【完結】一度きりの離縁をください ― 契約夫婦、期限切れ前夜

東野あさひ

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第32話「帰郷――“どうで呼ぶ家”」

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 朝、王都を包んでいた霧がゆっくりと晴れていく。
 白い花の海を抜け、私は一人で門を出た。
 街を出る瞬間、振り返ると、庁舎の塔の上に掲げられた旗が風を受けて揺れた。
 あの旗の揺れ方は、どこか砦のものに似ていた。

 背中の荷には、灯の箱と記録帳。
 そして胸の内には、昨日書いた言葉が残っている。
 ――〈恋は、名を呼ばずに息を交わすこと〉。

 馬車の中、私は膝の上に箱を置いた。
 箱の灯は夜のように静かだが、時おり鼓動のように光る。
 風が窓を叩くたび、まるで“また明日”と言っているようだった。

 王都から砦までは三日の道のり。
 途中の村でも、白い花が咲いていた。
 道端、井戸のそば、子どもたちの掌の中――。
 どの花も名を持たず、それでも人々に“どう”で呼ばれていた。

 「願う花、咲いたね」
 「ううん、“還す花”だよ」
 「どっちもいいよ。明日も咲くんだし」

 そんな声が、あちこちから聞こえる。
 ああ、と思う。
 “どうで呼ぶ”が、もう私たちの外へ広がっている。
 名よりも、温度で繋がる世界が、ここにある。

 砦の手前、丘を越えたときだった。
 見慣れた屋根が、朝の光の中に浮かび上がる。
 炉の煙、赤い帯、そして――旗。
 それは相変わらず半歩右に傾き、風の向きを確かめるように揺れていた。

 門の前には、マルタとミーナが立っていた。
 マルタが両手を広げ、まるで子どもを迎えるように笑う。
 「おかえりなさい、エルフィアさま」
 その言葉に、胸の奥が一瞬だけ熱くなる。
 “さま”はいらない、と言おうとしたけれど、やめた。
 この砦では、呼び方さえも“どう”で選べばいい。

 ミーナが灯の箱を見て目を見開く。
 「……まだ光ってる」
 「ええ。呼吸をしているの」
 「まるで、レオン様みたい」
 私は微笑んだ。「きっと、風の中にいますよ」

 砦の中には、私がいなかった日々の“今日”が積み重なっていた。
 ハーゼは窓口の文を並べ、ユルクは赤帯を新しい布に織り直している。
 ヘーデの炉は変わらず火を灯し、ローレンは粉をこぼして怒られていた。
 その全部が、懐かしくて、少し眩しかった。

 夕方。
 庭の隅で、ミーナが地面を掘っていた。
 「この土、王都の灰が混じってるんです」
 私はしゃがみこみ、掌で掬った。
 確かに、灰の中に細かな白が光っている。
 「王都の風が、ここまで届いたのね」
 「はい。それで……咲きました」

 ミーナが指さした先に、小さな白の花があった。
 “還願の花”だ。
 砦にも、もう息をしている。

 私は箱の灯を取り出し、花のそばに置いた。
 光と花の色が重なり、柔らかな影を作る。
 その影の中に、確かに彼の姿がある気がした。
 ――灰の手、火の温度、そして半歩うしろの距離。

 マルタがそっと私の肩に手を置いた。
 「おかえり。……あなたの“どう”は、ここに根を張ってます」
 私は頷く。「もう、大丈夫ですね」
 「大丈夫。でも、あなたは?」
 「私も。……“また明日”がありますから」

 その夜、砦の窓から空を見上げた。
 王都と同じ白い光が、遠くに連なって見える。
 きっと道沿いに咲く花が、ふたりを繋いでいるのだ。

 私は机に座り、記録帳を開いた。
 〈砦へ帰還〉
 〈還願の花、ここにも咲く〉
 〈恋の灯、呼吸を続ける〉

 ペンを止め、胸の奥でひとつ息をつく。
 風が通り抜け、旗が外で小さく鳴った。
 ――また明日。

 私は恋の定義の末尾に一行を足した。

〈恋は、帰る場所を“どう”で呼べること〉。

 そしてペンを置く。
 明日を迎えるための夜が、静かに訪れた。
 離縁まで、あと一日。
 けれどもう、“終わり”という響きはどこにもなかった。
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