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第一章 理と忠義
理と情の狭間
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夕刻の陽が差し込み、将軍屋敷の書院には柔らかい光が横たわっていた。福島正則は畳に膝を折り、控えめながらも凛とした背筋で家康に向き合う。声を押し殺しながらも、言葉には国を案ずる重みが宿っていた。
「殿、御身もご承知の通り、このままでは国の防ぎきれぬこと必至にござりまする。兵は整わず、城は薄く、民心も乱れ……」
――「殿」と呼ぶのは、家康の権威を認めつつ、しかし意見を届けねばならぬ立場ゆえである。感情の赴くままに呼べばただの叱責になってしまう。福島はそれを自覚し、慎重に言葉を選んだのだ。
家康は畳の上に膝を置いたまま、手元の扇子をゆっくり開け閉めする。その所作は一見穏やかだが、鋭い観察眼が福島の言葉の端々を拾っていた。
「御意見、拝聴いたす。御身が申し立てること、どこも尤も。されど、如何ともしがたい現状にござることも承知されよ」
福島は眉をひそめる。単に諫言しているだけでは済まない。自らの領国の将来を担う責任が、言葉の端に鋭く滲む。
「殿、御身は御意に従い忠節を尽くす者と存じます。しかし、国が立ち行かぬ以上、ただ従うのみでは民も兵も潰れる。如何に御意を示すべきか、三成殿の采配に盲従せねばならぬのか」
家康は一瞬、視線を上げ、福島の瞳を見据えた。静かな間のあと、柔らかな声で返す。
「忠節は御身の信念にてあらん。しかし、沙汰は既に太閤より下され、石田治部少もまたその命に従う。何故、そのことを異にせん」
福島は息を呑み、次の言葉を探す。だが、理詰めで応える家康の間合いに、言葉が幾度も遮られる。声を押し殺す中に、怒りの色が滲む。
「それでも、殿、我が領民の安全と民心の安定を思えば、ただ従うのみでは国は……」
家康は扇子をひと揺らし、静かに遮る。「なるほど、御身の憂慮は理解いたす。しかし、何を言うても沙汰を変えることはできぬ。されど、御身に考慮せしめることはあろう」
福島の口は次の言葉をつむごうとするが、思わず畳に視線を落とす。理詰めの応酬の中で、封じられる言い分。家康は静かに扇子を閉じ、柔和な表情を保ちつつも、老獪な微笑を浮かべる。
「いかに忠を尽くす者であれ、沙汰の前に理を尽くさぬ者はおらぬ。されど、御身には手を差し伸べる余地もあるゆえ、心配せずともよい」
福島はその言葉に、もはや反論する術を失った。怒りは鎮まり、しかし胸中には国の未来への懸念が静かに残る。家康の手のひらの上で、言い分はすべて収められた。
書院には、柔らかい夕陽と、扇子の閉じる音だけが残った。福島の肩の緊張はわずかに緩む。だが、その瞳には、これからも戦局を見守り、己の国を守る覚悟が浮かんでいた。
福島は息を整え、視線を伏せたまま、まだ言い残すことがあるかのように口元を動かす。しかし、言葉は紡がれず、座敷の空気に吸い込まれていった。老獪なる殿の目が、静かに、しかし確かに若き国主の立場を封じていたのだ。
やがて、会談は静かに閉じられる。福島は膝を折り、礼を尽くして退席する。背後で、控えの者たちが畏まった姿勢で見守る中、座敷の扉が閉まる音が低く響いた。
外の廊下に春の光が差し込む。窓越しに揺れる桜の枝が、まだ冷たさを残す風に揺れていた。その光景を背に、家康は独り静かに座す。次の行動を考えるには、今はまだ沈黙を守るべき時である。
廊下の遠くで、福島正則の退席した足音が消え、城内は再び静寂を取り戻す。控えの者たちは各々の位置に戻り、すでに次の指示を待つ空気が流れている。しかし、家康の胸中には、今は言葉を発する時ではないという判断があった。若き国主の苛立ちも、怒りも、封じられたままにしておくことで、事の成り行きが有利に運ぶと心得ているのだ。
外の庭では、桜の枝がそよ風に揺れ、花弁が一枚、静かに地面へ落ちる。家康はそれをぼんやりと眺めながら、先刻の福島の訴えを思い返す。言葉にできぬ苛立ちを抱えたままの国主。己の目には、その若さと誇り高さが余計に際立って映る。
*
城内の静けさが広がるころ、石田三成の居室では帳面が散らばり、朱筆の跡が光を反射していた。膨大な算段を終え、ようやく筆を置いた三成は、深く息を吐く。肩に残る緊張と、日暮れ近くの室内に差し込む橙色の光が、今日一日の重みを知らせている。
帳面の隅には、兵力の割り振り、鉄砲と火薬の搬入順、国元の守備体制など、全ての数字と注釈が赤と黒で記されていた。あらゆる指示は下ろし終えたはずだ。しかし、国を思う心は休むことを知らない。寺社の徴収の難航、農民の疲弊、各大名の反応——これらすべてが、胸の奥で渦巻いている。
ようやく深く腰を下ろした三成は、控えに置かれた墨壺を見つめる。その先には、すぐに大谷に送る密書が控えている。今日のすべてを、今ここで文字に託すしかない——そう思い、再び筆を取る。手が震えることはない。ただ、心の奥底で、国と主のために尽くす覚悟が、静かに燃え上がる。
*
三成が策定した緻密な計画は、書面の上では完璧だった。しかし、それを実行する各地の現場では、三成の予想を上回る問題が次々と噴出する。
三成の屋敷から送られた使者は、備前の宇喜多秀家の城に到着した。書状を読み終えた秀家は、険しい顔で家臣に命じる。
「兵三百の増徴……治部少殿も無理を仰せられる。城防に残すは二千、そこから三百を抜けば、いざという時の備えが手薄になるではないか」
家臣は「しかし、殿下の御意ゆえ」と口ごもる。秀家は吐き捨てるように言った。
「御意も何も、三成殿は戦の苦労を知らぬ。兵を集めるにも銭がかかる。いったい、誰がその銭を出すのだ」
同様の怒りは、肥前の加藤清正の陣営でも噴出した。書状を受け取った清正は、墨の香に満ちた書院で怒りをあらわにする。
「治部少め、我らが何をもって戦うと思っている! 兵は水、鉄砲は火、どちらもなければ戦はできぬ! それをわずか数日で整えよとは、愚かにもほどがある!」
清正の眼は、遠い故郷ではなく、京にいる三成を睨んでいた。
書面の上での完璧な数字と、戦場の兵の命、領国の民の暮らし。その間には、想像以上に深い溝が横たわっていた。
三成の元には、各地の城代や勘定奉行から、悲鳴にも似た報告が寄せられるようになる。
「兵糧船が……嵐に呑まれ、尽く沈み申しました」
「徴発の農兵ども、次から次へと逃げ散っております!」
「鉄砲の納めも期日に間に合わぬと、商人どもが強情を張っております!」
三成はそれらの報告に、朱筆で新たな指示を書き込んでいく。しかし、問題は次々に発生し、帳面は次第に朱で埋め尽くされていく。
書院には、焦燥と疲労が充満していた。三成は机を前に、深いため息をつく。
「このままでは、いくら算段を尽くしても、追いつかぬ……」
三成の頭の中では、冷静な計算と、現場の混乱が激しくぶつかり合っていた。
三成の書院は、夜の闇に沈みかけていた。机の上には、いまだ山と積まれた書付と、朱筆で赤く染まった帳面が広がる。寺社からの借財を断られたことで、兵糧・武器の調達は行き詰まっていた。
「いかにして、この窮地を乗り越えるか……」
三成は静かに呟き、硯の水面に映る己の顔を見つめた。その顔には疲労の色が濃く、しかし瞳の奥には、なお消えぬ決意の光が宿っていた。
家臣たちは、次なる指示を待って息をひそめている。彼らもまた、この無理な沙汰の行き詰まりを感じ取っていた。
三成はゆっくりと筆をとり、白紙の巻紙に、迷いなく書き記した。
「蔵より、銀子を出す。兵糧・武器の不足分、全て我が財にて賄う」
その言葉に、家臣たちは思わず顔を見合わせた。
「治部少様、それは……」
年嵩の奉行が口ごもる。三成の私財は、決して莫大なものではない。しかし、この窮地を乗り越えるには、それしかなかった。
「よい。殿下の御意を蔑ろにすれば、天下の秩序は乱れる。そのために、私財を惜しむ道理はござらぬ」
三成の言葉は、静かで、しかし揺るぎない覚悟に満ちていた。家臣たちは反論の言葉を持たず、ただ深く頭を垂れるしかなかった。
三成はさらに筆を走らせる。
「堺の商人筋に金子を送れ。鉄砲と火薬は、何としても調達せよ。近江の米は、馬を手配し次第、速やかに運べ。費用はすべて、我が蔵から出す」
帳面は、三成の私財が、いかにして兵糧と武器に姿を変え、戦地の兵の命を繋ぐのか、その道筋を緻密に示していた。
三成は、自らの財を投げ打つことで、無理な沙汰を現実のものにしようと試みたのだ。
*
三成が私財を投じ、兵糧と武器の調達を強行したという報せは、京から遠く離れた各大名の元にも届いていた。
肥前の加藤清正は、その書状を無言で畳に広げた。墨の濃淡で記された「私費を投じ、急ぎ調達を」という文言は、まるで三成の焦燥をそのまま写し取ったかのようだった。だが、清正の胸中に湧き上がったのは、安堵でも、共感でもない。得体の知れぬ苛立ちと、冷たい侮りであった。
「治部少殿は、我らが何をもって戦うとお思いか……」
清正は呟いた。武士の戦は、金銭だけで成り立つものではない。兵の士気、民の心、そして何よりも、戦場の現実に即した采配が不可欠である。
三成は、それらをすべて紙面の上の数字で片付けようとしている。私財を投じるという「忠義」の行為も、清正には、戦場を知らぬ者が、無理な理を無理やり通そうとする独善に見えた。
「金銭を投げ打てば、すべてが解決するとでも思われたか……」
清正の声音は静かだったが、その奥に潜む怒りは、燃え盛る火のようだった。武人として、兵の命と領民の暮らしを背負う者として、三成の采配はあまりに机上の空論に過ぎなかった。
三成が私財を投じ、逼迫する兵站を支えようとした――その報せは、武断派の胸に従来の「反感」とは異なる澱を落とした。彼らは三成の真面目さを否定はしない。否、かえってその誠実さが、己らの武人としての在り方と、深く噛み合わぬことを思い知らされるのであった。
肥前の加藤清正は、その書状を膝に置き、長く視線を伏せていた。三成の算盤は、確かに理を尽くしている。だが清正がこれまで歩んだ戦場は、数では割り切れぬものばかりだった。
飢えに喘ぐ兵を鼓舞し、疲弊しきった者を背に負い、幾度となく死線をくぐり抜けた。兵士は数字ではない。血を流し、家族を思い、死と隣り合う人の命だ。それを金子で置き換えようとする采配は、清正の武人としての矜持を深く抉った。
「兵は、米や銭では育たぬ……」
清正の呟きは、誰に聞かせるでもなく、ただ空気に溶けていった。そこには怒りよりも、侮られたという静かな痛みが滲んでいた。
同じ頃、備前の福島正則もまた、三成の指示書を繰り返し読み返していた。米一粒、銭一文に至るまで割り振られた緻密な計算。福島はその才覚に一瞬驚嘆したが、次の瞬間、胸の奥に抗いがたい不快が広がるのを覚えた。
「理は尽くされておる。だが……血が通うておらぬ」
戦は計算でのみ成るものではない。時に一人の武将の胆力が、時に兵の死を覚悟した突撃が、局面を覆す。その現実を度外視する三成の策は、戦場に生きてきた者の存在を無きものとするに等しかった。
さらに、三成が自らの財を割いてまでその命を貫こうとしていることだった。武士にとって、己が身命や財を捧げること自体は美徳とされる。
だが、私財をもって政の不足を補う振る舞いは、殿下の威を柱とする政道の筋を歪める。
政は、個の忠義や才覚で動かすものではない。あくまで「公」、すなわち太閤の権威と、その下に連なる秩序こそが支えである。そこから外れれば、いかに誠実さゆえの行為であろうと、やがて政権の根を揺るがす。
忠義の形に見えるそれは、裏を返せば秩序の逸脱である。豊臣の政権は「公」を柱に築かれたはずであった。だが、治部少輔の独断は、公を私でねじ曲げる危うさを孕んでいた。
武将たちにとって、公に従うことは己の誇りであり、武辺者としての一線でもあった。そこに私心を持ち込めば、国はたちまち乱れる。
――この静かな憤りは、もはや一時の反感ではなかった。
それは、武人の矜持を踏みにじられた痛みであり、政権そのものの行く末を憂う真摯な苦悩であった。三成が誠実に、正しくあろうとすればするほど、その真面目さこそが、武人たちの心を静かに遠ざけていくのであった。
(続く)
「殿、御身もご承知の通り、このままでは国の防ぎきれぬこと必至にござりまする。兵は整わず、城は薄く、民心も乱れ……」
――「殿」と呼ぶのは、家康の権威を認めつつ、しかし意見を届けねばならぬ立場ゆえである。感情の赴くままに呼べばただの叱責になってしまう。福島はそれを自覚し、慎重に言葉を選んだのだ。
家康は畳の上に膝を置いたまま、手元の扇子をゆっくり開け閉めする。その所作は一見穏やかだが、鋭い観察眼が福島の言葉の端々を拾っていた。
「御意見、拝聴いたす。御身が申し立てること、どこも尤も。されど、如何ともしがたい現状にござることも承知されよ」
福島は眉をひそめる。単に諫言しているだけでは済まない。自らの領国の将来を担う責任が、言葉の端に鋭く滲む。
「殿、御身は御意に従い忠節を尽くす者と存じます。しかし、国が立ち行かぬ以上、ただ従うのみでは民も兵も潰れる。如何に御意を示すべきか、三成殿の采配に盲従せねばならぬのか」
家康は一瞬、視線を上げ、福島の瞳を見据えた。静かな間のあと、柔らかな声で返す。
「忠節は御身の信念にてあらん。しかし、沙汰は既に太閤より下され、石田治部少もまたその命に従う。何故、そのことを異にせん」
福島は息を呑み、次の言葉を探す。だが、理詰めで応える家康の間合いに、言葉が幾度も遮られる。声を押し殺す中に、怒りの色が滲む。
「それでも、殿、我が領民の安全と民心の安定を思えば、ただ従うのみでは国は……」
家康は扇子をひと揺らし、静かに遮る。「なるほど、御身の憂慮は理解いたす。しかし、何を言うても沙汰を変えることはできぬ。されど、御身に考慮せしめることはあろう」
福島の口は次の言葉をつむごうとするが、思わず畳に視線を落とす。理詰めの応酬の中で、封じられる言い分。家康は静かに扇子を閉じ、柔和な表情を保ちつつも、老獪な微笑を浮かべる。
「いかに忠を尽くす者であれ、沙汰の前に理を尽くさぬ者はおらぬ。されど、御身には手を差し伸べる余地もあるゆえ、心配せずともよい」
福島はその言葉に、もはや反論する術を失った。怒りは鎮まり、しかし胸中には国の未来への懸念が静かに残る。家康の手のひらの上で、言い分はすべて収められた。
書院には、柔らかい夕陽と、扇子の閉じる音だけが残った。福島の肩の緊張はわずかに緩む。だが、その瞳には、これからも戦局を見守り、己の国を守る覚悟が浮かんでいた。
福島は息を整え、視線を伏せたまま、まだ言い残すことがあるかのように口元を動かす。しかし、言葉は紡がれず、座敷の空気に吸い込まれていった。老獪なる殿の目が、静かに、しかし確かに若き国主の立場を封じていたのだ。
やがて、会談は静かに閉じられる。福島は膝を折り、礼を尽くして退席する。背後で、控えの者たちが畏まった姿勢で見守る中、座敷の扉が閉まる音が低く響いた。
外の廊下に春の光が差し込む。窓越しに揺れる桜の枝が、まだ冷たさを残す風に揺れていた。その光景を背に、家康は独り静かに座す。次の行動を考えるには、今はまだ沈黙を守るべき時である。
廊下の遠くで、福島正則の退席した足音が消え、城内は再び静寂を取り戻す。控えの者たちは各々の位置に戻り、すでに次の指示を待つ空気が流れている。しかし、家康の胸中には、今は言葉を発する時ではないという判断があった。若き国主の苛立ちも、怒りも、封じられたままにしておくことで、事の成り行きが有利に運ぶと心得ているのだ。
外の庭では、桜の枝がそよ風に揺れ、花弁が一枚、静かに地面へ落ちる。家康はそれをぼんやりと眺めながら、先刻の福島の訴えを思い返す。言葉にできぬ苛立ちを抱えたままの国主。己の目には、その若さと誇り高さが余計に際立って映る。
*
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帳面の隅には、兵力の割り振り、鉄砲と火薬の搬入順、国元の守備体制など、全ての数字と注釈が赤と黒で記されていた。あらゆる指示は下ろし終えたはずだ。しかし、国を思う心は休むことを知らない。寺社の徴収の難航、農民の疲弊、各大名の反応——これらすべてが、胸の奥で渦巻いている。
ようやく深く腰を下ろした三成は、控えに置かれた墨壺を見つめる。その先には、すぐに大谷に送る密書が控えている。今日のすべてを、今ここで文字に託すしかない——そう思い、再び筆を取る。手が震えることはない。ただ、心の奥底で、国と主のために尽くす覚悟が、静かに燃え上がる。
*
三成が策定した緻密な計画は、書面の上では完璧だった。しかし、それを実行する各地の現場では、三成の予想を上回る問題が次々と噴出する。
三成の屋敷から送られた使者は、備前の宇喜多秀家の城に到着した。書状を読み終えた秀家は、険しい顔で家臣に命じる。
「兵三百の増徴……治部少殿も無理を仰せられる。城防に残すは二千、そこから三百を抜けば、いざという時の備えが手薄になるではないか」
家臣は「しかし、殿下の御意ゆえ」と口ごもる。秀家は吐き捨てるように言った。
「御意も何も、三成殿は戦の苦労を知らぬ。兵を集めるにも銭がかかる。いったい、誰がその銭を出すのだ」
同様の怒りは、肥前の加藤清正の陣営でも噴出した。書状を受け取った清正は、墨の香に満ちた書院で怒りをあらわにする。
「治部少め、我らが何をもって戦うと思っている! 兵は水、鉄砲は火、どちらもなければ戦はできぬ! それをわずか数日で整えよとは、愚かにもほどがある!」
清正の眼は、遠い故郷ではなく、京にいる三成を睨んでいた。
書面の上での完璧な数字と、戦場の兵の命、領国の民の暮らし。その間には、想像以上に深い溝が横たわっていた。
三成の元には、各地の城代や勘定奉行から、悲鳴にも似た報告が寄せられるようになる。
「兵糧船が……嵐に呑まれ、尽く沈み申しました」
「徴発の農兵ども、次から次へと逃げ散っております!」
「鉄砲の納めも期日に間に合わぬと、商人どもが強情を張っております!」
三成はそれらの報告に、朱筆で新たな指示を書き込んでいく。しかし、問題は次々に発生し、帳面は次第に朱で埋め尽くされていく。
書院には、焦燥と疲労が充満していた。三成は机を前に、深いため息をつく。
「このままでは、いくら算段を尽くしても、追いつかぬ……」
三成の頭の中では、冷静な計算と、現場の混乱が激しくぶつかり合っていた。
三成の書院は、夜の闇に沈みかけていた。机の上には、いまだ山と積まれた書付と、朱筆で赤く染まった帳面が広がる。寺社からの借財を断られたことで、兵糧・武器の調達は行き詰まっていた。
「いかにして、この窮地を乗り越えるか……」
三成は静かに呟き、硯の水面に映る己の顔を見つめた。その顔には疲労の色が濃く、しかし瞳の奥には、なお消えぬ決意の光が宿っていた。
家臣たちは、次なる指示を待って息をひそめている。彼らもまた、この無理な沙汰の行き詰まりを感じ取っていた。
三成はゆっくりと筆をとり、白紙の巻紙に、迷いなく書き記した。
「蔵より、銀子を出す。兵糧・武器の不足分、全て我が財にて賄う」
その言葉に、家臣たちは思わず顔を見合わせた。
「治部少様、それは……」
年嵩の奉行が口ごもる。三成の私財は、決して莫大なものではない。しかし、この窮地を乗り越えるには、それしかなかった。
「よい。殿下の御意を蔑ろにすれば、天下の秩序は乱れる。そのために、私財を惜しむ道理はござらぬ」
三成の言葉は、静かで、しかし揺るぎない覚悟に満ちていた。家臣たちは反論の言葉を持たず、ただ深く頭を垂れるしかなかった。
三成はさらに筆を走らせる。
「堺の商人筋に金子を送れ。鉄砲と火薬は、何としても調達せよ。近江の米は、馬を手配し次第、速やかに運べ。費用はすべて、我が蔵から出す」
帳面は、三成の私財が、いかにして兵糧と武器に姿を変え、戦地の兵の命を繋ぐのか、その道筋を緻密に示していた。
三成は、自らの財を投げ打つことで、無理な沙汰を現実のものにしようと試みたのだ。
*
三成が私財を投じ、兵糧と武器の調達を強行したという報せは、京から遠く離れた各大名の元にも届いていた。
肥前の加藤清正は、その書状を無言で畳に広げた。墨の濃淡で記された「私費を投じ、急ぎ調達を」という文言は、まるで三成の焦燥をそのまま写し取ったかのようだった。だが、清正の胸中に湧き上がったのは、安堵でも、共感でもない。得体の知れぬ苛立ちと、冷たい侮りであった。
「治部少殿は、我らが何をもって戦うとお思いか……」
清正は呟いた。武士の戦は、金銭だけで成り立つものではない。兵の士気、民の心、そして何よりも、戦場の現実に即した采配が不可欠である。
三成は、それらをすべて紙面の上の数字で片付けようとしている。私財を投じるという「忠義」の行為も、清正には、戦場を知らぬ者が、無理な理を無理やり通そうとする独善に見えた。
「金銭を投げ打てば、すべてが解決するとでも思われたか……」
清正の声音は静かだったが、その奥に潜む怒りは、燃え盛る火のようだった。武人として、兵の命と領民の暮らしを背負う者として、三成の采配はあまりに机上の空論に過ぎなかった。
三成が私財を投じ、逼迫する兵站を支えようとした――その報せは、武断派の胸に従来の「反感」とは異なる澱を落とした。彼らは三成の真面目さを否定はしない。否、かえってその誠実さが、己らの武人としての在り方と、深く噛み合わぬことを思い知らされるのであった。
肥前の加藤清正は、その書状を膝に置き、長く視線を伏せていた。三成の算盤は、確かに理を尽くしている。だが清正がこれまで歩んだ戦場は、数では割り切れぬものばかりだった。
飢えに喘ぐ兵を鼓舞し、疲弊しきった者を背に負い、幾度となく死線をくぐり抜けた。兵士は数字ではない。血を流し、家族を思い、死と隣り合う人の命だ。それを金子で置き換えようとする采配は、清正の武人としての矜持を深く抉った。
「兵は、米や銭では育たぬ……」
清正の呟きは、誰に聞かせるでもなく、ただ空気に溶けていった。そこには怒りよりも、侮られたという静かな痛みが滲んでいた。
同じ頃、備前の福島正則もまた、三成の指示書を繰り返し読み返していた。米一粒、銭一文に至るまで割り振られた緻密な計算。福島はその才覚に一瞬驚嘆したが、次の瞬間、胸の奥に抗いがたい不快が広がるのを覚えた。
「理は尽くされておる。だが……血が通うておらぬ」
戦は計算でのみ成るものではない。時に一人の武将の胆力が、時に兵の死を覚悟した突撃が、局面を覆す。その現実を度外視する三成の策は、戦場に生きてきた者の存在を無きものとするに等しかった。
さらに、三成が自らの財を割いてまでその命を貫こうとしていることだった。武士にとって、己が身命や財を捧げること自体は美徳とされる。
だが、私財をもって政の不足を補う振る舞いは、殿下の威を柱とする政道の筋を歪める。
政は、個の忠義や才覚で動かすものではない。あくまで「公」、すなわち太閤の権威と、その下に連なる秩序こそが支えである。そこから外れれば、いかに誠実さゆえの行為であろうと、やがて政権の根を揺るがす。
忠義の形に見えるそれは、裏を返せば秩序の逸脱である。豊臣の政権は「公」を柱に築かれたはずであった。だが、治部少輔の独断は、公を私でねじ曲げる危うさを孕んでいた。
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――この静かな憤りは、もはや一時の反感ではなかった。
それは、武人の矜持を踏みにじられた痛みであり、政権そのものの行く末を憂う真摯な苦悩であった。三成が誠実に、正しくあろうとすればするほど、その真面目さこそが、武人たちの心を静かに遠ざけていくのであった。
(続く)
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高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
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でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
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