【完結】一度きりの離縁をください ― 契約夫婦、期限切れ前夜

東野あさひ

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第30話「離縁の朝――“ふたりの署名”」

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 王都に朝霧が降りていた。
 遠くの鐘が八度鳴る。庁舎の中庭では、還願の花が静かに光を放ち、灰を抱くように咲いている。
 その中心に、長い机と二枚の羊皮紙が用意されていた。
 一枚は〈離縁の誓約書〉。もう一枚は〈“どう”の記録〉。

 私は筆を持つ手を見つめる。震えはなかった。
 この手で“始まり”を書き、“怖い”をしまい、“恋”を灯に変えてきた。
 だから今度も、終わりを描ける気がした。

 レオンが静かに隣に座った。
 「……長いようで、短かったな」
 「ええ。でも、“短い”って思えるのは、きっと幸せだからですよ」
 「幸せ?」
 「はい。悲しいままだったら、“長い”って感じるものですから」

 彼が小さく笑う。
 「君らしいな。……俺は、君といた時間が長かった」
 「同じですよ。心の中では、まだ終わっていません」

 役人が進み出る。
 「離縁の儀を始めます。
  ――まず、ふたりの名を確認の上、それぞれ署名を」

 私たちは互いに視線を合わせ、同時に筆を取った。
 名前を書くという行為が、こんなにも静かなのは初めてだった。
 墨が紙に染みる音が、まるで呼吸のように響く。

 書き終えると、レオンがもう一枚の羊皮紙を指した。
 「こっちは、“どう”の記録だ」
 そこには、私たちが積み重ねた言葉が並んでいた。

 ――“怖いをしまう”
 ――“怖いを灯にする”
 ――“灯を渡す”
 ――“燃えたあとを包む”
 ――“願う花”
 ――“また明日”

 彼が筆を置き、静かに言った。
 「この紙があれば、俺たちは名を捨てても残る。“どう”で生きた証になる」
 「ええ。……呼ばれなくても、息をしていられる」

 私たちは同時に署名した。
 名前ではなく、“どう”で。
 レオンは〈還す〉、私は〈願う〉。
 墨が触れ合うように重なり、花弁の形を作った。

 役人がゆっくりとそれを掲げた。
 「――離縁、成立」

 静かな風が吹く。
 花びらがひとひら、机の上に落ちた。
 私はそれを指で掬い、掌に乗せた。
 まだ温かい。

 レオンが小さく息を吐いた。
 「……君に会う前の俺は、火を恐れていた」
 「私も同じです。怖いを抱えたまま、生きていました」
 「でも君は、それを灯にした」
 「あなたが、灰を受け止めてくれたからです」

 言葉が止まる。
 沈黙が訪れ、そして、ふたり同時に微笑んだ。

 「これで、名はもう要らないですね」
 「そうだな。……でも、もしどこかで“また明日”を言いたくなったら、どうする?」
 私は少し考えて答えた。
 「“風が吹いた”って言います」
 「いいな。それなら、俺も気づける」

 風がちょうどその瞬間に吹いた。
 旗が庁舎の上で揺れ、光が花に反射する。
 “どう”で生きる者たちの街が、今日も呼吸をしていた。

 私は記録帳を取り出し、離縁の欄の隣に静かに書いた。
 〈名を返す〉
 〈どうを残す〉
 〈風が吹いた〉

 レオンは最後の一行を足した。
 〈今日の好き〉――〈君が“終わり”を“呼吸”にしたこと〉。
 私は〈あなたが“離縁”を“還る”に変えたこと〉と返す。

 指輪が光る。
 光はもう小さい。けれど、確かに“まだ息をしている”。

 役人が去り、広場に残るのは花と風だけになった。
 私たちは向かい合い、深く一礼する。
 「――ありがとうございました」
 「こちらこそ。……風が吹いたら、思い出す」

 離縁まで、二日。
 けれど、もう“別れ”という言葉は似合わなかった。
 ただひとつの灯が、形を変えて残っていた。

 私は最後のページをめくり、恋の定義の末尾に一行を足した。

〈恋は、終わりを呼吸に変えること〉。

 風が再び吹いた。
 灰が舞い、還願の花がその風を追うように揺れた。
 空は、やさしい色をしていた。
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