夏、去りぬ

長谷部慶三

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第一章 理と忠義

布石の刻

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 徳川家康はゆっくりと書状を読み終えると、床にそっと伏せた。紙の感触が畳に触れる音が、静かな書院に微かに響く。西日が差し込み、襖の影がゆらりと揺れる。書状の文字の端々に、福島正則の懸念がにじんでいることが家康の目に伝わった。

 腹心の榊原康政が一歩進み、声を落として問う。

「福島殿は、何と申されておりますか」

 家康は眉間にわずかな皺を寄せ、ゆっくりと視線を窓の外に向ける。庭の木々の影が揺れ、春風が障子を通して紙に触れる。

「要するに、守備を崩すことを恐れておる……ということだ」

 短く言葉を置き、家康は掌で書状を軽く押さえる。紙の端がわずかに反り返る。指先に、福島家の不安と慎重さが伝わるかのようだ。

 榊原はその言葉に頷き、さらに慎重に続ける。

「同様の話、毛利元就殿からも届いております。毛利殿も、急な動員が領国の秩序を乱す、と申しておりました」

 家康は書状に視線を戻し、紙面に触れる指先をゆっくりと動かす。額に微かな汗が浮かび、沈黙が書院を支配する。しばらくの間、風の揺れる音だけが聞こえた。

 やがて、家康は静かに息を吐く。重みのある、深いため息だった。

「さりとて……儂に嘆願したとて、状況が変わるものではない事は、承知しておるだろうに」

 声は低く、しかし澄み切った響きを持つ。言葉の端々に、状況を受け入れつつも諸大名の心情を思いやる静かな苛立ちが滲む。家康はゆっくりと椅子にもたれ、腕を組みながら天井の梁を仰ぎ見る。西日の光が額を淡く照らし、しばし書院には重厚な静寂が漂った。

 榊原はその様子をじっと見つめ、心中で思う。殿の苛立ちと冷静さ、両方を兼ね備えたその態度こそ、時代を動かす力であると。だが同時に、各地の大名が抱える不満の大きさもまた、目に見えるように感じられた。

 榊原は少し身を乗り出し、静かに言った。
「それでも相談せねば始まらぬ、と言う事でございましょう」

 家康は視線を障子の向こうに落とし、庭の樹影をぼんやりと眺めた。日差しが紙面に映える書状を手に取り、指先でそっと触れる。重みのある沈黙が、書院を支配する。

「うむ……」家康は小さく唇を噛み、しばし考え込む。
「石田三成は太閤殿下の厳命に従っておるだけのはずだ。己の知略を尽くし、無理な沙汰も最小の混乱で形にせんとする……忠実な男よ」

 榊原は軽く頷きながら、眉をひそめる。
「忠義ゆえに、各大名の不満は尚更届きます。殿のお力でどうにか……と期待する者もいるかもしれませぬ」

 家康は座を少し正し、掌で書状を押さえたまま静かに息を吐く。西日が襖を通して室内に差し込み、彼の影を畳に長く伸ばす。

「されど……儂が手を出すと、事は余計にややこしくなる。三成殿に任せつつ、諸大名が互いに気を使うように仕向けるしかあるまい」

 榊原は目を細め、微かに微笑むように応じた。
「では、殿は三成殿を守りつつ、諸大名の不満を調整せよ、と」

 家康は頷き、静かに書状に視線を戻す。
「うむ。兵の割り振り、物資の調達、金銭の手配……すべて、三成殿が行うべきことだ。それを、各大名が承知せぬでは、天下の秩序が乱れる。儂はその背後を押さえ、必要に応じて諸大名を宥めねばならぬ」

 しばしの沈黙。榊原は家康の様子を見つめ、室内の重厚な空気を噛み締める。
 家康は指先で書状の端を撫で、淡い西日の光に紙面の文字を浮かび上がらせた。

「よい……まずは福島殿と毛利殿には、儂からも一言伝えておくとするか。文面ではなく、口添えにてな」

 榊原は静かに深く頭を下げた。
「承知いたしました、殿」

 微かな風が障子を揺らし、書院に緩やかな空気の動きが生まれた。春の日差しは変わらぬものの、ここに座する者たちの思惑は、静かに、しかし確実に交錯していた。

            *

 日も高くなり、書院の空気は静かに張り詰めていた。石田三成は座敷の硯に向かい、各地から届く書状や調達帳を広げる。兵三千、鉄砲五百挺、火薬・鉛玉――増徴せよとの命は、数字としては明瞭だ。しかし、実際に各地から集められる兵や武器の数、金子の手当、輸送の段取りを思うと、空白だらけの帳面のように頭の中が広がった。

「まずは、京・大坂・堺の商人筋への働きかけだな」

 三成は書付を取り、商人ごとの手持ち在庫と過去の取引履歴を照らし合わせる。火薬や弾薬の量、納期、金子の支払い条件、さらには輸送路の安全。どれも一つでも狂えば、戦場への供給は止まる。手書きの帳面に朱筆で注を入れ、調達順序を示す。

「寺社・豪商への借財も、段階を踏まねばなりませぬ。急ぎすぎれば金利も跳ね上がり、国元の負担も増すばかりでございます」

 家臣がそっと忠告する。三成は頷き、帳面に詳細な算段を書き込む。借財の額、返済時期、利率、確実に調達できる数量――すべてを算出し、無理のない流れを描き出す。

 次に目を向けたのは、各大名から差し出される兵の受け入れだ。書状には守備を崩さぬ範囲での派兵、とある。しかし、どの大名も「最低限の兵は残さねば」と考えている。ここで兵力の重複や欠員が生じれば、現地で混乱するのは必至だ。

「近江・丹波は各々の城防に留める兵力を計算せねば。余剰兵のみ抽出せよ」

 三成は再び筆を走らせ、兵の配分表を作る。各城ごとの守備兵数、農兵として徴発できる兵力、宿営地への輸送手段――一つ一つを帳面に落とす。軍役を命じるのは容易いが、国元の秩序を乱さぬよう細心の注意が必要だ。

 さらに、鉄砲や弾薬の兵站も整理する。輸送経路は京都から港、船便、陸路を経て戦地へ。道中の盗賊、天候、河川の増水、港の混雑――あらゆる要素を想定し、輸送スケジュールを作り込む。家臣たちは見守り、時折質問を投げかけるが、三成は即座に答え、計算に組み込み修正する。

「順序立てて動かねば、十日のうちに全てを戦地へ送ることは叶わぬ」

 やがて三成は筆を置き、静かに座敷の外を見る。桜の花びらが風に舞い、春の光が障子を淡く染める。その穏やかさとは裏腹に、心中には膨大な算段と、兵や民の命への責任が渦巻いていた。

「己が采配次第で、兵の命も、国の秩序も左右される……」

 沈黙の座敷で、家臣たちは互いに目配せを交わす。三成は再び筆を取り、次の書付に手を伸ばした。書面に記されるのは、兵の配置、物資の調達、輸送の順序、返済の算段――すべてを現実に即して描くための、冷徹かつ緻密な計算であった。

 午後の光がゆっくりと傾き、書院の影は長く伸びる。三成の手は止まらない。最小の混乱で、最大の効果を――その覚悟だけが、静かな座敷に満ちていた。

           *

 三成は硯の横に置いた帳面を前に、各大名の兵力と所持武器を精査する。
「近江は浅井家から百二十、余剰の農兵を加える。丹波は細川家、城防優先で七十。摂津の尼子家は八十、播磨の小寺家は百……」

 筆の走る音と墨の香の中、三成は頭の中で国元の状況を算出する。兵を過剰に割けば城防は手薄になり、少なすぎれば戦地での戦力不足。各大名の財政負担や民心の動揺も、計算に入れねばならぬ。

「鉄砲は京の商人筋から百挺、堺から二百挺、火薬は同量を段階的に搬入。弾薬は最小限をまず戦地に送る。残りは来週、段階的に」

 三成は細かく数字を書き込み、朱筆で注を加える。「兵力のうち城防に残す者」「徴発する農兵の範囲」「鉄砲と火薬の優先搬入順序」――すべてを帳面に落とし込み、可能な限り国元と戦地の落とし所を取る。

「浅井・細川の守備は最優先。余剰兵のみ動員せよ。山城・近江は城代の了解を得つつ抽出。備前・美作は鉄砲の在庫を確認後、必要分のみ差し出せ」

 帳面を見下ろす三成の表情は、静かに険しい。文字列の羅列の向こうに、兵の命、民の暮らし、国の秩序が重くのしかかる。
「金子の手当も同時に算段せねばならぬ。寺社・豪商への借財は段階的に。急ぎすぎれば返済が国元を圧迫する」

 一つの割り振り案が完成すると、三成は家臣たちに向かって指示を出す。
「これを各奉行に配布し、各地の城代と連絡を取り、余剰兵・武器を確認せよ。搬入の日程は京・大坂・堺を経て、戦地へ。混乱なく、順序を追って」

 座敷には、春の光と墨の香が混じった静けさが広がる。紙の上の数字は、戦場への命の計算であり、国元の秩序を守る三成の覚悟でもあった。

            *
 
 三成は帳面から筆を離した。すでに几帳面な文字で紙面は埋まり、余白には朱で指示が走る。
 彼は側に控える奉行たちへ命じた。

「この割り付けを諸城へ伝えよ。各城代にて兵の余剰、武具の不足、逐一改めて報告せしめよ。遅滞は許さぬ」

 奉行らが「ははっ」と応じ、文書を抱えて散じていく。

 三成は立ち上がり、障子を開け放った。初夏の湿った風が頬を撫でる。
 遠くから槍の稽古の声が響いてきた。大坂に集められた兵たちだ。声は勇ましいが、どれほどが実戦に堪え得るか――。

「……人は集められよう。されど、兵に仕立てるは容易ならぬ」

 呟きながら、彼は次の策を思索する。
 武具の整備、兵糧の手当、そして士気を繋ぐ方途。
 数の上で整えたとしても、心が離れれば戦は崩れる。

 机に戻ると、今度は筆を取り替え、兵糧蔵の管理に関する細目を書き出した。

「米は命脈に等しい。いかに道を繋ぎ、いかに無駄なく運ぶか――」

 墨の匂いが室内に満ちる。三成の筆は、休むことなく紙面を走り続けた。

            *

 三成の邸は、朝からひしめくような人の出入りで騒然としていた。
 廊下を駆ける草履音、墨の匂いに混じる汗と埃。書院の障子が開かれるたび、春の光とともに報告を抱えた役人が雪崩れ込む。

「治部少、播磨より急報、兵糧千石の搬出は可能とのこと」
「治部少、近江の蔵より米五百石、ただし馬の不足にて搬送は遅れる由」

 三成は座したまま次々に差し出される巻紙を受け取り、素早く目を走らせる。筆をとる手に一切の揺らぎはない。
 墨の先で数字を書き込み、赤い朱で要点を注す。
「播磨の千石、堺へ送れ。近江の五百石は京に留め、馬を調え次第、大坂へ廻せ」

 奉行のひとりが進み出る。
「治部少、鉄砲はいかが取り計らいますか」
「堺の商人に仰せつけよ。ただし支払いは銀子ではなく、米の見返りを約せ」
「承知」

 命を受けた奉行は深々と頭を下げると、巻紙を胸に抱き、踵を返した。

 三成はすぐに別の帳面を開く。
 白紙の上に筆が踊るように走り、やがて「兵数」「兵糧」「鉄砲」「火薬」「馬」と書き分けられる。
 その下に各地の城名を記し、割り振りを書き加える。

「兵は、城ごとに三分の一を残し、三分の二を出す。守りを欠けば元も子もない。だが兵を惜しめば戦が立たぬ。よいか、必ず三分の一は残せ」
「ははっ」
 控えていた書役が慌てて筆を走らせる。

 廊下の外から馬の嘶きが聞こえた。使者が既に庭に集められ、巻紙を携えて出立を待っている。
 三成は呼吸を整え、巻紙を順に手渡す。
「これは但馬へ。これを若狭へ。播磨は急ぎ、堺に至らせよ」
「承知」
 使者たちは畳に手を突き、立ち上がると庭先へ駆けた。馬がいななき、蹄が石畳を打つ。

 残された書院は再び静けさを取り戻した。だがその静けさは、次の報告を待つ一瞬の間にすぎぬ。

 三成は墨をすり直し、筆を取った。
「鉄砲百挺、堺より。火薬は大坂の蔵より、駄馬を繋いで三度に分けよ。ひとたびに運ぶは危うし」
「承知」
 奉行の声は緊張に震えていた。

 三成は筆を止め、控えていた者たちを見渡した。
「余計な口は要らぬ。言葉を費やすより、手と足を動かせ」
「ははっ」
 誰も反論しない。沈黙の中、紙を抱えた役人たちが次々と立ち上がり、廊下へ消えていった。

 やがて障子が閉じられ、書院に再び墨と紙の匂いが漂う。
 三成は机に向かい、残された帳面を開いた。そこにはびっしりと数字と指示が書き込まれている。
 筆先を紙に落としながら、彼はただ一つの思いを胸に秘める。

 ──命ぜられたことは果たさねばならぬ。
 それがいかに重き荷であろうとも。

 硯の水が濁り、筆は次々と使い果たされる。外では馬のいななきが遠ざかり、町のざわめきが春風に乗って流れ込んでくる。

 三成は片手で額を押さえた。だが休むことはない。
 新たな紙を広げ、再び筆を走らせる。

 障子の向こうに陽が傾き、春の光が赤みを帯びて書院を染めていく。
 その光の中で、治部少輔石田三成は、ただ黙々と采配を振るい続けた。

(続く)

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