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第9話 心の空白と幸福の片鱗
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その日、私は少し特別な朝食を用意した。
パンは昨日の“ミルクと蜂蜜パン”をベースに、リンゴのソテーを薄く挟み込んだもの。甘すぎず、しかし確かな香りが残る。
それに、丁寧に煮込んだカボチャのスープを添えて。
器は、ラティが作ってくれた魔術加工の陶器。温度が冷めにくいようになっている。
「今日は来るでしょうか、彼……」
私は、誰にともなく呟いてから微笑んだ。
幸福値が「1」から「2」に動いた。それは確かに小さなこと。
けれど、“ゼロ”からの回復という意味では、とてつもなく大きな変化だった。
だからこそ、私は今日も待っていた。
彼の心が、ほんの少しでも前を向けるように。
カラン。
扉が開いた。
「……やっぱり、来ましたね」
現れたのは、昨日と同じ黒衣の男——オルステン・グレイヴ。
無言で入ってきた彼は、まっすぐにカウンター席に座った。
「今日のスープは、カボチャです」
「……昨日より、香りが強いな」
「少しだけ工夫しましたから。甘さに酸味を加えて、味に“層”を作ったんです」
彼はパンをひとかじりし、ゆっくりとスープを啜る。
「……」
私は、彼の幸福値をそっと確認した。
2 → 3
たった“1”の変化。
けれど、それでも確かに数字は動いていた。
「——どうして、そんなに俺に構う?」
彼はパンの欠片を指で摘みながら、ぽつりと問うた。
「幸福値を見ているだけなら、もっと“上げやすい人間”がいくらでもいるだろう」
「確かに。ラティくんの方が反応は早いです。マリアさんの方が笑顔も多い」
「なら、なぜ俺を」
私は少し考えてから、真っ直ぐ彼の目を見た。
「“あなたの幸福”が、世界を動かす鍵になると、知っているからです」
「……遺跡のことか」
彼はスープの残りを見つめながら、続けた。
「第一階層に、俺の名があったんだろう」
「はい。幸福値ゼロとして、記録されていました」
「……笑えるな。あそこまで人のために働いたのに、記録されたのは“ゼロ”か」
「あなたは、“誰かのために生きて”自分の幸福を削っていたのだと思います」
「そうかもしれん」
「けれど、それは“無価値”だったということではありません」
私は、手帳を取り出し、そこに書かれた数字を見せた。
「このカフェを始めてから、あなたの幸福値は、ゼロから“3”まで上がった。
つまりこれは、あなたが“まだ幸福を感じる可能性を持っている”という証です」
彼は言葉を返さなかった。
けれど、カップを持つ指先が、ほんの少し震えていた。
「……俺は、壊れてるんだ」
ぽつりと、彼が言った。
「王都で部下を失い、護衛すべき聖女が追放され、それでも誰にも怒れず、泣けず……気づいたら、何も感じなくなってた」
「それでも、パンは温かいと言いました」
「……ああ。そうだったな」
彼の瞳がわずかに潤んだ気がした。
「……それは、“まだ感じる力”があるということです」
「感じたくなかったんだよ。傷つくから」
「傷つくからこそ、癒す価値があるんです」
私は立ち上がり、厨房から“もう一つの皿”を持ってきた。
それは、少し焦げた焼き菓子。ラティが作った初めての試作品だった。
「味はまだ未完成です。でも、心がこもっています」
オルステンは眉をひそめながらも、それをひとくち、口に含んだ。
……そして。
幸福値:3 → 5
「……子どもの味だな」
「ええ。でも、やさしい味でしょう?」
「……ああ」
彼は、ゆっくりとカップを置いた。
「次は、もう少しうまく焼けてるといいな」
「ラティに伝えておきます」
そのとき、私の胸元に違和感が走った。
遺跡の水晶と同じ、“幸福総量の動き”を感じる微かな振動。
誰か一人ではなく、“特定の人物”の値が変化するたびに、遺跡が反応している。
(まさか……“特定の人間の幸福値”が、新たなしきい値に……?)
私は背筋を正した。
オルステンという存在は、単なる“数値の底辺”ではない。
この遺跡そのものにとっても、“記録の特異点”になっている可能性がある。
「オルステンさん」
「なんだ」
「今度、一緒に、遺跡に来ていただけませんか」
彼は驚いたように眉をひそめた。
「……あの場所に?」
「ええ。あなたの記録が残っていた場所。きっと、あなたが行くべき場所です」
「……考えておく」
幸福値:5 → 5(動かず)
でも、それでいい。
今は、それで十分だった。
私は手帳を閉じ、小さく笑った。
(あなたの中にある“空白”は、きっと埋められる。数字だけじゃなく、心で)
外では、子どもたちが紙灯籠の色塗りをしていた。
村は今日も、幸福に少しだけ近づいている。
そして私は——ゼロからはじまる幸福を、またひとつ見届けたのだった。
パンは昨日の“ミルクと蜂蜜パン”をベースに、リンゴのソテーを薄く挟み込んだもの。甘すぎず、しかし確かな香りが残る。
それに、丁寧に煮込んだカボチャのスープを添えて。
器は、ラティが作ってくれた魔術加工の陶器。温度が冷めにくいようになっている。
「今日は来るでしょうか、彼……」
私は、誰にともなく呟いてから微笑んだ。
幸福値が「1」から「2」に動いた。それは確かに小さなこと。
けれど、“ゼロ”からの回復という意味では、とてつもなく大きな変化だった。
だからこそ、私は今日も待っていた。
彼の心が、ほんの少しでも前を向けるように。
カラン。
扉が開いた。
「……やっぱり、来ましたね」
現れたのは、昨日と同じ黒衣の男——オルステン・グレイヴ。
無言で入ってきた彼は、まっすぐにカウンター席に座った。
「今日のスープは、カボチャです」
「……昨日より、香りが強いな」
「少しだけ工夫しましたから。甘さに酸味を加えて、味に“層”を作ったんです」
彼はパンをひとかじりし、ゆっくりとスープを啜る。
「……」
私は、彼の幸福値をそっと確認した。
2 → 3
たった“1”の変化。
けれど、それでも確かに数字は動いていた。
「——どうして、そんなに俺に構う?」
彼はパンの欠片を指で摘みながら、ぽつりと問うた。
「幸福値を見ているだけなら、もっと“上げやすい人間”がいくらでもいるだろう」
「確かに。ラティくんの方が反応は早いです。マリアさんの方が笑顔も多い」
「なら、なぜ俺を」
私は少し考えてから、真っ直ぐ彼の目を見た。
「“あなたの幸福”が、世界を動かす鍵になると、知っているからです」
「……遺跡のことか」
彼はスープの残りを見つめながら、続けた。
「第一階層に、俺の名があったんだろう」
「はい。幸福値ゼロとして、記録されていました」
「……笑えるな。あそこまで人のために働いたのに、記録されたのは“ゼロ”か」
「あなたは、“誰かのために生きて”自分の幸福を削っていたのだと思います」
「そうかもしれん」
「けれど、それは“無価値”だったということではありません」
私は、手帳を取り出し、そこに書かれた数字を見せた。
「このカフェを始めてから、あなたの幸福値は、ゼロから“3”まで上がった。
つまりこれは、あなたが“まだ幸福を感じる可能性を持っている”という証です」
彼は言葉を返さなかった。
けれど、カップを持つ指先が、ほんの少し震えていた。
「……俺は、壊れてるんだ」
ぽつりと、彼が言った。
「王都で部下を失い、護衛すべき聖女が追放され、それでも誰にも怒れず、泣けず……気づいたら、何も感じなくなってた」
「それでも、パンは温かいと言いました」
「……ああ。そうだったな」
彼の瞳がわずかに潤んだ気がした。
「……それは、“まだ感じる力”があるということです」
「感じたくなかったんだよ。傷つくから」
「傷つくからこそ、癒す価値があるんです」
私は立ち上がり、厨房から“もう一つの皿”を持ってきた。
それは、少し焦げた焼き菓子。ラティが作った初めての試作品だった。
「味はまだ未完成です。でも、心がこもっています」
オルステンは眉をひそめながらも、それをひとくち、口に含んだ。
……そして。
幸福値:3 → 5
「……子どもの味だな」
「ええ。でも、やさしい味でしょう?」
「……ああ」
彼は、ゆっくりとカップを置いた。
「次は、もう少しうまく焼けてるといいな」
「ラティに伝えておきます」
そのとき、私の胸元に違和感が走った。
遺跡の水晶と同じ、“幸福総量の動き”を感じる微かな振動。
誰か一人ではなく、“特定の人物”の値が変化するたびに、遺跡が反応している。
(まさか……“特定の人間の幸福値”が、新たなしきい値に……?)
私は背筋を正した。
オルステンという存在は、単なる“数値の底辺”ではない。
この遺跡そのものにとっても、“記録の特異点”になっている可能性がある。
「オルステンさん」
「なんだ」
「今度、一緒に、遺跡に来ていただけませんか」
彼は驚いたように眉をひそめた。
「……あの場所に?」
「ええ。あなたの記録が残っていた場所。きっと、あなたが行くべき場所です」
「……考えておく」
幸福値:5 → 5(動かず)
でも、それでいい。
今は、それで十分だった。
私は手帳を閉じ、小さく笑った。
(あなたの中にある“空白”は、きっと埋められる。数字だけじゃなく、心で)
外では、子どもたちが紙灯籠の色塗りをしていた。
村は今日も、幸福に少しだけ近づいている。
そして私は——ゼロからはじまる幸福を、またひとつ見届けたのだった。
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