16 / 33
第16話「写しが歩く――“窓口を外へ”」
しおりを挟む
翌朝の砦は、昨夜の小式の余韻を、蜂蜜の薄い匂いと金具の冷たい手触りに残していた。中庭の旗は半歩右で穏やかに揺れ、樋は規則正しい音で水を運ぶ。壁の〈季節の棚〉には、ハーゼの細字で〈祝辞=現在形 完了〉と書き加えられ、夏欄の交差の三辺に、ごく小さな点がひとつずつ添えられていた。点は、終わりではない。今日、そこで触れたという印でしかないことを、私たちは承知している。
窓口に封書が三通、重なっていた。王都監査局、家、そして見覚えのない印――候補者の親族筋のものだ。順に開く。監査局は簡潔だ。昨日の小式の写しの受領、祝辞が現在形で構成されていることへの註記、「生活の共同が“儀礼”に侵食された兆候なし」という判定。家はいつもどおり硬い筆致で、しかし文の端がほんのわずか緩んでいる気がした。「旗の位置は半歩右可」。続く一文は相変わらず重い。「婚姻調整の進捗、三日以内に“目に見える形”で改めよ」。最後の封は、三家のうちの一つからの使いの書状――「候補者の母が砦の“仕組み”の見学を望む」。
胸の中で、小さく鈴が鳴った。見学。窓口をこちらに置いたまま、向こうの足がこちらへ踏み込もうとしている。札で受けるのが筋だ。だが、もしこちらの窓口そのものを連れて外へ出せたら? “写しが歩く”。小式でセルジュが言ったことばが蘇る。写しは砂の上の文字でも、壁の前の模写でもない。板の線として動くのだ。
「レオン」私は振り返った。「窓口を……連れて出せますか」
「今日なら、できる」彼は迷わず答えた。「砦を空にしない程度に、半分を連れて行く」
「半分は残る。休息帯は崩さない。――“見学”は拾い制で組みます」
板に線を引く。〈外窓口:持ち出し〉。持ち出すもの――導水の図と金具の見本、休息帯の札の写し、小石箱、拾い札、共同宣言の五行、台所の分け方の図、見守り札。一つ書くごとに、今日だけ欄の右端に小さな丸が増える。丸は今日動く手順の数だ。増えすぎれば持てないが、半分に割れば持てる。私は丸の半分に斜線を引き、持ち出し班と留守班に切り分けた。ユルクは留守、ヘーデは持ち出しに一刻だけ。サビーナは半刻ごとに交代、ローレンは粉袋の切れ端を見本に。ミーナは見守り。
昼前、候補者の母が来た。光沢のある布に身を包み、背筋をまっすぐに伸ばした女性だった。厳しい目ではあるが、侮りの色はない。従者が三人。家の使いほどの硬さはなく、けれど、空気に**“品”**の硬さが含まれている。
「拝見させていただけると伺いました。“仕組み”の寄進とやらを」
「寄進=仕組みは、今日の手順の見える化です」私は応じた。「数字も、音も、甘さも、少しずつあります」
彼女の眉がわずかに動いた。甘さ? と口に出す代わりに、視線だけで問う。私は外窓口の箱を示した。共同宣言の五行が貼られ、小石箱が脇に置かれ、拾い札の束が紐に通って揺れている。台所の図には**「半分に割る」矢印が描かれ、洗い場の順番には「呼ばない二刻」**の帯が赤で囲まれている。
「呼ばない二刻?」母君がそこだけ声に出した。「人を呼ばないで、どうやって回すのです」
「呼ばれない勇気を、仕組みとして持つんです」私の声は驚くほど落ち着いていた。「空白で回します。空白は仕組みです。空白を守る人が役を持ち、呼ばれなかった証を小石で数えます。数えるのは、安心の形です」
「……奇妙な理屈ですが、数があるのは悪くない」
彼女は樋の図に歩み寄り、角度の記しを指でなぞった。「指一本分?」
「ここでは、指が単位です。現場の手で守れます」
「王都では、尺です」
「今日は指で足ります。明日に尺で写します」
言い換え。ハーゼが私の横で静かに頷く。彼が立てた文官の橋を渡ると、こちらの土の匂いが薄まっていく気がする。けれど、完全には消えない。橋の向こうに土を少し持っていける限り、言い換えは誠実だ。
見学は一連の所作で進んだ。ヘーデが金具を二度鳴らし、ローレンが半分に割れるパンの音を落とし、サビーナが桶の縁を指で叩いて水の音を示し、ミーナが見守り札を胸に掲げて一歩引く。マルタは蜂蜜を薄く塗ったパンを“半分”にして盆に置き、ハーゼは共同宣言の五行を文式に写した紙を手渡した。祝辞=現在形の写しも添える。
候補者の母は終始、視線で測り、言葉は少なかった。だが、蜂蜜のパンを口に運んだときだけ、硬い輪郭がほんの少し緩んだ気がした。彼女は最後に、外窓口の箱そのものを見つめ、静かに言った。
「……それを貸していただけますか。“箱ごと”。こちらで要点を写し、家々で回覧したい」
箱ごと。窓口を、歩かせる。私はレオンを見る。彼はうなずいたが、すぐに指を一本立てた。
「半分です。中身すべては出せない。見守り札と小石箱は置いて行く。箱と図、拾い札の束の半分、そして宣言の写し。――今日貸せるのはそこまで」
「それで構いません」母君は即答した。「半分からわかることもあります」
指輪が、短く光った。彼女は光にわずかに目を細め、何も言わずに箱の蓋に指を添えた。その手つきに、私は奇妙な懐かしさを覚えた。**“仕切る”**手の重み。王都の空気を吸って育った人が持つ、規律の呼吸。その呼吸が、いまは箱の重みを量っている。
母君と従者たちが去ると、中庭に早い夏の風が通った。外へ出た窓口の半分が、風の中で形を保てるかどうか。私の胸はざわざわと鳴った。言葉は板の線になったが、外の土は違う。線が滲むか、折れるか、どちらもあり得る。
「不安?」レオンが尋ねる。
「置き場所が変わるのが怖いだけです。箱が戻らなくても、写しが戻るなら」
「戻らなければ、今日だけ欄に新しい箱を描く。半分はいつでも作れる」
そのとき、窓口にもう一通の封。家からの追伸。「三日以内の“目に見える進捗”は、できれば“人の名”を伴って示せ」。私は無意識に息を詰めた。名。札を人に戻そうとする圧力だ。名は便利だ。だが、名は名の重さで仕組みを壊すことがある。
「……“名”を出せと来ました」
レオンは短く考え、机の上の剣帯に視線を落とした。そこには何もない。空の掌――今日の形。
「名前を出すなら、役の名を出す。窓口役、見守り役、割り手、叩き手。人の名でなく、今日の名」
「今日の名」
「そう。名は、動詞に宿る」
私は胸が少し軽くなるのを感じ、板に書いた。〈今日の名:窓口/見守り/割り手/叩き手/運び手/呼ばない番〉。名の右に小さな丸。拾い制。誰でも拾える名。名を持ち出し、名を戻す。王都の名に対して、こちらは今日の名で返す。
夕刻、思いがけずセルジュが再び現れた。外窓口の箱が出たことを、どこかで耳にしたのだろう。彼は数字と図の前に立ち、軽く顎を引いた。
「写しが歩く。記録に残す価値があります。“窓口の可搬化”」
「可搬化……?」
「仕組みは、場所に縫い付けるほど強くなると思われがちですが、持ち運べる仕組みは、しばしば人を守る。王都の火急の場で、手順の箱ひとつが全てを左右した例を知っています」
「王都にも、箱が」
「ええ。けれど中身は重すぎて、持てなかった」セルジュは淡々と告げた。「半分に割っておけば、動けた」
私の背中に汗がじわりと滲んだ。いま私たちがしたこと――半分だけを貸し出す――は、王都の事例に照らしても動ける選び方だということだ。胸のどこかで固まっていた小さな石が、ひとつ崩れる。私は記録帳に書く。〈箱=半分の可搬〉。
夜の一時間。皆が集まり、今日の輪郭を声でなぞる。〈外窓口持ち出し/候補者母の見学/今日の名の掲示/名の追伸への言い換え/箱=半分の可搬〉。読み上げながら、私は言葉の奥に薄い空洞を感じた。婚姻の札は、まだ人を呼び戻そうとするだろう。窓口が歩いたことは進捗だ。けれど、名の圧は形を変えて何度でも来る。どうすれば、**“人ではなく仕組み”**を贈ることが、人の尊厳を削らない形で通るのか。
「アーデル」レオンが机越しに目だけで呼ぶ。私は首を傾ける。
「頼む。君が怖いを、言葉にしてくれ」
「あの箱が戻らなかったら、“仕組みは贈り物にならぬ”の証拠になるのが怖い。私がそう思ってしまうのが、一番怖い」
「……いい」彼の声が低く柔らかい。「その怖いを、半分持たせてくれ」
「半分、持ってください」
指輪が光る。長くはないが、芯が太い。誰に見せるでもない灯りが、机の木目に一瞬浮かんで消えた。
「今日の好き」私は書く。「〈あなたが“名は動詞に宿る”と言ったこと〉」
レオンは笑わずに、しかし目で笑って書く。「〈君が箱を“歩かせた”こと〉」
消灯後、私は一人で窓辺に立ち、外の暗さを吸い込んだ。箱が今どこにあるのか、想像する。見知らぬ屋敷の長い机の上、硬い椅子、乾いた石床。半分の拾い札が、新しい手に触れ、見守りの言葉が異国のような口の中で転がる。蜂蜜の薄い甘さの記憶が、どれだけ持つだろう。
足音。扉の向こうで控えめなノック。ハーゼの声。「奥様。今しがた、使いが戻りまして」
私は心臓を掴まれたように振り返る。戻った? 箱が?
「いいえ、箱ではなく、文が。候補者の母御から」
封を切る。墨はまだ新しく光っていた。
『窓口の箱は明朝返す。半分で足りる。
“呼ばない二刻”は理解に時間を要す。だが、我が家の女中頭が「見守りの札を欲しい」と言った。
名の件、“今日の名”の掲示を見た。名は動詞に宿るという言い換え、強し。
家の年長者は、“名と血”でしか数えられぬ。ゆえに、しばしば人を壊す。
私は、壊さない形を学びたい。』
文を持つ手がわずかに震えた。胸の奥で何かが、深い場所で音を立ててほどけていく。「壊さない形を学びたい」。それは祝辞ではない。誓いでもない。現在形の短い願いだ。
私は記録帳の末尾に一行を足した。〈恋は、名を動詞にし、箱を歩かせること〉。書き終えると、窓の向こうで風が旗を撫でる音がした。半歩右は、今夜も正しいらしい。
眠りに落ちる前、私はもうひとつだけ心に置き石をした。家は柔らかくなったが、議場はまだ遠い。写しは歩き始めたが、議場の床は滑りやすい。未来に約束しない私たちにできるのは、明朝の箱返却までの今日を、最後まで回すことだけだ。
夜がほどけ、薄い光が石の縁を拾い始める。離縁まで、十七日。数字は相変わらずだ。けれど、箱は戻ると言っている。半分で足りると言っている。半分で足りる。――その言葉を、私は胸の中央に置いて、目を閉じた。
明日、箱が戻る。戻った箱に、新しい傷が増えていたら、それは歩いた距離だ。戻らなかった札の数があれば、それは渡した手の数だ。私は箱の内側に小さな余白を残しておこう。誰かがそこに、今日の名を書くための余白を。
その余白は、いつか地図になる。外の土に、内の土に、同じ線で橋をかける地図に。蜂蜜の薄い甘さの跡が、消えずに残るくらいの線で。
窓口に封書が三通、重なっていた。王都監査局、家、そして見覚えのない印――候補者の親族筋のものだ。順に開く。監査局は簡潔だ。昨日の小式の写しの受領、祝辞が現在形で構成されていることへの註記、「生活の共同が“儀礼”に侵食された兆候なし」という判定。家はいつもどおり硬い筆致で、しかし文の端がほんのわずか緩んでいる気がした。「旗の位置は半歩右可」。続く一文は相変わらず重い。「婚姻調整の進捗、三日以内に“目に見える形”で改めよ」。最後の封は、三家のうちの一つからの使いの書状――「候補者の母が砦の“仕組み”の見学を望む」。
胸の中で、小さく鈴が鳴った。見学。窓口をこちらに置いたまま、向こうの足がこちらへ踏み込もうとしている。札で受けるのが筋だ。だが、もしこちらの窓口そのものを連れて外へ出せたら? “写しが歩く”。小式でセルジュが言ったことばが蘇る。写しは砂の上の文字でも、壁の前の模写でもない。板の線として動くのだ。
「レオン」私は振り返った。「窓口を……連れて出せますか」
「今日なら、できる」彼は迷わず答えた。「砦を空にしない程度に、半分を連れて行く」
「半分は残る。休息帯は崩さない。――“見学”は拾い制で組みます」
板に線を引く。〈外窓口:持ち出し〉。持ち出すもの――導水の図と金具の見本、休息帯の札の写し、小石箱、拾い札、共同宣言の五行、台所の分け方の図、見守り札。一つ書くごとに、今日だけ欄の右端に小さな丸が増える。丸は今日動く手順の数だ。増えすぎれば持てないが、半分に割れば持てる。私は丸の半分に斜線を引き、持ち出し班と留守班に切り分けた。ユルクは留守、ヘーデは持ち出しに一刻だけ。サビーナは半刻ごとに交代、ローレンは粉袋の切れ端を見本に。ミーナは見守り。
昼前、候補者の母が来た。光沢のある布に身を包み、背筋をまっすぐに伸ばした女性だった。厳しい目ではあるが、侮りの色はない。従者が三人。家の使いほどの硬さはなく、けれど、空気に**“品”**の硬さが含まれている。
「拝見させていただけると伺いました。“仕組み”の寄進とやらを」
「寄進=仕組みは、今日の手順の見える化です」私は応じた。「数字も、音も、甘さも、少しずつあります」
彼女の眉がわずかに動いた。甘さ? と口に出す代わりに、視線だけで問う。私は外窓口の箱を示した。共同宣言の五行が貼られ、小石箱が脇に置かれ、拾い札の束が紐に通って揺れている。台所の図には**「半分に割る」矢印が描かれ、洗い場の順番には「呼ばない二刻」**の帯が赤で囲まれている。
「呼ばない二刻?」母君がそこだけ声に出した。「人を呼ばないで、どうやって回すのです」
「呼ばれない勇気を、仕組みとして持つんです」私の声は驚くほど落ち着いていた。「空白で回します。空白は仕組みです。空白を守る人が役を持ち、呼ばれなかった証を小石で数えます。数えるのは、安心の形です」
「……奇妙な理屈ですが、数があるのは悪くない」
彼女は樋の図に歩み寄り、角度の記しを指でなぞった。「指一本分?」
「ここでは、指が単位です。現場の手で守れます」
「王都では、尺です」
「今日は指で足ります。明日に尺で写します」
言い換え。ハーゼが私の横で静かに頷く。彼が立てた文官の橋を渡ると、こちらの土の匂いが薄まっていく気がする。けれど、完全には消えない。橋の向こうに土を少し持っていける限り、言い換えは誠実だ。
見学は一連の所作で進んだ。ヘーデが金具を二度鳴らし、ローレンが半分に割れるパンの音を落とし、サビーナが桶の縁を指で叩いて水の音を示し、ミーナが見守り札を胸に掲げて一歩引く。マルタは蜂蜜を薄く塗ったパンを“半分”にして盆に置き、ハーゼは共同宣言の五行を文式に写した紙を手渡した。祝辞=現在形の写しも添える。
候補者の母は終始、視線で測り、言葉は少なかった。だが、蜂蜜のパンを口に運んだときだけ、硬い輪郭がほんの少し緩んだ気がした。彼女は最後に、外窓口の箱そのものを見つめ、静かに言った。
「……それを貸していただけますか。“箱ごと”。こちらで要点を写し、家々で回覧したい」
箱ごと。窓口を、歩かせる。私はレオンを見る。彼はうなずいたが、すぐに指を一本立てた。
「半分です。中身すべては出せない。見守り札と小石箱は置いて行く。箱と図、拾い札の束の半分、そして宣言の写し。――今日貸せるのはそこまで」
「それで構いません」母君は即答した。「半分からわかることもあります」
指輪が、短く光った。彼女は光にわずかに目を細め、何も言わずに箱の蓋に指を添えた。その手つきに、私は奇妙な懐かしさを覚えた。**“仕切る”**手の重み。王都の空気を吸って育った人が持つ、規律の呼吸。その呼吸が、いまは箱の重みを量っている。
母君と従者たちが去ると、中庭に早い夏の風が通った。外へ出た窓口の半分が、風の中で形を保てるかどうか。私の胸はざわざわと鳴った。言葉は板の線になったが、外の土は違う。線が滲むか、折れるか、どちらもあり得る。
「不安?」レオンが尋ねる。
「置き場所が変わるのが怖いだけです。箱が戻らなくても、写しが戻るなら」
「戻らなければ、今日だけ欄に新しい箱を描く。半分はいつでも作れる」
そのとき、窓口にもう一通の封。家からの追伸。「三日以内の“目に見える進捗”は、できれば“人の名”を伴って示せ」。私は無意識に息を詰めた。名。札を人に戻そうとする圧力だ。名は便利だ。だが、名は名の重さで仕組みを壊すことがある。
「……“名”を出せと来ました」
レオンは短く考え、机の上の剣帯に視線を落とした。そこには何もない。空の掌――今日の形。
「名前を出すなら、役の名を出す。窓口役、見守り役、割り手、叩き手。人の名でなく、今日の名」
「今日の名」
「そう。名は、動詞に宿る」
私は胸が少し軽くなるのを感じ、板に書いた。〈今日の名:窓口/見守り/割り手/叩き手/運び手/呼ばない番〉。名の右に小さな丸。拾い制。誰でも拾える名。名を持ち出し、名を戻す。王都の名に対して、こちらは今日の名で返す。
夕刻、思いがけずセルジュが再び現れた。外窓口の箱が出たことを、どこかで耳にしたのだろう。彼は数字と図の前に立ち、軽く顎を引いた。
「写しが歩く。記録に残す価値があります。“窓口の可搬化”」
「可搬化……?」
「仕組みは、場所に縫い付けるほど強くなると思われがちですが、持ち運べる仕組みは、しばしば人を守る。王都の火急の場で、手順の箱ひとつが全てを左右した例を知っています」
「王都にも、箱が」
「ええ。けれど中身は重すぎて、持てなかった」セルジュは淡々と告げた。「半分に割っておけば、動けた」
私の背中に汗がじわりと滲んだ。いま私たちがしたこと――半分だけを貸し出す――は、王都の事例に照らしても動ける選び方だということだ。胸のどこかで固まっていた小さな石が、ひとつ崩れる。私は記録帳に書く。〈箱=半分の可搬〉。
夜の一時間。皆が集まり、今日の輪郭を声でなぞる。〈外窓口持ち出し/候補者母の見学/今日の名の掲示/名の追伸への言い換え/箱=半分の可搬〉。読み上げながら、私は言葉の奥に薄い空洞を感じた。婚姻の札は、まだ人を呼び戻そうとするだろう。窓口が歩いたことは進捗だ。けれど、名の圧は形を変えて何度でも来る。どうすれば、**“人ではなく仕組み”**を贈ることが、人の尊厳を削らない形で通るのか。
「アーデル」レオンが机越しに目だけで呼ぶ。私は首を傾ける。
「頼む。君が怖いを、言葉にしてくれ」
「あの箱が戻らなかったら、“仕組みは贈り物にならぬ”の証拠になるのが怖い。私がそう思ってしまうのが、一番怖い」
「……いい」彼の声が低く柔らかい。「その怖いを、半分持たせてくれ」
「半分、持ってください」
指輪が光る。長くはないが、芯が太い。誰に見せるでもない灯りが、机の木目に一瞬浮かんで消えた。
「今日の好き」私は書く。「〈あなたが“名は動詞に宿る”と言ったこと〉」
レオンは笑わずに、しかし目で笑って書く。「〈君が箱を“歩かせた”こと〉」
消灯後、私は一人で窓辺に立ち、外の暗さを吸い込んだ。箱が今どこにあるのか、想像する。見知らぬ屋敷の長い机の上、硬い椅子、乾いた石床。半分の拾い札が、新しい手に触れ、見守りの言葉が異国のような口の中で転がる。蜂蜜の薄い甘さの記憶が、どれだけ持つだろう。
足音。扉の向こうで控えめなノック。ハーゼの声。「奥様。今しがた、使いが戻りまして」
私は心臓を掴まれたように振り返る。戻った? 箱が?
「いいえ、箱ではなく、文が。候補者の母御から」
封を切る。墨はまだ新しく光っていた。
『窓口の箱は明朝返す。半分で足りる。
“呼ばない二刻”は理解に時間を要す。だが、我が家の女中頭が「見守りの札を欲しい」と言った。
名の件、“今日の名”の掲示を見た。名は動詞に宿るという言い換え、強し。
家の年長者は、“名と血”でしか数えられぬ。ゆえに、しばしば人を壊す。
私は、壊さない形を学びたい。』
文を持つ手がわずかに震えた。胸の奥で何かが、深い場所で音を立ててほどけていく。「壊さない形を学びたい」。それは祝辞ではない。誓いでもない。現在形の短い願いだ。
私は記録帳の末尾に一行を足した。〈恋は、名を動詞にし、箱を歩かせること〉。書き終えると、窓の向こうで風が旗を撫でる音がした。半歩右は、今夜も正しいらしい。
眠りに落ちる前、私はもうひとつだけ心に置き石をした。家は柔らかくなったが、議場はまだ遠い。写しは歩き始めたが、議場の床は滑りやすい。未来に約束しない私たちにできるのは、明朝の箱返却までの今日を、最後まで回すことだけだ。
夜がほどけ、薄い光が石の縁を拾い始める。離縁まで、十七日。数字は相変わらずだ。けれど、箱は戻ると言っている。半分で足りると言っている。半分で足りる。――その言葉を、私は胸の中央に置いて、目を閉じた。
明日、箱が戻る。戻った箱に、新しい傷が増えていたら、それは歩いた距離だ。戻らなかった札の数があれば、それは渡した手の数だ。私は箱の内側に小さな余白を残しておこう。誰かがそこに、今日の名を書くための余白を。
その余白は、いつか地図になる。外の土に、内の土に、同じ線で橋をかける地図に。蜂蜜の薄い甘さの跡が、消えずに残るくらいの線で。
0
あなたにおすすめの小説
侯爵令嬢ソフィアの結婚
今野綾
恋愛
ソフィアは希少なグリーンアイを持つヴィンセントと結婚したが、これは金が欲しいソフィアの父の思惑と高い爵位が欲しいヴィンセントの思惑が一致したからに過ぎない
そもそもヴィンセントには美しい恋人がいる
美男美女と名高いヴィンセントとその恋人は身分に大きな差があるために結婚することは叶わないのだ
その事をソフィアも耳にしており、この結婚が形ばかりのものであることを知っていた
結婚して早々、ソフィアは実家から連れてきた侍女夫婦とあばら家に住むように言われて…
表紙はかなさんです✨
ありがとうございます😊
2024.07.05
白い結婚を捨てた王妃は、もう二度と振り向かない ――愛さぬと言った王子が全てを失うまで』
鍛高譚
恋愛
「私は王妃を愛さない。彼女とは白い結婚を誓う」
華やかな王宮の大聖堂で交わされたのは、愛の誓いではなく、冷たい拒絶の言葉だった。
王子アルフォンスの婚姻相手として選ばれたレイチェル・ウィンザー。しかし彼女は、王妃としての立場を与えられながらも、夫からも宮廷からも冷遇され、孤独な日々を強いられる。王の寵愛はすべて聖女ミレイユに注がれ、王宮の権力は彼女の手に落ちていった。侮蔑と屈辱に耐える中、レイチェルは誇りを失わず、密かに反撃の機会をうかがう。
そんな折、隣国の公爵アレクサンダーが彼女の前に現れる。「君の目はまだ死んでいないな」――その言葉に、彼女の中で何かが目覚める。彼はレイチェルに自由と新たな未来を提示し、密かに王宮からの脱出を計画する。
レイチェルが去ったことで、王宮は急速に崩壊していく。聖女ミレイユの策略が暴かれ、アルフォンスは自らの過ちに気づくも、時すでに遅し。彼が頼るべき王妃は、もはや遠く、隣国で新たな人生を歩んでいた。
「お願いだ……戻ってきてくれ……」
王国を失い、誇りを失い、全てを失った王子の懇願に、レイチェルはただ冷たく微笑む。
「もう遅いわ」
愛のない結婚を捨て、誇り高き未来へと進む王妃のざまぁ劇。
裏切りと策略が渦巻く宮廷で、彼女は己の運命を切り開く。
これは、偽りの婚姻から真の誓いへと至る、誇り高き王妃の物語。
裏切られた令嬢は、30歳も年上の伯爵さまに嫁ぎましたが、白い結婚ですわ。
夏生 羽都
恋愛
王太子の婚約者で公爵令嬢でもあったローゼリアは敵対派閥の策略によって生家が没落してしまい、婚約も破棄されてしまう。家は子爵にまで落とされてしまうが、それは名ばかりの爵位で、実際には平民と変わらない生活を強いられていた。
辛い生活の中で母親のナタリーは体調を崩してしまい、ナタリーの実家がある隣国のエルランドへ行き、一家で亡命をしようと考えるのだが、安全に国を出るには貴族の身分を捨てなければいけない。しかし、ローゼリアを王太子の側妃にしたい国王が爵位を返す事を許さなかった。
側妃にはなりたくないが、自分がいては家族が国を出る事が出来ないと思ったローゼリアは、家族を出国させる為に30歳も年上である伯爵の元へ後妻として一人で嫁ぐ事を自分の意思で決めるのだった。
※作者独自の世界観によって創作された物語です。細かな設定やストーリー展開等が気になってしまうという方はブラウザバッグをお願い致します。
婚姻契約には愛情は含まれていません。 旦那様には愛人がいるのですから十分でしょう?
すもも
恋愛
伯爵令嬢エーファの最も嫌いなものは善人……そう思っていた。
人を救う事に生き甲斐を感じていた両親が、陥った罠によって借金まみれとなった我が家。
これでは領民が冬を越せない!!
善良で善人で、人に尽くすのが好きな両親は何の迷いもなくこう言った。
『エーファ、君の結婚が決まったんだよ!! 君が嫁ぐなら、お金をくれるそうだ!! 領民のために尽くすのは領主として当然の事。 多くの命が救えるなんて最高の幸福だろう。 それに公爵家に嫁げばお前も幸福になるに違いない。 これは全員が幸福になれる機会なんだ、当然嫁いでくれるよな?』
と……。
そして、夫となる男の屋敷にいたのは……三人の愛人だった。
夫に捨てられた私は冷酷公爵と再婚しました
香木陽灯
恋愛
伯爵夫人のマリアーヌは「夜を共に過ごす気にならない」と突然夫に告げられ、わずか五ヶ月で離縁することとなる。
これまで女癖の悪い夫に何度も不倫されても、役立たずと貶されても、文句ひとつ言わず彼を支えてきた。だがその苦労は報われることはなかった。
実家に帰っても父から不当な扱いを受けるマリアーヌ。気分転換に繰り出した街で倒れていた貴族の男性と出会い、彼を助ける。
「離縁したばかり? それは相手の見る目がなかっただけだ。良かったじゃないか。君はもう自由だ」
「自由……」
もう自由なのだとマリアーヌが気づいた矢先、両親と元夫の策略によって再婚を強いられる。相手は婚約者が逃げ出すことで有名な冷酷公爵だった。
ところが冷酷公爵と会ってみると、以前助けた男性だったのだ。
再婚を受け入れたマリアーヌは、公爵と少しずつ仲良くなっていく。
ところが公爵は王命を受け内密に仕事をしているようで……。
一方の元夫は、財政難に陥っていた。
「頼む、助けてくれ! お前は俺に恩があるだろう?」
元夫の悲痛な叫びに、マリアーヌはにっこりと微笑んだ。
「なぜかしら? 貴方を助ける気になりませんの」
※ふんわり設定です
一年後に離婚すると言われてから三年が経ちましたが、まだその気配はありません。
木山楽斗
恋愛
「君とは一年後に離婚するつもりだ」
結婚して早々、私は夫であるマグナスからそんなことを告げられた。
彼曰く、これは親に言われて仕方なくした結婚であり、義理を果たした後は自由な独り身に戻りたいらしい。
身勝手な要求ではあったが、その気持ちが理解できない訳ではなかった。私もまた、親に言われて結婚したからだ。
こうして私は、一年間の期限付きで夫婦生活を送ることになった。
マグナスは紳士的な人物であり、最初に言ってきた要求以外は良き夫であった。故に私は、それなりに楽しい生活を送ることができた。
「もう少し様子を見たいと思っている。流石に一年では両親も納得しそうにない」
一年が経った後、マグナスはそんなことを言ってきた。
それに関しては、私も納得した。彼の言う通り、流石に離婚までが早すぎると思ったからだ。
それから一年後も、マグナスは離婚の話をしなかった。まだ様子を見たいということなのだろう。
夫がいつ離婚を切り出してくるのか、そんなことを思いながら私は日々を過ごしている。今の所、その気配はまったくないのだが。
「二年だけの公爵夫人~奪い合う愛と偽りの契約~」二年間の花嫁 パラレルワールド
柴田はつみ
恋愛
二年だけの契約結婚――
その相手は、幼い頃から密かに想い続けた公爵アラン。
だが、彼には将来を誓い合った相手がいる。
私はただの“かりそめの妻”にすぎず、期限が来れば静かに去る運命。
それでもいい。ただ、少しの間だけでも彼のそばにいたい――そう思っていた。
けれど、現実は甘くなかった。
社交界では意地悪な貴婦人たちが舞踏会やお茶会で私を嘲笑い、
アランを狙う身分の低い令嬢が巧妙な罠を仕掛けてくる。
さらに――アランが密かに想っていると噂される未亡人。
彼女はアランの親友の妻でありながら、彼を誘惑することをやめない。
優雅な微笑みの裏で仕掛けられる、巧みな誘惑作戦。
そしてもう一人。
血のつながらない義兄が、私を愛していると告げてきた。
その視線は、兄としてではなく、一人の男としての熱を帯びて――。
知らぬ間に始まった、アランと義兄による“奪い合い”。
だが誰も知らない。アランは、かつて街で私が貧しい子にパンを差し出す姿を見て、一目惚れしていたことを。
この結婚も、その出会いから始まった彼の策略だったことを。
愛と誤解、嫉妬と執着が交錯する二年間。
契約の終わりに待つのは別れか、それとも――。
【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる