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そして誰もいなくなった。
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象がいなくなった。
そう気づいたのは仕事から帰ってきた夜だった。
僕の部屋には箱庭が一つ置いてある。青い壁に白い砂が敷き詰められた四角い箱庭。隣のラックには木や建物、動物が所狭しと並んでいる。療法に使用されるそれは完全な僕の趣味だ。大学生のとき、授業でその魅力に取りつかれ、結局一つ購入してアパートに置いてある。ちまちまと集め続けた箱庭用のフィギュアももう大分集まった。
何か悩み事があるとか精神が不安定だとか、そういうわけではない。箱庭の砂の手触りや、色とりどりな模型、無心になって自由に作ることができ、壊すことのできる箱庭の世界は、癒された。何も考えなくていい、というのは酷く楽だった。作ったところでそれを分析したりはしないあたり、SandplayTherapyという感覚の方が強いだろう。
僕の記憶が正しければ、この箱庭はこの前の日曜日に作ってそのまま放置していたものだ。
四角の箱の中、白い砂地に枠に沿って木の模型が置いてある。そして真ん中だけぽっかりと白い砂が見えている。森の広場を真上から見たような状態だ。そしてその広場の真ん中に、動物たちが丸くなって向かい合っている。人、猿、猫、犬、キリン、兎、鶏、虎、馬、そして象だ。あとは広場にぽつぽつと黒い石が置いてある、それだけ。特に何かイメージしたわけでもないが、ラックに置いてあるもともと少ない生き物の模型の全てを使った覚えがある。
それなのに、何故か象がない。象だけがいなくなっている。
記憶をひっくり返すが、確か朝まではあったはず。少なくとも自分で動かした記憶はない。週末に作った箱庭は翌週末まで放置するのが僕のこだわりだ。自分で一つだけ模型を移動させることはない。
「何でだ……?」
首を傾げながら、箱庭の周りやラック、砂の中を探してみるが、見つからない。灰色の象の模型だった。指でつまめるくらいの大きさで、長い鼻が足元あたりまで垂れている。いつ買ったかまでは覚えていないが、確か模型の中では中途参入だった気がする。
結局、どこを探しても象は見つからなかった。訝しみながらも、仕方なくその日は寝た。どうせこの部屋のどこかに必ずあるのだろうから。週末にでも探せばいい、と。
箱庭の生き物たちの輪は、象の部分だけポッカりと空いていた。
朝起きて、箱庭を覗く。あいかわらず、象だけがそこにいなかった。
***********
翌日、仕事から帰ってくると、部屋に違和感を感じた。
「まさか……、」
鞄もジャケット放って箱庭へと駆け寄って、絶句した。
馬がいない。馬と象だけがいなくなっている。
「嘘だろ……、」
象はいつなくなったのか、いつまであったのか覚えていない。けれど馬は確かだ。確かに今朝まで馬はこの小さな箱庭の中で輪の一部を担っていたはずだ。それなのに、馬がいない。
昨日よりも念入りに、周りを探した。箱庭の木の中、砂の中、ラックの中、床、自分の鞄やポケットの中。血眼になって探した。
結局、どこを探しても馬は見つからなかった。寒さも弱まった春だというのに部屋の中は酷く寒く感じた。嫌な汗が背中を垂れる。
この部屋には僕一人しか住んでいない。部屋の鍵を持っているのは僕と大家だけだ。だが大家が入ったというのは考えにくいだろう。貧乏なしがないサラリーマンの部屋に入って模型だけ盗っていくなんてありえない。
一縷の望みをかけて、印鑑、通帳、生活費の入った封筒を探してみる。いっそ金目のものが盗られていれば、物盗りが金品のついでに盗っていったとか、落としたと思えた。しかし期待に反してそれらのすべてが行儀よく、僕の記憶のあるところに収まっていた。
「……っ、」
なんとなく、勢いよく振り向いてみる。もちろん、一人暮らしのこの部屋に僕以外の生き物は何もいない。部屋はただシンとしていた。
部屋には鍵がかかっていた。荒らされた形跡はない。金品や貴重品は何一つかけていない。
ただ、箱庭から象と馬が姿を消した。
いつの間にか寝ていた。恐る恐る箱庭を覗きこむと昨晩の通り、象と馬のいない森が見えた。
一瞬、ビデオカメラでも設置しようかとも思った。けれど、やめた。
*********
仕事が終わり、家に帰ってくるのが苦痛だった。けれどどうせ明日も仕事はある。家に帰らないわけにも行かない。
重い身体、脈打つ心臓を携えて、ドアを開けた。震える身体を叱咤しながら、箱庭を覗いた。
虎がいない。象と馬と虎だけがいなくなっている。
僕は膝から崩れ落ちた。
もはや部屋の中を捜索する気にもなれない。それは確信にも似た何かだった。
いくら部屋を探しても、象は姿を消したまま。
いくら部屋を探しても、馬は姿を消したまま。
いくら部屋を探しても、虎は姿を消したまま。
見つからない気がする。見つかるはずがない。
生き物でできた輪は大分欠けてきた。これからもきっと、一日一体ずつ、消えていくのだろう。
誰が、どうやって、なんのために。一欠けらとして想像がつかなかった。消えたものは本当にただの模型、玩具だ。何の意味も、価値もない。適当に選んだだけのそれが、何故姿を消す。
ふと思う。
もし箱庭の中の生き物たちがすべて消える――10体すべて、あと7日後には、何が起きるのだろうか。消すものがなくなって、盗り去るものがなくなったとき、この怪異は終わるのだろうか。
もうこだわりなんてどうでもよかった。箱庭で輪を作っていた生き物たちをすべて、元あったラックの中へと片付ける。人、猿、猫、犬、キリン、兎、鶏、残された模型たちはガラスでできたラックに収まり、青い箱庭の中には木と石の模型、それと底を覆う白い砂だけが残された。
盗られるのならば、いっそ片付けてしまえばいい。
すくなくともこれで、帰ってきて恐る恐る箱庭を覗かずに済む。
「……、」
いつの間にか上がっていた呼吸が、元に戻る。だるい身体を引き摺り、風呂に入って寝た。明日からは何もない。何も問題はない。日常は戻ってきたのだと。
朝起きて、箱庭を覗く。昨日と変わらず、箱庭の中には何の生き物もいなかった。
**********
どこか晴れやかな気分で家に帰ってきた。二日連続で顔色が悪かったが知れたのか、同僚に「今日は顔色がいいな」とまで言われて笑ってごまかすしかなかった。住んでしまえばなんてことない。ただ模型が一日一つなくなっただけ。本当にそれだけだ。何の危害もなければ大きな損失でもない。一月もすればきっと酒の肴にでもなるだろう。少しだけ怖かった不思議な話、なんて。
躊躇なく鍵を回し、鞄を置き、着替えてから箱庭を覗く。今朝見たときと変わらず、箱庭は何の生き物もおらず、閑散としている。その様子に満足する。何も変わってなどいない。奇妙な事案は終わったのだ、と。
そこでそれ以上気にしなければよかった。不思議だな、なんて首を傾げながらも再び訪れた日常にその身を浸しておけばよかった。
なのに僕はラックを見てしまったのだ。
鶏がいない。象と馬と虎、鶏だけがいなくなっている。
上昇していた気分が、一気に急降下した。ざあ、と血が足元へと落ちていく。
昨日確かにラックに片付けたはずだ。これ以上何もない様に、と。箱庭から何もなくならないように。
模型がずらりと並んだガラスのラックから、鶏が忽然と姿を消した。有象無象の模型と、人、猿、猫、犬、キリン、兎を残して。
もう、動物たちの作っていた輪はない。ぽっかりと空いてしまった空間もない。箱庭の中に生き物はいない。
けれど変わらず、動物はいなくなり続ける。一日一体、消えていく。
「なんで……なんでなんでなんでっ……!」
一人の部屋に答える者はいない。
まず、象が消えた。
次に、馬が消えた。
次に、虎が消えた。
次に、鶏が消えた。
明日もきっと、一つ消える。人か、猿か、猫か、犬か、キリンか、兎か。明日には一つ消えるだろう。
後六日。後六日ですべてがなくなる。
「……ふぅ――、」
ゆっくりと深呼吸をする。ちらりとラックを見るが、鶏が戻ってきているはずもない。
落ち着かなければ。不気味だが、何の問題もないだろう。ただ玩具が盗まれただけだ。困るなら買えばいい。いくらでも模型なんて売ってる。買い足せばいい。
心が乱れたとき、徒に砂に触ってみるが、今回ばかりは触る気になれなかった。
箱の中には何もいない。
********
「おいお前大丈夫か?顔色酷いぞ。」
心配そうに顔を覗きこむ同僚に心配するなど手を振る。
「ああ……ちょっと不眠気味なんだ。」
「不眠って……何かあったのか?」
親身に話を聞こうとしてくれる同僚に口が滑りかけるが、すんでのところで飲み込んだ。言ったところでどうにかなるわけではないし、むしろ馬鹿なものを見るような目でこの気の良い同僚に見られたら耐えられない。状況整理すれば、大したことじゃないってことはわかってる。でもこの苦しみは実際にあの部屋で一人で住まないとわからないだろう。
「……夢見が悪くてな。」
「悪夢かぁ、それは辛ぇな。」
「とりあえず、今日からしばらくはカプセルホテルなりに泊ることにするよ。」
とりあえず、模型は10個しかないのだ。それまで耐えてしまえば、なんてことない。いい大人だ。別に家に帰らなくても大した問題はない。して言うなら出費がかさむが、あの部屋で神経をすり減らすよりもはるかに良い。
「なあ、良かったら俺の家来ないか?悪夢ってェなら一人よりも二人の方がまだ心強いだろ。」
「……良いのか?」
「ああ!お前さえよければ。まあ明日も仕事だから酒盛りはできねえが、適当に食って馬鹿な話しようぜ。適当に眠気が来るまで付き合ってやるからよ。」
「お前……良い奴か……、」
大学時代の友人ならいざ知らず、ただの同期の同僚にここまで気にかけてもらえるとわかると荒んだ心にしみわたる。気軽に話ができる、絡めるというのは大切だ。これで親交を深められたというなら、存外今回の怪異も悪いものばかりじゃないと現金なことを思う。
結局その日は家には帰らなかった。
深夜まで同僚の家でチープなものを食べて、馬鹿な話をしてジュースを飲んで。気が付いたらフローリングで雑魚寝をしていた。若干身体は痛かったが、頭は大分すっきりしている。やはりあれのことを気にしないでいいとなるとかなりストレスから解放されるようだった。癒されるための箱庭なのに、これほどアレに振り回されるとなると認識を改める必要があるかもしれない。
朝起きて、箱庭もラックも覗かなかった。
**********
同僚に泊めてもらった日の仕事終わり。僕はいったん家に戻ってきた。一日帰らなかったというだけで大分心に余裕が出てきていた。
家を出たときと何も変わらなければ重畳。変わっているとすればまた二つ、模型がなくなっているのだろうが、それだって想定内だ。慌てる必要も、恐れる必要もない。またなくなっただけなのだから。
一日だけ帰らなかった家は妙に懐かしい。迷わず箱庭へと向かった。
箱庭を覗く。箱庭の中には何もいない。砂と石と木の模型だけだ。
隣のラックを見る。ガラスの上には人、猿、猫、犬がいた。
キリンと兎が姿を消していた。おそらく、昨日のうちになくなったものと、今日の昼間になくなったものだろう。やはり、予想通りだった。
まず、象が消えた。
次に、馬が消えた。
次に、虎が消えた。
次に、鶏が消えた。
次に、兎が消えた。
次に、キリンが消えた。
あと四日。四日ですべてがなくなる。すべてが終わる、はずだ。
何故こんなことになっているのか、わからない。あの箱庭は何の意味もなかった。なんとなく作っただけのいつも通りの代物。そこに思想も価値も何もない。
誰が、どうやって、なんのために、なんてもはやどうでも良い。わからなくていい。ただこれが終わりさえすればいいんだ。
あと四日はもうここへは帰らない。ホテルに泊まるなりなんなりしよう。
朝起きて、貴重品をすべて持って家を出た。
何も変わっていないだろう箱庭は、もう見なかった。
*********
「え……?」
「えってお前……今日の午後の会議で使う資料だよ。作るように言われてただろ。」
「会議は来週のはずじゃ、」
「移動したんだよ!聞いてなかったのか?」
同僚の話に血の気が引く。聞いていない。確かに会議の資料作りの担当は僕だった。だが日付の変更は聞いていない。
「で、できてはいる!早めに作っておいたからそれは問題ない。」
慌てて鞄の中のUSBを探す。早め早めの行動に救われた。しかし探せども探せども件のUSBは見つからない。
「……作ったけど忘れた、みたいな?」
「それだ……、」
アパートに、しばらく帰っていないあの部屋に置いてきてしまったようだ。そうだ、思い返せばしばらく家に帰らないため鞄の中を整理したのだ。しばらく必要のない物は部屋に置いていこうと。
「帰って取って来い!お前のアパートそんなに遠くないだろ?昼休み潰せば十分取りに行ける。他の準備は俺がしとくから!」
「ああ、ありがと、」
そこでハッとする。
今日で、怪異が始まって10日目だ。
今日の夜、僕は全ての生き物の模型がなくなったのを確認する予定だった。
ゾワリと背筋が寒くなる。
今日で、すべてが終わるはずだ。
「……ありがとう、取りに戻ってみるよ。」
出来ればいつも通り夜に見たかったがそうも言ってられない。会議は急を要する。それをまさか家に帰るのが怖いから取りに戻れませんでした、なんて誰に説明できよう。
大丈夫だ。何の問題もない。僕に必要なのはUSB一つだけ。それを持ってさっさとまた会社に戻ればいい。それでまた家に帰って。何もかも終わったと安堵のため息を吐くのだ。
小走りでアパートの階段を駆け上り、久しぶりに鍵を鍵穴につっこむ。ガチャ、といつも通り開錠される音がした。けれど一瞬扉を開けるのをためらう。けれど入らないわけにはいかなかった。
大丈夫。何も問題はない。ラックには、何の生き物ももういないんだ。それからは僕の家に何の不思議なことも起きたりはしない。ただ会社から帰って寝るだけの場所。何の面白みもない、どこにでもあるようなアパートの一室だ。
ずかずかと中へと入り、頭ではひたすらUSBのことだけを考える。USBはすぐに見つかった。部屋のPCの側にあるそれをひっつかんで、さっさと部屋から出ようとした。
「……?」
何か部屋に違和感を感じた。
何かは分からない。けれどなにかがおかしい。普通ではない。部屋全体が、いや部屋の何かがおかしい。ぶわ、と汗が垂れた。何となしに勢いよく振り向いてみる。誰もいない。当然だ。この部屋には僕しかいないはずなのだから。
振り向いた先にあるのは、箱庭だけだった。やたらと、箱庭が気になってしまう。近づくべきでない。今すぐ会社に戻るべきだ。と頭はわかっているのに、気が付けば箱庭の目の前に来ていた。
箱庭の中にはなにもいない。白い砂、黒い石、木の模型でできた森。
次にラックに目を移した。
10日目、何の生き物もいないはずだった。
残っていたはずの、犬、猫、猿がいない。ガラスのラックには、人だけが取り残されていた。
「9……?」
何もいないはずの生き物の模型。取り残された人。
1日目、象が消えた。
2日目、馬が消えた。
3日目、虎が消えた。
4日目、鶏が消えた。
5日目、兎が消えた。
6日目、キリンが消えた。
7日目、8日目、9日目、猫と犬と猿が消えた。
僕が仕事に行っている間に、模型は消える。掛けられたままの鍵。一日一つずつ消える安物の模型。
10日目の今日、人が消える。
それは決まって、誰もいない昼間。
「っ……!」
室温がグッと下がった気がした。慌てて玄関に向かおうとしたとき、
ガチャリ。
施錠される音を聞いた。
**********
「いや、わざわざすいません。」
「別に良いが……アンタも大変だな。同僚を探して家まで来るなんて。」
面倒事は勘弁してもらいたいと顔に書いてある大家に曖昧な苦笑いを返す。
同僚がいなくなって5日がたった。今まで無遅刻無欠勤で勤務態度も真面目な奴だ。会社のみんなも何か事件ではないかと心配している。そのために派遣されたのが同期の俺だった。何より、最後に奴を見たのが俺だったというのもあるだろう。
会議の資料の入ったUSBメモリを家に取りに帰ったあいつは、それきり音信不通となった。昼休みの時間が終わっても戻って来ず、携帯に連絡を入れても反応がない。3日過ぎたあたりから流石におかしいのではないか、となり様子を見に来た次第だった。
ガチャリ、と鍵が開けられる。扉を開けても異臭などはしないことから最悪の事態ではなさそうだと安堵する。初めて来たあいつの部屋は几帳面なあいつらしく整理整頓されていた。
「あれ、これ……。」
ゴミ一つ落ちていないフローリングにUSBがぽつんと落ちていた。おそらく、これが会議の資料だったのだろう。それをポケットに突っ込んで何か手がかりになるものを探してみる。
妙な箱が目に付いた。
内側を青で塗られた箱に、白い砂が敷き詰められている。テレビか何かで見たことがある気がした。その横にはガラスのラックがあり、様々な模型が置かれている。ここだけ見ると子供の遊び場のようだった。
箱庭を覗くと、砂と石とたくさんの木の模型。
何を意味しているのか、素人の俺にはわからなかった。気まぐれに、白い砂に手を触れてみる。そして何か砂の中に埋まっていることに気が付いた。
「なんだこれ。何でこれだけ埋まってんだ……?」
白い砂の中には指でつまめるほどの、人間の模型が一つあった。
そう気づいたのは仕事から帰ってきた夜だった。
僕の部屋には箱庭が一つ置いてある。青い壁に白い砂が敷き詰められた四角い箱庭。隣のラックには木や建物、動物が所狭しと並んでいる。療法に使用されるそれは完全な僕の趣味だ。大学生のとき、授業でその魅力に取りつかれ、結局一つ購入してアパートに置いてある。ちまちまと集め続けた箱庭用のフィギュアももう大分集まった。
何か悩み事があるとか精神が不安定だとか、そういうわけではない。箱庭の砂の手触りや、色とりどりな模型、無心になって自由に作ることができ、壊すことのできる箱庭の世界は、癒された。何も考えなくていい、というのは酷く楽だった。作ったところでそれを分析したりはしないあたり、SandplayTherapyという感覚の方が強いだろう。
僕の記憶が正しければ、この箱庭はこの前の日曜日に作ってそのまま放置していたものだ。
四角の箱の中、白い砂地に枠に沿って木の模型が置いてある。そして真ん中だけぽっかりと白い砂が見えている。森の広場を真上から見たような状態だ。そしてその広場の真ん中に、動物たちが丸くなって向かい合っている。人、猿、猫、犬、キリン、兎、鶏、虎、馬、そして象だ。あとは広場にぽつぽつと黒い石が置いてある、それだけ。特に何かイメージしたわけでもないが、ラックに置いてあるもともと少ない生き物の模型の全てを使った覚えがある。
それなのに、何故か象がない。象だけがいなくなっている。
記憶をひっくり返すが、確か朝まではあったはず。少なくとも自分で動かした記憶はない。週末に作った箱庭は翌週末まで放置するのが僕のこだわりだ。自分で一つだけ模型を移動させることはない。
「何でだ……?」
首を傾げながら、箱庭の周りやラック、砂の中を探してみるが、見つからない。灰色の象の模型だった。指でつまめるくらいの大きさで、長い鼻が足元あたりまで垂れている。いつ買ったかまでは覚えていないが、確か模型の中では中途参入だった気がする。
結局、どこを探しても象は見つからなかった。訝しみながらも、仕方なくその日は寝た。どうせこの部屋のどこかに必ずあるのだろうから。週末にでも探せばいい、と。
箱庭の生き物たちの輪は、象の部分だけポッカりと空いていた。
朝起きて、箱庭を覗く。あいかわらず、象だけがそこにいなかった。
***********
翌日、仕事から帰ってくると、部屋に違和感を感じた。
「まさか……、」
鞄もジャケット放って箱庭へと駆け寄って、絶句した。
馬がいない。馬と象だけがいなくなっている。
「嘘だろ……、」
象はいつなくなったのか、いつまであったのか覚えていない。けれど馬は確かだ。確かに今朝まで馬はこの小さな箱庭の中で輪の一部を担っていたはずだ。それなのに、馬がいない。
昨日よりも念入りに、周りを探した。箱庭の木の中、砂の中、ラックの中、床、自分の鞄やポケットの中。血眼になって探した。
結局、どこを探しても馬は見つからなかった。寒さも弱まった春だというのに部屋の中は酷く寒く感じた。嫌な汗が背中を垂れる。
この部屋には僕一人しか住んでいない。部屋の鍵を持っているのは僕と大家だけだ。だが大家が入ったというのは考えにくいだろう。貧乏なしがないサラリーマンの部屋に入って模型だけ盗っていくなんてありえない。
一縷の望みをかけて、印鑑、通帳、生活費の入った封筒を探してみる。いっそ金目のものが盗られていれば、物盗りが金品のついでに盗っていったとか、落としたと思えた。しかし期待に反してそれらのすべてが行儀よく、僕の記憶のあるところに収まっていた。
「……っ、」
なんとなく、勢いよく振り向いてみる。もちろん、一人暮らしのこの部屋に僕以外の生き物は何もいない。部屋はただシンとしていた。
部屋には鍵がかかっていた。荒らされた形跡はない。金品や貴重品は何一つかけていない。
ただ、箱庭から象と馬が姿を消した。
いつの間にか寝ていた。恐る恐る箱庭を覗きこむと昨晩の通り、象と馬のいない森が見えた。
一瞬、ビデオカメラでも設置しようかとも思った。けれど、やめた。
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仕事が終わり、家に帰ってくるのが苦痛だった。けれどどうせ明日も仕事はある。家に帰らないわけにも行かない。
重い身体、脈打つ心臓を携えて、ドアを開けた。震える身体を叱咤しながら、箱庭を覗いた。
虎がいない。象と馬と虎だけがいなくなっている。
僕は膝から崩れ落ちた。
もはや部屋の中を捜索する気にもなれない。それは確信にも似た何かだった。
いくら部屋を探しても、象は姿を消したまま。
いくら部屋を探しても、馬は姿を消したまま。
いくら部屋を探しても、虎は姿を消したまま。
見つからない気がする。見つかるはずがない。
生き物でできた輪は大分欠けてきた。これからもきっと、一日一体ずつ、消えていくのだろう。
誰が、どうやって、なんのために。一欠けらとして想像がつかなかった。消えたものは本当にただの模型、玩具だ。何の意味も、価値もない。適当に選んだだけのそれが、何故姿を消す。
ふと思う。
もし箱庭の中の生き物たちがすべて消える――10体すべて、あと7日後には、何が起きるのだろうか。消すものがなくなって、盗り去るものがなくなったとき、この怪異は終わるのだろうか。
もうこだわりなんてどうでもよかった。箱庭で輪を作っていた生き物たちをすべて、元あったラックの中へと片付ける。人、猿、猫、犬、キリン、兎、鶏、残された模型たちはガラスでできたラックに収まり、青い箱庭の中には木と石の模型、それと底を覆う白い砂だけが残された。
盗られるのならば、いっそ片付けてしまえばいい。
すくなくともこれで、帰ってきて恐る恐る箱庭を覗かずに済む。
「……、」
いつの間にか上がっていた呼吸が、元に戻る。だるい身体を引き摺り、風呂に入って寝た。明日からは何もない。何も問題はない。日常は戻ってきたのだと。
朝起きて、箱庭を覗く。昨日と変わらず、箱庭の中には何の生き物もいなかった。
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どこか晴れやかな気分で家に帰ってきた。二日連続で顔色が悪かったが知れたのか、同僚に「今日は顔色がいいな」とまで言われて笑ってごまかすしかなかった。住んでしまえばなんてことない。ただ模型が一日一つなくなっただけ。本当にそれだけだ。何の危害もなければ大きな損失でもない。一月もすればきっと酒の肴にでもなるだろう。少しだけ怖かった不思議な話、なんて。
躊躇なく鍵を回し、鞄を置き、着替えてから箱庭を覗く。今朝見たときと変わらず、箱庭は何の生き物もおらず、閑散としている。その様子に満足する。何も変わってなどいない。奇妙な事案は終わったのだ、と。
そこでそれ以上気にしなければよかった。不思議だな、なんて首を傾げながらも再び訪れた日常にその身を浸しておけばよかった。
なのに僕はラックを見てしまったのだ。
鶏がいない。象と馬と虎、鶏だけがいなくなっている。
上昇していた気分が、一気に急降下した。ざあ、と血が足元へと落ちていく。
昨日確かにラックに片付けたはずだ。これ以上何もない様に、と。箱庭から何もなくならないように。
模型がずらりと並んだガラスのラックから、鶏が忽然と姿を消した。有象無象の模型と、人、猿、猫、犬、キリン、兎を残して。
もう、動物たちの作っていた輪はない。ぽっかりと空いてしまった空間もない。箱庭の中に生き物はいない。
けれど変わらず、動物はいなくなり続ける。一日一体、消えていく。
「なんで……なんでなんでなんでっ……!」
一人の部屋に答える者はいない。
まず、象が消えた。
次に、馬が消えた。
次に、虎が消えた。
次に、鶏が消えた。
明日もきっと、一つ消える。人か、猿か、猫か、犬か、キリンか、兎か。明日には一つ消えるだろう。
後六日。後六日ですべてがなくなる。
「……ふぅ――、」
ゆっくりと深呼吸をする。ちらりとラックを見るが、鶏が戻ってきているはずもない。
落ち着かなければ。不気味だが、何の問題もないだろう。ただ玩具が盗まれただけだ。困るなら買えばいい。いくらでも模型なんて売ってる。買い足せばいい。
心が乱れたとき、徒に砂に触ってみるが、今回ばかりは触る気になれなかった。
箱の中には何もいない。
********
「おいお前大丈夫か?顔色酷いぞ。」
心配そうに顔を覗きこむ同僚に心配するなど手を振る。
「ああ……ちょっと不眠気味なんだ。」
「不眠って……何かあったのか?」
親身に話を聞こうとしてくれる同僚に口が滑りかけるが、すんでのところで飲み込んだ。言ったところでどうにかなるわけではないし、むしろ馬鹿なものを見るような目でこの気の良い同僚に見られたら耐えられない。状況整理すれば、大したことじゃないってことはわかってる。でもこの苦しみは実際にあの部屋で一人で住まないとわからないだろう。
「……夢見が悪くてな。」
「悪夢かぁ、それは辛ぇな。」
「とりあえず、今日からしばらくはカプセルホテルなりに泊ることにするよ。」
とりあえず、模型は10個しかないのだ。それまで耐えてしまえば、なんてことない。いい大人だ。別に家に帰らなくても大した問題はない。して言うなら出費がかさむが、あの部屋で神経をすり減らすよりもはるかに良い。
「なあ、良かったら俺の家来ないか?悪夢ってェなら一人よりも二人の方がまだ心強いだろ。」
「……良いのか?」
「ああ!お前さえよければ。まあ明日も仕事だから酒盛りはできねえが、適当に食って馬鹿な話しようぜ。適当に眠気が来るまで付き合ってやるからよ。」
「お前……良い奴か……、」
大学時代の友人ならいざ知らず、ただの同期の同僚にここまで気にかけてもらえるとわかると荒んだ心にしみわたる。気軽に話ができる、絡めるというのは大切だ。これで親交を深められたというなら、存外今回の怪異も悪いものばかりじゃないと現金なことを思う。
結局その日は家には帰らなかった。
深夜まで同僚の家でチープなものを食べて、馬鹿な話をしてジュースを飲んで。気が付いたらフローリングで雑魚寝をしていた。若干身体は痛かったが、頭は大分すっきりしている。やはりあれのことを気にしないでいいとなるとかなりストレスから解放されるようだった。癒されるための箱庭なのに、これほどアレに振り回されるとなると認識を改める必要があるかもしれない。
朝起きて、箱庭もラックも覗かなかった。
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同僚に泊めてもらった日の仕事終わり。僕はいったん家に戻ってきた。一日帰らなかったというだけで大分心に余裕が出てきていた。
家を出たときと何も変わらなければ重畳。変わっているとすればまた二つ、模型がなくなっているのだろうが、それだって想定内だ。慌てる必要も、恐れる必要もない。またなくなっただけなのだから。
一日だけ帰らなかった家は妙に懐かしい。迷わず箱庭へと向かった。
箱庭を覗く。箱庭の中には何もいない。砂と石と木の模型だけだ。
隣のラックを見る。ガラスの上には人、猿、猫、犬がいた。
キリンと兎が姿を消していた。おそらく、昨日のうちになくなったものと、今日の昼間になくなったものだろう。やはり、予想通りだった。
まず、象が消えた。
次に、馬が消えた。
次に、虎が消えた。
次に、鶏が消えた。
次に、兎が消えた。
次に、キリンが消えた。
あと四日。四日ですべてがなくなる。すべてが終わる、はずだ。
何故こんなことになっているのか、わからない。あの箱庭は何の意味もなかった。なんとなく作っただけのいつも通りの代物。そこに思想も価値も何もない。
誰が、どうやって、なんのために、なんてもはやどうでも良い。わからなくていい。ただこれが終わりさえすればいいんだ。
あと四日はもうここへは帰らない。ホテルに泊まるなりなんなりしよう。
朝起きて、貴重品をすべて持って家を出た。
何も変わっていないだろう箱庭は、もう見なかった。
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「え……?」
「えってお前……今日の午後の会議で使う資料だよ。作るように言われてただろ。」
「会議は来週のはずじゃ、」
「移動したんだよ!聞いてなかったのか?」
同僚の話に血の気が引く。聞いていない。確かに会議の資料作りの担当は僕だった。だが日付の変更は聞いていない。
「で、できてはいる!早めに作っておいたからそれは問題ない。」
慌てて鞄の中のUSBを探す。早め早めの行動に救われた。しかし探せども探せども件のUSBは見つからない。
「……作ったけど忘れた、みたいな?」
「それだ……、」
アパートに、しばらく帰っていないあの部屋に置いてきてしまったようだ。そうだ、思い返せばしばらく家に帰らないため鞄の中を整理したのだ。しばらく必要のない物は部屋に置いていこうと。
「帰って取って来い!お前のアパートそんなに遠くないだろ?昼休み潰せば十分取りに行ける。他の準備は俺がしとくから!」
「ああ、ありがと、」
そこでハッとする。
今日で、怪異が始まって10日目だ。
今日の夜、僕は全ての生き物の模型がなくなったのを確認する予定だった。
ゾワリと背筋が寒くなる。
今日で、すべてが終わるはずだ。
「……ありがとう、取りに戻ってみるよ。」
出来ればいつも通り夜に見たかったがそうも言ってられない。会議は急を要する。それをまさか家に帰るのが怖いから取りに戻れませんでした、なんて誰に説明できよう。
大丈夫だ。何の問題もない。僕に必要なのはUSB一つだけ。それを持ってさっさとまた会社に戻ればいい。それでまた家に帰って。何もかも終わったと安堵のため息を吐くのだ。
小走りでアパートの階段を駆け上り、久しぶりに鍵を鍵穴につっこむ。ガチャ、といつも通り開錠される音がした。けれど一瞬扉を開けるのをためらう。けれど入らないわけにはいかなかった。
大丈夫。何も問題はない。ラックには、何の生き物ももういないんだ。それからは僕の家に何の不思議なことも起きたりはしない。ただ会社から帰って寝るだけの場所。何の面白みもない、どこにでもあるようなアパートの一室だ。
ずかずかと中へと入り、頭ではひたすらUSBのことだけを考える。USBはすぐに見つかった。部屋のPCの側にあるそれをひっつかんで、さっさと部屋から出ようとした。
「……?」
何か部屋に違和感を感じた。
何かは分からない。けれどなにかがおかしい。普通ではない。部屋全体が、いや部屋の何かがおかしい。ぶわ、と汗が垂れた。何となしに勢いよく振り向いてみる。誰もいない。当然だ。この部屋には僕しかいないはずなのだから。
振り向いた先にあるのは、箱庭だけだった。やたらと、箱庭が気になってしまう。近づくべきでない。今すぐ会社に戻るべきだ。と頭はわかっているのに、気が付けば箱庭の目の前に来ていた。
箱庭の中にはなにもいない。白い砂、黒い石、木の模型でできた森。
次にラックに目を移した。
10日目、何の生き物もいないはずだった。
残っていたはずの、犬、猫、猿がいない。ガラスのラックには、人だけが取り残されていた。
「9……?」
何もいないはずの生き物の模型。取り残された人。
1日目、象が消えた。
2日目、馬が消えた。
3日目、虎が消えた。
4日目、鶏が消えた。
5日目、兎が消えた。
6日目、キリンが消えた。
7日目、8日目、9日目、猫と犬と猿が消えた。
僕が仕事に行っている間に、模型は消える。掛けられたままの鍵。一日一つずつ消える安物の模型。
10日目の今日、人が消える。
それは決まって、誰もいない昼間。
「っ……!」
室温がグッと下がった気がした。慌てて玄関に向かおうとしたとき、
ガチャリ。
施錠される音を聞いた。
**********
「いや、わざわざすいません。」
「別に良いが……アンタも大変だな。同僚を探して家まで来るなんて。」
面倒事は勘弁してもらいたいと顔に書いてある大家に曖昧な苦笑いを返す。
同僚がいなくなって5日がたった。今まで無遅刻無欠勤で勤務態度も真面目な奴だ。会社のみんなも何か事件ではないかと心配している。そのために派遣されたのが同期の俺だった。何より、最後に奴を見たのが俺だったというのもあるだろう。
会議の資料の入ったUSBメモリを家に取りに帰ったあいつは、それきり音信不通となった。昼休みの時間が終わっても戻って来ず、携帯に連絡を入れても反応がない。3日過ぎたあたりから流石におかしいのではないか、となり様子を見に来た次第だった。
ガチャリ、と鍵が開けられる。扉を開けても異臭などはしないことから最悪の事態ではなさそうだと安堵する。初めて来たあいつの部屋は几帳面なあいつらしく整理整頓されていた。
「あれ、これ……。」
ゴミ一つ落ちていないフローリングにUSBがぽつんと落ちていた。おそらく、これが会議の資料だったのだろう。それをポケットに突っ込んで何か手がかりになるものを探してみる。
妙な箱が目に付いた。
内側を青で塗られた箱に、白い砂が敷き詰められている。テレビか何かで見たことがある気がした。その横にはガラスのラックがあり、様々な模型が置かれている。ここだけ見ると子供の遊び場のようだった。
箱庭を覗くと、砂と石とたくさんの木の模型。
何を意味しているのか、素人の俺にはわからなかった。気まぐれに、白い砂に手を触れてみる。そして何か砂の中に埋まっていることに気が付いた。
「なんだこれ。何でこれだけ埋まってんだ……?」
白い砂の中には指でつまめるほどの、人間の模型が一つあった。
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