【完結】一度きりの離縁をください ― 契約夫婦、期限切れ前夜

東野あさひ

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第4話「十日の作戦会議――“今日だけ欄”で壁を越える」

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 朝いちばん、私は鐘を二度鳴らした。
 食堂の長机が並び、壁の分担表の横には新しく描いた十日間の走り方が貼られている。表題は大きく――〈十日の作戦会議〉。
 最終監査は十日後。婚姻の更新期日までは二十八日。文字の上では二つの時計が動いているけれど、私たちが扱えるのは今日だけだ。

「まず、知らせます」

 私は皆の前で封書を掲げ、深呼吸した。手が震える。けれど、弱さの開示は訓練――そう、昨日、自分で決めた。

「グライフ家――レオン様のご実家から、十日後の監査までに王都へ帰還せよとの書状です。帰還がない場合、後任の花嫁を選定する、と」

 食堂の空気が下がったのがわかった。ヘーデが低く唸り、サビーナが舌打ちを我慢する音がする。ユルクは一歩前に出て、周囲の視線を背で受け止めた。

 私は続ける。「勝手に守らない。だから、知らせて、頼って、半分ずつ。――この十日、皆さんの力を、生活に変えて貸してください」

 粉屋のローレンが力強く頷いた。「貸すも何も、わしらの毎日ですからな」

 レオンが席を立った。剣帯はつけたまま、掌は空にしている。「俺からも。王都の壁は俺ひとりでは崩せない。だが、ここでの暮らしは俺たちの手で守れる。……頼む」

 その瞬間、指輪が短く光る。誰も騒がない。昨日から、皆その光に慣れはじめていた。ただ、目の奥の色が少しずつ柔らかくなる。



 板書の下段に、私は十日の配列を描いた。

一日目:作戦会議/“今日だけ欄”拡張

二日目:峠道・仮補修(導水設計の試行)

三日目:市場買い付け動線の詰め/荷車交代制

四日目:洗い場の燃料管理の図式化(乾湿・風向対応)

五日目:第三者立会いの夜間検証(領民代表参加)

六日目:鍛冶場の繁忙期プロトコル(火と表の両立)

七日目:弱さローテ(彼=家族/私=王都/双方=恐れ)

八日目:共同宣言文の草案作成(現在形のみ)

九日目:総仕上げ(試写会のように昼間に通し)

十日目:最終監査――〈生活で示す〉

「そして、日々の“今日だけ欄”は、全部で三倍に増やします」

 私は右端に白い枠をずらりと増設した。“今日だけ台所/今日だけ峠/今日だけ洗い場/今日だけ鍛冶”――困りごとを小さく切って、拾い制で回す。

「拾った人には菓子一切れ。嘘みたいですが、小さな報酬は回転を速くします」

 マルタが即座に手を挙げ、「菓子は蜂蜜胡桃が足りなくなるので、今日は干し葡萄で」と笑った。
 笑いは、緊張を生きやすい形にしてくれる。

「夜の一時間は必ず守ります」と私は重ねた。「“現在形の宣言”を毎晩積みます。未然形の約束はしない。できることだけを、言葉にする」

 セルジュは食堂の隅で腕を組み、黙って聞いていた。途中で一度、書記官に何か囁き、私とレオンをまっすぐに見た。判定の目。でも、氷ではない。



 二日目の朝は、峠道の土手が雪代で崩れ、細い側溝が詰まっていた。
 私は長靴に足を通し、ロープと白墨、板切れを背負って現場に出る。レオンとユルクは先に到着していて、兵たちが石を運んでいる。粉屋のローレンも手伝いに来ていた。

「勝手に守らない」

 心の中で復唱して、私は声を張った。「必要なのは導水と荷重の逃がしです。板で仮の水の道を作ります。白墨で印を付けます。――拾い制、お願いします!」

 サビーナが手を挙げる。「洗い場から古い桶を持ってくるね!」
 ヘーデは鉄の棒を担いで現れ、「棒で踏み固めを手伝う!」と笑う。

 私は白墨で地面に線を引いた。雪代が落ちる角度、石の置き方、板と板の重ね方――図にすると、皆が同じ絵を見る。
 足元が泥に取られ、ぐらりと体が傾いた刹那、背から力がかかった。

「頼む。手を」

 レオンの声。守る前に、知らせて、頼る。私の手首に彼の手が重なり、体が安定する。
 指輪が、短く脈打つ。私は頷き、彼の掌を握り返した。

「半分、持ちます」

 ユルクの号令で石が運ばれ、板が時野菜のように重なる。水は新しい道を知り、溜まっていた泥を押し流しはじめた。ローレンが「麦の粘り気みたいだ」と笑い、ヘーデが棒で足場を固める。
 陽が低くなるころ、仮の導水路は思ったよりも長く持ちこたえた。**“今日だけ欄”**に〈峠道:導水試行・拾い=粉屋/洗い場/兵〉と書き込む未来の自分が、目の前にいる気がした。



 昼過ぎ、砦へ戻ると、マルタが干し葡萄のパンを焼き上げていた。蜂蜜を控えめにして、代わりに葡萄の酸味でコクを足す。
 私とレオンは台所の隅で、油の少ない軟膏に蜂蜜を一滴混ぜ、私の指に塗った。昨日、泥で荒れた体。彼は濡れた布巾で私の指を包み、「手を荒らすな」といつものように言った。

「蜂蜜は、パンに」

「君にも」

 短いやりとりだけで、胸の奥が暖かくなる。生活で示すとは、こういう温度を、第三者にも分かる形で残すことだ。
 私は恋の記録帳を取り出し、昼のページにメモする。〈峠:導水/拾い制活性/“頼む、手を”/発光:小・確〉



 夜の一時間。今日は第三者立会いなしの日だが、扉の外に気配があった。セルジュかと思って開けると、小柄な少女が立っていた。洗い場の雑用に入ったばかりのミーナだ。

「ごめんなさい……“今日だけ欄”、拾いたかったけど、怖くて」

 私は腰を落として目線を合わせ、「怖いのは良いサイン」だと伝えた。
 近くで見ているだけでも拾いになる。彼女は**“見守り札”**を持って来る。見ることも、立派な役割だ。

 ミーナを見送ってから、私はレオンの正面に座った。机の上には、共同宣言文の草案――〈現在形〉だけで書いた短い行。

私は、あなたの自由を増やす今日の一手を、今ここで差し出す。
私は、助けを求める。助けを求めるあなたを、恥じない。
私は、弱さを練習し続ける。失敗は、明日の道具に直す。

 読み上げると、指輪がかすかに温かい。
 レオンは草案を見つめ、「現在形で、長く続くものを書けるか」と尋ねた。

「書けます」私は頷く。「毎日が連続すると、現在進行形になります」

「では、俺からも一行」

 彼が硬い紙片に書いたのは、簡潔な文だ。

俺は、家の壁について“今日だけ欄”を作る。
今日、俺ができるのは、戻らないことではない。戻る必要がない“今日”をここで作ることだ。

 それは、戦い方の宣言だ。勝ち負けではなく、選び方の話。
 私は胸の奥に重たいものが落ちる音を聞いた気がした。安堵という名の、石。

「“今日だけ欄”を壁に?」

「壁を叩く道具にする。跳ね返されたら、位置をずらす」

 指輪がまた光る。短い。けれど、芯が太い。

「……キスは、記念日に」

 気づけば口をついて出ていた。
 レオンは小さく笑った。「記念日を増やす前に、相談を」

 私も笑って、草案に線をひいた。〈記念日の管理=相談制〉。馬鹿みたいに見えるが、生活の条文は、馬鹿みたいに具体的なほうが効く。

 最後に、“今日の好き”を書き合った。
 彼――〈泥のついた外套を、私が頼まれるまで手を伸ばさず待っていたこと〉
 私――〈“壁に今日だけ欄を作る”という、戦わない戦い方〉

 ページを閉じる直前、戸口の向こうで気配が止まった。セルジュだ。
 彼は入ってこず、ひと言だけ置いていった。

「選び方は、記録になる。……続けなさい」



 三日目。市場の買い付けの順番を逆転した。
 道が狭いなら、軽いものから先に。蜂蜜は先、胡桃は後――昨日決めた通りだ。荷車の交代制を表に落とし込み、拾い制の札には小さな穴をあけて通し紐を通した。札の迷子が減るだけで、**“今日だけ欄”**が目に見えて回る。

 帰路、小さな事故があった。溪にかかる古い木橋の板が一枚、雪代で浮いたのだ。
 先頭の荷車がぐらりと傾き、私は叫ぶより早く走った。

「頼む、ロープ!」

 声が自分のものではないみたいに通る。背中でレオンの足音、横でユルクの指示。
 ロープが渡り、荷車は橋から落ちなかった。足が震えはじめてから、やっと自分の鼓動に追いつく。
 レオンが私の肩を掴んで言う。「頼めたな」

 その言葉に、喉奥の熱がほどけた。指輪が静かに光る。



 四日目。洗い場の燃料図が完成した。
 乾いた薪と濡れた薪を色で分け、風向と湿度で二割増しの枠を用意。サビーナは図の前で目を細め、「見えると、気が楽」と笑った。
 図の端には**“今日だけ欄”**がついている。風が変わればここに丸、雨が降ればここに二重丸。現在形で塗るだけの簡単な仕事が、不安の丸を少しずつ消していく。

 夜。第三者立会いの日。ヘーデとローレン、サビーナが隅に座り、マルタは腕を組む。
 私は共同宣言文の草案を読み上げ、レオンがそれを生活の所作でなぞる。
 彼は例のエプロンを取って私の腰の後ろで結び、私は彼に**“頼む”**を明確な形で渡す。

「薪の図を、明日の見回りで兵にも教えてください。私だけでは届かない場所がある」

「引き受ける。今、俺ができる半分だ」

 ――ぱっ。
 光はもう、食堂の誰にも特別ではない。それでも、目に映るたびに、胸のどこかが温かくなる。
 セルジュは黙って頷き、書記官に短く合図を出した。彼の瞳は相変わらず灰色だけれど、曇り空の合間の光くらいは差している。



 五日目の昼すぎ、峠の見張り台から狼煙が上がった。川幅が増しているという知らせだ。
 私はすぐに分担表の**“今日だけ欄”に〈川:二重導水 拾い=洗い場/粉屋/鍛冶/兵〉**と書き込み、白墨と板と桶を掴む。
 走りながら、未然形で何も約束しないと心に言い聞かせる。今できることだけを並べて、声にする。

「板を三枚、ロープ短く二本! 子どもは下がって見守り札!」

 ミーナが札を高く掲げ、「見守り、拾い!」と叫んだ。
 川の音は大きいのに、言葉は不思議と通る。私の隣にレオンが並び、ユルクが後詰めに立つ。
 板が置かれ、桶が傾き、水が新しく道を覚えはじめる。今日だけの橋だ。
 その場当たりの美しさに、少しだけ泣きたくなる。現在形はこんなにも、生き物だ。



 夜。七日目を前に、私は机に頬杖をついていた。
 弱さローテの日が来る。彼=家族/私=王都/双方=恐れ。――私は王都が怖い。王都での自分は、失敗しない機械だった。失敗しないふりをして、誰にも頼らず、息の仕方を忘れた。

「アーデル」

 名を呼ばれて顔を上げると、レオンが手袋を持っていた。
 あの日測った手のサイズ。彼は私の手に手袋を添えて、優しく押し戻す。

「王都の話をするあいだ、これを」

「どうして?」

「守らない。……寄りかかる手を、作る」

 手袋は、手の形を守る道具だ。布越しに触れ合うだけで、境界は保たれる。
 私はその布の安心に乗って、王都の話をした。書庫の静けさ、机の尖った角、紙の匂い。依存ではないが、硬い孤独に寄りかかって生きていた頃の話。

「――ここでは、紙よりも先に、声がある」

 言い終えたとき、指輪が静かに光った。長くは続かない。でも、芯はまっすぐだ。
 レオンは短く頷き、家の話をした。幼いころに吸い込んだ空気、家名に伴う責務と装い、言わないことで崩れずに済んできた壁。
 言葉の代わりに、彼は剣帯をまた机に置いた。空の両手は、頼る手になれる。

 二つの光が、同時にふわりと明滅した。
 戸口の向こうで、そっと足音が遠ざかった。セルジュだろう。記録には、こういう呼吸の変化は載らないかもしれない。でも、生活には刻まれる。



 八日目。私は共同宣言文の仕上げにかかった。
 〈私は、あなたの自由を増やす今日の一手を差し出す。〉
 〈私は、助けを求める。求める声を、恥じない。〉
〈私は、弱さを練習し続ける。失敗は、明日の道具に直す。〉
 〈私は、半分を持つ。半分を渡す。〉
 〈私は、未然形で約束しない。現在形で選ぶ。〉

 五行。短い現在形。
 ハーゼに見せると、彼は眼鏡を指で持ち上げ、「老いにも読みやすい」と微笑んだ。マルタは「台所にも貼る」と言い、ユルクは兵舎にも写した。ヘーデは鍛冶場の壁に叩き付け、ローレンは粉袋にチョークで書いた。サビーナは洗い場の梁に吊るした。
 ――生活で示すとは、こういう貼り方だ。



 九日目は通し。
 朝から夜まで、十日間で積み上げた選び方を一日の中で連ねた。**“今日だけ欄”**は朝に三つ、昼に五つ、夕方に二つ拾われ、干し葡萄の菓子は空になった。
 セルジュは何も言わない。書記官のペンが走る音だけが、合図のように背を押す。

 夜。最後の一時間。
 私とレオンは向かい合って座った。窓の外は春の雨。雪代の季節が水の季節に移る予感がする。
 私は胸の奥に手を当て、現在形の言葉を選んだ。

「私は、ここにいます。明日の監査がどんなものであっても、今日の分担を今日やり、夜にはここに戻って、あなたと記録を読みます」

 レオンは静かに頷いた。
 そして、ゆっくりと立ち上がり、机を回って私の隣に座る。守る前に、知らせて、頼る――彼は小さく告げた。

「頼む。明日、俺が言葉に詰まったら――君の言葉で、俺の現在を言ってくれ」

「引き受けます。その逆も、頼みます」

 指輪が、二つとも、確かに光った。
 長くはない。だが、その短さが、現在形の証拠だと思えた。



 十日目――最終監査の朝。
 雨は上がり、砦の石は濡れた灰色に輝いている。食堂の壁には分担表と“今日だけ欄”、そして五行の共同宣言。
 扉が開き、王家監査局の紋章を胸につけた使者たちが入ってくる。セルジュは列の最後尾に立ち、いつもと変わらぬ灰の瞳で私たちを見た。
 その列の中に、見慣れない男がいた。家名の金糸の縁取り――グライフ家。レオンの実兄だ。噂でしか知らない苛烈さを、目尻の静かな皺が和らげている。

「レオンハルト。戻れ」

 開口一番。命令形。
 私は足を床にふみしめ、レオンの横顔を見た。彼は斜めに首を傾け、空の掌を見せた。剣帯は、今日も机に置いてある。

「今は戻れない。――今日、ここで暮らしているからだ」

 短い現在形。未然形の約束はない。
 私は一歩前に出て、五行の宣言を皆の前で読み上げた。
 ヘーデが頷き、サビーナが笑い、ローレンが「麦の匂いだ」と呟く。ユルクは姿勢を正し、ハーゼが眼鏡を押さえ、マルタが腕を組む。ミーナは見守り札を高く掲げた。

 光が――来た。
 短く、確かに。昨日までと同じ、でも、皆の目の前で。

 セルジュが一歩だけ前に出て、声を落とした。「記録。最終監査――生活における共同の意思表示、承認。第一要件、第二要件、適合。」

 使者たちの列に、さざ波のようなざわめきが走る。
 レオンの兄の目が、初めて揺れた。「家は――」

「家は、今日だけ欄に」とレオンは静かに言った。「今日、俺ができるのは、ここを回すことだ」

 私は手を伸ばし、彼の空の掌に自分の手を重ねた。勝手に守らない。頼って、半分ずつ。
 指輪が、短く、強く、光った。

 それは長い物語の終わりではない。現在形の一行が、また一行、繋がった瞬間だ。
 契約書の余白は、思ったよりも広い。書き込むための当座の十日は、今日で尽きる。けれど、今日はまた来る。**明日の“今日”**として。

 私は胸の中で、もう一度だけ繰り返した。
 恋の定義――〈相手の自由を増やすこと〉。〈半分を持ち、半分を渡すこと〉。〈未然形で約束しないこと〉。
 そして、新しく一行を足す。
 〈恋は、現在形の短い光を、毎日拾い上げること〉。
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