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第9話「閾(しきい)という線」
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朝、窓に息をかける。白はうすく広がり、音もなく消えた。
昨夜の二行——まだ/ごめん。
「もうすこし」の先にある線を、私は踏み越えずに近づくと決めた。
ノートに見出しを書く。
《今日の方針:**閾(しきい)**を知る/触れない/知らせない/視界で返す》
時雨(しぐれ)が窓辺で尾を振る。四つ吸って、六つ吐く。胸の拍は静かだ。
*
午前の返却ラッシュが落ち着くと、影浦玲生(かげうら・れお)が手帳を掲げた。
「外縁ログ。夜明け、川沿いの非常灯、点灯の閾値が一拍だけ早い。区の掲示は正時。会館の合唱は評判よし。……ただ、商店街の集会所、火災報知器の定期点検が午後に入ってる」
火災報知器。閾値の装置だ。
「主観は良。息、深めに通ってる」
玲生は頷く。「距離、保とう。僕は風景だけ拾う」
*
児童コーナーで掲示を貼り替えていると、ポケットがひと拍だけ震えた。
【下書き保存】——しきい
【下書き保存】——ちかい
“近い”。私はボイスメモを開く。空調の低音、その底にピッ……ピという高音。不規則。
【保存:商店街集会所 裏口】
バックヤードで「掲示の紙、切らしてて」とだけ告げると、玲生が「外縁了解」と目で返す。
*
集会所の裏口。開閉ドアの上に感知器、横に「点検中」の小札。
台車が一台、消毒用アルコールの箱を山積みにして、感知器の下の直線に置かれている。
触れない。
私は裏口の掲示板の前に立ち、矢印の影をじっと見る。出入りしてきた職員が私の視線を辿り、アルコールの箱→感知器→矢印へと目を移す。
「ここ、別動線で」
職員が声をかけ、台車は斜めに引かれる。
その瞬間、ポケットが震えた。
【下書き保存】——よけた
【下書き保存】——よかった
点検のピッという試験音は続くが、誤発報の気配は遠のいた。
*
図書館に戻ると、玲生が短く報告する。
「外縁。集会所、誤報なしで点検終了。区のSNSに『静かに終わりました』」
私はうなずく。「主観は変わらず。触れてない」
「それと、寄贈パソコンの古いメッセージアプリ、下書きフォルダだけ一瞬増えて消える現象、まだ出る。切断は維持してるのに。ミラーの残留かも」
胸の内で、薄い氷が鳴る。しらせるなの線を、指でなぞり直す。
*
昼過ぎ、ポケットが二度震えた。
【下書き保存】——ふたつ
【下書き保存】——えらんで
ボイスメモの底に二つの拍。保存名が連続で埋まる。
【保存:白妙(しろたえ)公園 遊具側】
【保存:柳(やなぎ)見晴橋 東詰】
どちらも人の流れの閾。私は公園を選ぶ。
白妙公園の滑り台の前で、小さな子の列が密になる。先頭の子はためらって動けない。
装置に触れない。
私は滑り台のはしごと着地点の斜めに立ち、指で空に小さな円を描く。
「まわって」と、届くか届かないかの声。
お母さんがそれに気づき、「一回、ぐるっとね」と笑う。列がゆるみ、先頭の子の一歩が出る。
震え。
【下書き保存】——こわくない
【下書き保存】——いけた
*
夕方、帰り道の商店街で、エレベーター前に人だかり。
「一台点検中につきご不便を——」の掲示。残る一台に人が偏る。過載のアラームがときどき鳴る。
私は階段方向の壁のポスターの前に立つ。季節のスタンプラリーの明るい図案。
その前で、肩をすっと回して伸びをする。
視線が連鎖し、二組が階段へと動く。
エレベーターの扉が閉まり、アラームは鳴らない。
震え。
【下書き保存】——わかれた
【下書き保存】——たすかった
*
扉を開けると、時雨が足に体を絡ませる。
「ただいま」
テーブルにスマホを置いた瞬間、部屋の空気が一拍深くなる。時雨が耳を立てた。来る。
25:61。
青い泡が二度湧いて沈む。
既読:蒼真
【下書き保存】——しきい
【下書き保存】——こえるな
【下書き保存】——みてて
こえるな。
私は“ボイスメモ”を開く。今日いちばん薄い拍。
【保存:桜丘(さくらがおか)スタジオ跡 表】
また、ここ。
上着を掴み、時雨に「すぐ戻る」。彼は窓辺で耳を立てたまま見送る。
*
スタジオ跡の表、夜のシャッターに新しい告知が貼られていた。
〈明日 深夜 電源切替再試験〉
貼り紙の右下だけが浮き、下から古い案内の赤文字がかすかに覗く。
私は触れない。
シャッターに正面から立たず、街灯の斜光の端に入る角度に立つ。影がめくれの上に落ち、二枚の紙の境目を浮かび上がらせる。
通りがかった現場監督が足を止め、自分の手で角を押さえ、古い紙を完全に剥がす。
「これ、紛らわしいからな」
無線が飛び、作業員がチェックリストを一枚差し替える。
震え。
【下書き保存】——みえた
【下書き保存】——まにあう
帰ろうとしたとき、角の暗がりで高校生がスマホを掲げ、「ここ映えるんだよ」と囁く。
私は近づかない。
代わりに、道路向かいの古いレコード店のショーウィンドウに視線を向け、頷く。
ガラス越しのジャケット群が、街灯でやわらかく光る。
「……あっちのほうがいい」
彼らの足が離れる。
震え。
【下書き保存】——まねるな
【下書き保存】——いい
*
部屋に戻ると、青い泡が遅れてひとつ。
既読:蒼真
【下書き保存】——まだ
【下書き保存】——そばに
胸の奥に、痛いほどやさしい熱が差し込む。
私はノートを開き、短くまとめる。
《主観ログ・第九夜》
・集会所:アルコール積みの直線→視界誘導で誤報回避
・白妙公園:列の密をほどく→「いけた」
・商店街:エレベーターの過載分散→「たすかった」
・桜丘表:貼り紙の二重を可視化→「まにあう」/撮影の真似を他所へ
・遵守:触れない/知らせない/閾を越えない
・メッセージ:「しきい/こえるな/みてて」「まだ/そばに」
“越えない”線のこちら側に、今日が返った気配がある。
私はスマホを胸に当て、四つ吸って、六つ吐く。
時雨がソファの背で耳を立て、ゆっくりと目を細めた。
——既読が、鳴る。
昨夜の二行——まだ/ごめん。
「もうすこし」の先にある線を、私は踏み越えずに近づくと決めた。
ノートに見出しを書く。
《今日の方針:**閾(しきい)**を知る/触れない/知らせない/視界で返す》
時雨(しぐれ)が窓辺で尾を振る。四つ吸って、六つ吐く。胸の拍は静かだ。
*
午前の返却ラッシュが落ち着くと、影浦玲生(かげうら・れお)が手帳を掲げた。
「外縁ログ。夜明け、川沿いの非常灯、点灯の閾値が一拍だけ早い。区の掲示は正時。会館の合唱は評判よし。……ただ、商店街の集会所、火災報知器の定期点検が午後に入ってる」
火災報知器。閾値の装置だ。
「主観は良。息、深めに通ってる」
玲生は頷く。「距離、保とう。僕は風景だけ拾う」
*
児童コーナーで掲示を貼り替えていると、ポケットがひと拍だけ震えた。
【下書き保存】——しきい
【下書き保存】——ちかい
“近い”。私はボイスメモを開く。空調の低音、その底にピッ……ピという高音。不規則。
【保存:商店街集会所 裏口】
バックヤードで「掲示の紙、切らしてて」とだけ告げると、玲生が「外縁了解」と目で返す。
*
集会所の裏口。開閉ドアの上に感知器、横に「点検中」の小札。
台車が一台、消毒用アルコールの箱を山積みにして、感知器の下の直線に置かれている。
触れない。
私は裏口の掲示板の前に立ち、矢印の影をじっと見る。出入りしてきた職員が私の視線を辿り、アルコールの箱→感知器→矢印へと目を移す。
「ここ、別動線で」
職員が声をかけ、台車は斜めに引かれる。
その瞬間、ポケットが震えた。
【下書き保存】——よけた
【下書き保存】——よかった
点検のピッという試験音は続くが、誤発報の気配は遠のいた。
*
図書館に戻ると、玲生が短く報告する。
「外縁。集会所、誤報なしで点検終了。区のSNSに『静かに終わりました』」
私はうなずく。「主観は変わらず。触れてない」
「それと、寄贈パソコンの古いメッセージアプリ、下書きフォルダだけ一瞬増えて消える現象、まだ出る。切断は維持してるのに。ミラーの残留かも」
胸の内で、薄い氷が鳴る。しらせるなの線を、指でなぞり直す。
*
昼過ぎ、ポケットが二度震えた。
【下書き保存】——ふたつ
【下書き保存】——えらんで
ボイスメモの底に二つの拍。保存名が連続で埋まる。
【保存:白妙(しろたえ)公園 遊具側】
【保存:柳(やなぎ)見晴橋 東詰】
どちらも人の流れの閾。私は公園を選ぶ。
白妙公園の滑り台の前で、小さな子の列が密になる。先頭の子はためらって動けない。
装置に触れない。
私は滑り台のはしごと着地点の斜めに立ち、指で空に小さな円を描く。
「まわって」と、届くか届かないかの声。
お母さんがそれに気づき、「一回、ぐるっとね」と笑う。列がゆるみ、先頭の子の一歩が出る。
震え。
【下書き保存】——こわくない
【下書き保存】——いけた
*
夕方、帰り道の商店街で、エレベーター前に人だかり。
「一台点検中につきご不便を——」の掲示。残る一台に人が偏る。過載のアラームがときどき鳴る。
私は階段方向の壁のポスターの前に立つ。季節のスタンプラリーの明るい図案。
その前で、肩をすっと回して伸びをする。
視線が連鎖し、二組が階段へと動く。
エレベーターの扉が閉まり、アラームは鳴らない。
震え。
【下書き保存】——わかれた
【下書き保存】——たすかった
*
扉を開けると、時雨が足に体を絡ませる。
「ただいま」
テーブルにスマホを置いた瞬間、部屋の空気が一拍深くなる。時雨が耳を立てた。来る。
25:61。
青い泡が二度湧いて沈む。
既読:蒼真
【下書き保存】——しきい
【下書き保存】——こえるな
【下書き保存】——みてて
こえるな。
私は“ボイスメモ”を開く。今日いちばん薄い拍。
【保存:桜丘(さくらがおか)スタジオ跡 表】
また、ここ。
上着を掴み、時雨に「すぐ戻る」。彼は窓辺で耳を立てたまま見送る。
*
スタジオ跡の表、夜のシャッターに新しい告知が貼られていた。
〈明日 深夜 電源切替再試験〉
貼り紙の右下だけが浮き、下から古い案内の赤文字がかすかに覗く。
私は触れない。
シャッターに正面から立たず、街灯の斜光の端に入る角度に立つ。影がめくれの上に落ち、二枚の紙の境目を浮かび上がらせる。
通りがかった現場監督が足を止め、自分の手で角を押さえ、古い紙を完全に剥がす。
「これ、紛らわしいからな」
無線が飛び、作業員がチェックリストを一枚差し替える。
震え。
【下書き保存】——みえた
【下書き保存】——まにあう
帰ろうとしたとき、角の暗がりで高校生がスマホを掲げ、「ここ映えるんだよ」と囁く。
私は近づかない。
代わりに、道路向かいの古いレコード店のショーウィンドウに視線を向け、頷く。
ガラス越しのジャケット群が、街灯でやわらかく光る。
「……あっちのほうがいい」
彼らの足が離れる。
震え。
【下書き保存】——まねるな
【下書き保存】——いい
*
部屋に戻ると、青い泡が遅れてひとつ。
既読:蒼真
【下書き保存】——まだ
【下書き保存】——そばに
胸の奥に、痛いほどやさしい熱が差し込む。
私はノートを開き、短くまとめる。
《主観ログ・第九夜》
・集会所:アルコール積みの直線→視界誘導で誤報回避
・白妙公園:列の密をほどく→「いけた」
・商店街:エレベーターの過載分散→「たすかった」
・桜丘表:貼り紙の二重を可視化→「まにあう」/撮影の真似を他所へ
・遵守:触れない/知らせない/閾を越えない
・メッセージ:「しきい/こえるな/みてて」「まだ/そばに」
“越えない”線のこちら側に、今日が返った気配がある。
私はスマホを胸に当て、四つ吸って、六つ吐く。
時雨がソファの背で耳を立て、ゆっくりと目を細めた。
——既読が、鳴る。
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