恋人以上、恋愛未満

右左山桃

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1章 そんな風に始まった

29 ふたつの電話番号

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これほどまでに自分が辺境地に住んでいることを後悔したことはない。
走れども走れども家も人も見つからなくて、私は走ることを止められなかった。
男が追って来ているのかそうでないのか確認する余裕もないままに、走って、走って、走り続けて。
どれくらい走っていたのかはわからないけど。
やっと目に入った民家に、私は躊躇うことなく飛び込んだ。 
レトロなガラスの引き戸をありったけの力でガシャガシャと叩くと、中から出てきた寝間着姿のおばあちゃんが私を見て目をまるくする。
私はあられもない格好だったと思うけど、そんなの構ってもいられず。


「け……さつを……」


呼吸もままならないくらいの状態でそれだけ言って、私はその場に崩れ落ちた。


 ***


今は警察署で話を聞いてもらっている。
私の担当をしてくれる警察官は女の人で、柊さんという方だった。
個室に通され、ずたずたに切り裂かれた服を脱いで、貸してもらったジャージに着替える。
首の傷は浅く、血は止まったけど、当分は痕が残ってしまうと思う。
未だに襲われたことも逃げ切れたことも、嘘みたいで現実味がなかった。
私の服は凶器の特定に使用できるかもしれないということで領置されることになった。
状況の説明が終わる頃、犯行現場に急行していた警察官から私の荷物が届けられた。


「何か取られているものはある? 個人情報が漏れるようなものが取られてないか、特に注意して見て」


そうして手渡されたカバンの中を探る。
お財布は見ていた通り、お札が抜かれていたけれど。


「お金以外は……全部あるみたいです」


スマホと……キャッシュカード、そして通帳も。
全部私の手元に帰ってきた。
戻ってくるなんて微塵も思っていなかったけれど。
男は私が声をあげて逃げたことで、あの場からすぐに離れることが懸命だと思ったのかもしれない。

良かった。
本当に。

カバンをぎゅ、と抱きしめて、か細い糸のように私と大切な人達を繋ぎとめていたスマホを握りしめた。


「保護者の方を呼ぼうと思うのだけど……」

「え?」


柊さんからの申し出に、一瞬頭が真っ白になった。
割と冷静なつもりでいたけれど、やはり混乱していたのだと思う。
少し考えればわかる展開でも、私にはまったく考えが及んでいないことだった。
ここに母がやって来る、その状況を想像しただけで体が萎縮して足が震えだした。


「……私は……もう成人していますから。家族とは一緒に暮らしていません。母は少し……遠くに住んでいて……」


呼ぶのをやめてもらおうか……一瞬弱気になったけれど、さすがにそういう訳にもいかないだろうと思いなおし実家の電話番号を伝えた。
ただ今日は遅くて交通手段も無いので、母は来れないかもしれないと併せて伝えると、後日でも構わないとのことだった。

会いたくない訳じゃない、多分、今だっていつだって、ずっと会いたいと思ってる。
いや、違うな……。
「会いたい」という言葉には語弊がある気がした。
私が母に抱いているのは、そんなに前向きな明るい気持ちではないから。
会うのはとても怖い、重い。気が引ける。

あの時、私は確かに最後になるなら、伝えたいと願った気持ちがあった。
母に伝えなくてはいけない言葉だって、本当はたくさんある筈なのに。
あんな目に遭っても、いや、あんな目に遭ったからこそ。
母に愛想を尽かされてしまうこと、嫌われることへの恐怖心が勝ってしまう。
伝えよう伝えようという思いは未だ母へは届かず、行き止まっては弱い心に呑み込まれる。
複雑な気持ちで俯くと、柊さんは何となく状況を察してくれたようだった。


「他に、誰か迎えに来てくれそうな人はいる? 友達でも……良いのだけど」

「…………」


どうしよう、か。

胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように苦しくなった。
どうしたいか、なんて考えるまでもないことだけど……。
今さら、かもしれない。
ずっと拒否してきたのに。何をこんな時に図々しい、と思われるかもしれない。
来てくれないかもしれない。

――……けど。

スマホを持つ手を見つめる。
爪の間には、がむしゃらに掴んだ砂が入り込んでいた。
私は多分、儚い存在なんかじゃない。強くもないけど。
大地を――いざとなれば大の男ひとりだって――蹴り上げて、前に進む足を持ってる。

自分で選んで掴んだ明日からを、これからどう生きて行くの?
後悔するのも、諦めるのも、できないってことだけはわかった。

私はスマホのアドレス帳から、一番会いたい人の電話番号を伝えた。
柊さんはふたつの電話番号が書かれた紙を手にすると、私に「すぐに戻るからね」と告げて、部屋を出て行った。
その背中を祈るような気持ちで見送って、胸の奥から息を吐く。

今、自分が恋をしているかどうかなんてわからない。
胸を張って恋だの愛だの……そんなの、私が語るには100年早い。
自分の中で燻っている気持ちに、未だはっきり名前をつけられずにいるけど。
それでも、今の自分の気持ちを伝えることだけはできるはずだから。
それができるんだから。

そこから。

傷ついても、泣いても。
例えこれから先に、分かりあえないことがあっても、それでももういいんだと思った。
失うことは怖いけど、今の私は何も伝えられずに終わる以上に怖いことは無い。
雅への気持ちは、母に抱いてきた気持ちとは違う。
上手く言葉にできないけれど、それは雅と私が他人同士だから諦めがつくこと、とかではなくて。


もっと前向きな気持ち。


きゅ、と唇を結び直して、緊張しながら待っていると、ドアをノックする音が聞こえた。
柊さんが戻ってきて、安堵の笑みを私に向ける。


「お母さん、来てくれるそうよ。少し時間がかかるかもしれないけど今日中に来てくれるって。お友達……彼氏かな? も、来てくれるって」


私の肩に手を添えて、そう伝えてくれた。


「そう……なん…ですか……」


思わず体から力が抜けた。
意外だった。
ふたりとも、来てくれる、だなんて。
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