(篩)
【下書き保存】——こえ(声)
【下書き保存】——のこす
篩/声/残す。
私はノートを開き、今日のページをゆっくり埋める。
《主観ログ・第七夜》
・午前:桜丘スタジオ跡――掲示のずれを見えやすく→現場が仮設電源のループを解消→「いき/かえす」
・午後:旧電話局跡――公衆電話のフック高さ→管理者が外から調整→「おちついた/かえった」
・夜:桜丘スタジオ裏――張り紙の重なり→未実施の可視化→切り替え完了→「とまる/かえる」
・装置非接触/知らせない/視界誘導を遵守
・メッセージ:「もどれ/おと/ふるい/さわるな」「のこす」
・仮説更新:**遅延(ディレイ)**は“影時間”。篩(ふるい)にかけるように、残すべき声と落とすべきノイズがある
ペン先が止まる。
私はスマホを両手で包み、四つ吸って、六つ吐く。
時雨がソファの背で耳を立て、ゆっくりと目を細める。
私の胸の拍は、静かに整っていく。
――のこす。
何を。
元の音だ。
返す道を選ぶとき、私は真似を増やさず、鏡を増幅させず、ただ視界で元の音の輪郭を残す。
それが、いまの私に許されたやり方だ。
窓の外で、遠い踏切が一度だけ鳴った。
私は短く祈る。
秤が静かであるように。
誰かの今日が返って、私の明日が薄く延びるように。
——既読が、鳴る。
昨夜の最後の一行はかがみ(ミラー)。
――うつすな、まねるな。
鏡は増幅器でもある。私の息を世界の息継ぎに重ねすぎれば、秤は傾く。
時雨(しぐれ)が窓辺の同じ場所に丸くなり、耳だけ僅かに動かしている。私はノートの見出しに線を引き直した。
《今日の方針:**遅延(ディレイ)**へは近づくが、触れない/知らせない/視界で返す》
蒼真(そうま)は音響の人だった。遅延は、彼の言葉では「影時間」。影が濃すぎると、元の音が見えなくなる。
私はケトルの音が落ち着くのを待ち、スマホの下書きフォルダを開く。昨夜の行以外は増えていない。画面を伏せ、湯気を嗅ぎ、出勤の支度を始めた。生活の枠に観測を収める――私の決まり。
*
午前の返却ラッシュがおちつくと、影浦玲生(かげうら・れお)が背もたれに半身を預けた姿勢のまま、私の方へ手帳を傾けた。
「外縁ログ。夜明け前、川沿いの非常灯、一灯だけ点灯の遅延。午前、区のサイトのRSS、一つだけ更新が二分遅れで到着。商店街では『古いオーブンの予熱だけ遅い』という嘆き。あと、これは噂話だけど、桜丘(さくらがおか)スタジオ跡のテナント募集掲示が貼り替えの張り紙のまま一晩ずれてたらしい」
胸の奥に、小さく波が生まれる。スタジオ。
私は返却本の帯を整えながら、うなずいた。
「主観。体調は普通より少し上。息は浅くない。心拍、安定寄り」
「よし。今日は“節(ふし)”を意識して地図を眺めよう。スタジオ跡が電源系の“節”だった可能性は高い。だけど、装置には触れない。知らせない。外縁は座標と時刻だけ拾うから」
軽く笑って言うその口調に、私は救われる。距離が保たれている。
*
児童コーナーの掲示を貼り替えていると、ポケットの奥でスマホがひと拍だけ震えた。
下書きフォルダに青い点が増える。
【下書き保存】——おと
【下書き保存】——おくれ
私は“ボイスメモ”を開き、録音を始めた。
空調の低い帯域、ページの擦れる音。その底で、拍がある。ピッ……ピ、ピッ……。均一じゃない。
保存名が自動で埋まる。
【保存:桜丘スタジオ跡】
来た。
私はバックヤードに顔を出し、「掲示用の画びょうが切れたから外へ」とだけ告げる。
玲生は端末に時刻を書き込み、目だけで外縁了解と合図を返す。
*
桜丘スタジオ跡は、シャッターに「内装工事中」の貼り紙が重ねられ、片側の歩道にカラーコーンと立入禁止のテープが斜めに走っていた。
シャッターの上、古い非常灯が薄く緑を漏らしている。
歩道の端、工事の掲示板のクリップが片方だけ外れ、今日の日付と明日の日付の紙が重なったまま風に揺れていた。――一晩ずれ。
私は本能的にクリップに手を伸ばしそうになり、そこで踏みとどまる。
さわるな。
代わりに、掲示板の前を通りかかった年配の男性作業員に向かって、視線と顎で掲示を指し示す。
「すみません、これ、見えづらいかも」
男性が目を細め、掲示に近づく。
「ほんとだ、明日の紙が上に来てる。ありがとう」
彼が手袋越しに整え、クリップを留め直す。
その瞬間、ポケットのスマホが一度震えた。
【下書き保存】——みえた
私は周囲の音に耳を澄ます。
奥から、発電機の低い唸り。
その下に、リズムの崩れた金属の反復音。ローラー? いや、自動ドアが遅延で閉まり切らず戻るときの音に似ている。
私は建物には近づかず、角に立つ。
ちょうどそこへ、ヘルメットの現場監督が図面筒を抱えて戻ってきた。
私は監督の視界の延長線上に入り、掲示板に整然と並んだ日付を一拍見つめる。
監督の目が私の視線を追い、非常灯、シャッターの上のケーブル、仮設電源のルートへと移っていく。
「……非常電源、切り替え残りがあるな。ループしてる」
監督が無線で声をかけ、若い作業員が駆けてくる。
「テストの仮配、戻し切っておけって言っただろ。外の自販機側にも逆流してるかもしれん。確認」
私は何も触っていない。言葉もぎりぎりしか出していない。
ただ、見えやすくしただけ。
ポケットで、スマホが短く震えた。
【下書き保存】——いき
【下書き保存】——かえす
息。返す。
胸の奥で、小さな結び目がほどける。
スタジオ跡の角を曲がると、歩道の端に折りたたみ式の譜面台が倒れていた。黒いスチール。誰かが練習帰りに落としたのだろう。
拾いたい衝動が指に溜まり、私は足先でそっと譜面台を見える位置へ転がした。
通りがかった学生が「あ、俺のだ!」と声を上げ、走ってきて自分の手で拾い上げた。
――返すは、こういう小さな積み重ねだ。
私はその場を離れ、図書館へ戻った。
*
玲生は地図の前に立ち、透明付箋に新しい印を加えた。
「外縁ログ。桜丘スタジオ跡、仮設電源の切り替えを現場が実施したと近隣商店主が証言。周辺の自販機、午後から正しく釣銭が出るように。区のRSS遅延、夕方には収束。踏切の黄色は通常時間へ」
私はうなずき、胸の奥の拍を確かめる。
「主観。体調、良。息の通りが楽。……触れてない」
「うん、外縁から見ても、君は触ってない。見せただけだ」
玲生は少し間をおき、声を落とす。
「それと、さっき寄贈パソコンの古いメッセージアプリが、また勝手にミラー同期を試みて弾かれた。プロキシ設定が変だ。鏡像は便利だけど、勝手に過去の会話を呼び戻すのは怖い。システム担当に切断を依頼した」
胸の中で、警鐘が小さく鳴る。
――しらせるな。
私は短く頷いただけで、話題を流した。
*
閉館前、児童コーナーの棚で本を揃えていると、ポケットでスマホが二度、間を置いて震えた。
下書きに新しい行が増える。
【下書き保存】——ふるい
【下書き保存】——こえ
ふるい、こえ。
古い声。篩(ふるい)にかける、のふるいでもある。
私は“ボイスメモ”を開き、録音を始めた。
空調の底、そのまた下に、人声の帯域が遠くかすかにある。言葉までは分からない。
保存名が自動で埋まる。
【保存:鳴砂(なりすな)坂の旧電話局跡】
地図の川筋から一筋逸れた、古い電話局跡。通信の“節”。
私はカウンターに戻り、最小限の言葉を残して外へ出た。
玲生は時刻を記し、外縁の目線で私を見送る。
*
鳴砂坂の旧電話局跡は、背の低い建物が並び、壁面に「○月○日 停電試験」という過日の貼り紙が残っていた。剥がれかけの角。
脇の路地に、公衆電話ボックスがまだ一台だけ生きている。
ガラス越しに見える受話器は、掛け直しが甘いのか、フックのバネがぎりぎりで浮いたり沈んだりを繰り返している。
触れたい衝動を、私は喉で飲む。
さわるな。
代わりに、ボックスの上部の蛍光灯がちらつく瞬間を見送る。
通りかかった管理の人が足を止める。
私は視線だけで蛍光灯→受話器→フックをなぞる。
管理の人は「ああ」と頷き、ボックスの外から上部の電源を落とし、工具でフックの高さを調整した。受話器には触れない。
「これで落ち着くはず」
彼が電源を戻すと、蛍光灯は安定し、受話器のフックは静かに定位置に収まった。
私のポケットで、スマホが一度震えた。
【下書き保存】——おちついた
【下書き保存】——かえった
古い声の遅延が、ひとつ止まった。
私は坂を上がりきり、夕暮れの風を胸に入れた。
*
帰り道、川沿いの非常灯は今夜も一灯だけ消えたままだったが、歩道の影は昨夜より浅く感じられた。
私はスマホのライトを空へ向け、対岸の樹冠で柔らかく反射させる。鏡を作らないやり方。
部屋の扉を開けると、時雨が走ってきて、足に体を巻いた。
「ただいま」
ミルクの匂い。ソファの背の小さなへこみ。生活の輪郭が、私を人の世界に留める。
そのとき、リビングの照明が一度だけ明滅した。
時雨がソファの背で耳を立てる。
来る。
私は椅子に腰を下ろし、膝の上で指を組んだ。
25:61。
音は鳴らない。画面の上で青い泡がふたつ湧いて、間を置いて沈む。
既読:蒼真
下書きが、連続で現れる。
【下書き保存】——もどれ
【下書き保存】——おと
【下書き保存】——ふるい
【下書き保存】——さわるな
もどれ。
戻るのは――最初の地点。東栄橋。あるいは、桜丘スタジオ跡。
私は“ボイスメモ”を開く。
波形の底に、今日いちばん弱い拍がある。
保存名が埋まる。
【保存:桜丘スタジオ裏搬入口】
私は上着を掴み、鍵をとり、時雨に顔を寄せる。「すぐ戻る」
彼は窓辺に跳び、耳を立てたまま私を見送った。
*
桜丘スタジオの裏手は、低い石垣と搬入口のスロープ、簡易の養生板。
スロープの脇にある電源盤の外箱は鍵がかかり、私が触れる余地はない。
――さわるな。
私は石垣の上に古い張り紙が重なっているのを見つけた。「非常電源試験 実施済」の紙が、半分だけめくれて、下からは「予備:未実施」の赤い文字が覗いている。
影が元を隠している。
私は手を出さない。
代わりに、携帯のカメラを画面OFFのまま立て、自分の影を張り紙のめくれに重ねた。
通りかかった現場監督が、私の立つ角度を視界の端で拾い、張り紙の下に目を滑らせる。
「……これ、未実施のまま重なってる。明日じゃなくて今日回さなきゃ。遅延が出る」
監督が無線を飛ばし、作業員が動く。
私はただ立っているだけだ。
ポケットで、スマホが一度震えた。
【下書き保存】——とまる
【下書き保存】——かえる
裏手から、切り替えの重い音。ブレーカの堅いクリック。
外の空気が、一拍だけ軽くなった。
私はスロープの端に落ちていた黒いメトロノームの振り子(壊れた部品らしい)に気づく。拾わない。
視界の中央に置き直すだけ――靴先で。
搬入口から出てきた若い作業員が「あ、これ学校の音楽室の持ち出しだ」と言い、自分の手で拾い上げた。
返った。
私は短く息を吐き、ゆっくり吸い込む。
帰ろうとしたとき、背後で小さな靴音。
振り向くと、制服の少女がスロープの下で立ち止まっていた。東栄橋で出会った子かもしれないが、逆光で顔が分からない。
「ここ、写真撮ってもいいですか」
私は首を振る。
「今日は、工事。危ない。別の角度からがきれい」
少女は私の指す無害な壁に目を向け、「ありがとうございます」と言って位置を変えた。
まねるな。
知らせない。
視界で誘導する。
ポケットのスマホが短く震えた。
【下書き保存】——いい
私は頭を下げ、坂を上る。
*
部屋の扉を開けると、時雨が走ってきて、足に体を巻きつけた。
「ただいま」
靴を脱ぎ、テーブルにスマホを置く。
画面の上で、遅れて青い泡がひとつ湧いて沈む。
既読:蒼真
下書きが、三行増える。
【下書き保存】——ふるい(篩)
【下書き保存】——こえ(声)
【下書き保存】——のこす
篩/声/残す。
私はノートを開き、今日のページをゆっくり埋める。
《主観ログ・第七夜》
・午前:桜丘スタジオ跡――掲示のずれを見えやすく→現場が仮設電源のループを解消→「いき/かえす」
・午後:旧電話局跡――公衆電話のフック高さ→管理者が外から調整→「おちついた/かえった」
・夜:桜丘スタジオ裏――張り紙の重なり→未実施の可視化→切り替え完了→「とまる/かえる」
・装置非接触/知らせない/視界誘導を遵守
・メッセージ:「もどれ/おと/ふるい/さわるな」「のこす」
・仮説更新:**遅延(ディレイ)**は“影時間”。篩(ふるい)にかけるように、残すべき声と落とすべきノイズがある
ペン先が止まる。
私はスマホを両手で包み、四つ吸って、六つ吐く。
時雨がソファの背で耳を立て、ゆっくりと目を細める。
私の胸の拍は、静かに整っていく。
――のこす。
何を。
元の音だ。
返す道を選ぶとき、私は真似を増やさず、鏡を増幅させず、ただ視界で元の音の輪郭を残す。
それが、いまの私に許されたやり方だ。
窓の外で、遠い踏切が一度だけ鳴った。
私は短く祈る。
秤が静かであるように。
誰かの今日が返って、私の明日が薄く延びるように。
——既読が、鳴る。
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何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
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