胡蝶の夢

秋澤えで

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高等部編

溶け出す

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窓の外は見事な白に染まっていた。
正月のために地元へ戻ってきたときはまだ地面が見えていたのに、一夜明ければどこもかしこも雪に覆われていた。ひょい、と窓を開けてみればしんとした冷気が流れ込む。庭に積もる雪は誰に踏まれることもなく真っ新な状態で、出来心で踏み荒らしてみようかと身を乗り出したが縁側に置いてあった下駄の姿が見えないことに気が付く。雪が降るとわかっていればしまっておいたのに、と思うもののこの寒いのに雪を掘り返して下駄を探す根性は僕にない。いつか暑いときに日和に言われた言葉を思い出した。縁側を歩けば、青碧の水瓶が見えた。想像通り、水面は薄くはない氷に覆われている。ただ一つ予想外であったものにす、と目を細めた。昨夜風が強かったせいか、きっとどこかから運ばれてきたのだろう。

たぶん僕は冬は嫌いではない。そして雪もきっとそうだ。だがどうしたってこの真朱まそおだけは好きになることはないだろう。

落ち着かない気分を胸に抱き、玄関に足を向ける。前からそうだった。冬、あの色を見かけるたびに彼に会わないでいられない。

透き通る氷に閉じ込められた椿の花弁を頭から追い出すように冷えた床板を足早に進んだ。



******



「涼、ここにいたのか。」
「お邪魔しています。それとお疲れ様です。」


正月ということもあり蓮様たち白樺家は次から次へと新年の挨拶の来客に追われていた。そのため赤霧は主に屋敷の警備にあたることになっていた。父様は嘉人様に後ろに控え、僕と翡翠は廊下の巡回、門前の見張りであった。多くの客が訪れるが中には気分の悪くなるような客もいる。時に赤霧は部外者から蔑まれる。非常に不愉快であるがそれを表に出すことはない。所詮赤霧は白樺の側で甘い蜜を吸っているなどと揶揄されるが、むしろそう揶揄する者たちこそ白樺の利に群がる者だ。

客が帰ったのち、屋敷内に不審な物、変わった点がないかを確認して回り、仕事が終わった。しかし僕の今日の目的はどちらかと言えば仕事と言うよりも蓮様の顔を見ることであった。こうして屋敷にいても蓮様は嘉人様や同じく帰省している神楽様と応接間に篭りきりだったため、朝顔を合わせただけでまともに話もしていない。流石に正月早々襲撃者や不審者は現れなかったためさしたる労働もしていないが、精神的に疲れた。大した時間は取れないだろうが、せめて数分でも今日中に話がしたかった。なんてことはない、重要でもなんでもないいつも通りの会話を。そういうわけで、蓮様より少し早く身体の空いた僕は慣れたように彼の部屋で主が戻ってくるのを待っていた。


「お前もお疲れ。何で毎年こんなに人が来るんだろうな。どれもこれも似たようなことしか言わないんだから全員まとめて来れば楽なのに。」
「まあ言ってしまえばそうですが、そういうわけにも行かないんでしょうね。難儀なことに。」

「……涼、それなんだ?」
「雪ウサギです。待っている間に作りました。」


蓮様が目を止めたのは寒い縁側に置かれた皿の上にちょこんと並んだ二匹の雪ウサギだ。蓮様が来るのを待っている間、手慰みに作ったそれはほとんど溶けることなく仲良く寄り添っていた。


「中に入れてしまうとすぐに溶けてしまうと思いまして、そこに置いておいたんです。」
「へえ、なんか懐かしいな。……あの時は涼の作った雪ウサギがドロドロに溶けててすげぇショック受けたんだよな。」

「もう雪の中に飛び込んだりしないでくださいよ。」
「もうしねぇよ。あれだって初めて雪を見たからああなっただけで、もうあそこまではしゃいだりしない。」


クスクスと笑いからかうとちょんと唇を尖らせる。あの時は本当に焦った。ただでさえ寒いのに身体の弱い蓮様が雪に塗れるなんて言語道断、全く肝が冷えた。それに比べて今では随分と逞しくなって、と親戚のおばさんのような感傷を抱く。

身体は丈夫になり、息を飲むほど薄かったのにいつの間にか健康的に肉付きが良くなっている。本当に、無事に育ってくれた。かつてのように自らを悲観するようなことも、兄への劣等感も、今の彼は抱えていない。彼は安寧そのものだ。


「あれから随分経ちましたね。」
「だな。まだ小学校へ通う前だった。涼はあのころからあんまり変わんねぇな。今も昔も、真面目で心配性だ。」
「変わってませんかね?」


変わっていないのは、信念が故か。それとも成長がないということか。果たして僕はどちらだろう。すっかり馴染んだこたつに入り、蓮様と話しながら雪景色を眺めていると、いそいそともこもこした物を着込み始めた。


「……何ですか、そのもこもこしたものは。」
「ん?半纏。さよが買ってきたんだ。今年は殊更寒いらしくて、風邪ひかないようにだってよ。」


こっちにいる間は二週間程度しかないから向こうに持ってけってことか?と首を傾げているが、問題はそっちじゃない。


「なんつうダサい半纏ですか……?」
「……知ってる。ダサいよな。センスに自信なかったから言わなかったし、さよが普通に持ってきたからこういうもんかと思ったけど。違うよな。」


そもそも半纏とはかっこよさを求めるものではないと重々理解している。半纏なんてものは基本的に家の中でしか着ないし、見た目よりも圧倒的に温かさが重視される。綿をつめられた半纏はもこもこでひどく動きづらいが、その代わりぬくぬくとした布団にも似た温かさを得ることができる。
ゆえにさしておしゃれなそれやスタイリッシュなそれを見たことはない。しかしながらパッチワークとはいかがなものだろうか。もちろんそれ自体を否定しているわけではない。ただ合わせる布の柄や色の組み合わせ、さらに着物の上に着る半纏だということに問題がある。


「さよ曰く、今年は『ださかわいい』が来るらしい……。」
「百歩譲って、それを可愛いとするのだとしてもそれはそれで……。蓮様に可愛さを求めても。」


いまいち何考えてるかわからないところや、突拍子もないことを突然するあたりは、姉妹だなとここにはいない日和を思い出す。さよさんも正月は一時休みを取っており、今は実家に帰っている。


「もう一着あるから涼も着るか?」
「……せっかくなのでお借りします。」


見た目はどうあれ、温かいのは確か。そして前述したようにかっこよさはまあ求めていない。むしろここまで行くともはやそういう物なのではないかとさえ思えてくるから不思議だ。存外『ださかわいい』という言葉が当てはまるかもしれない。しかし、そう思ったのも一瞬で、二人してもこもことした妙な柄の半纏を着ているというのはなかなか笑いを誘い、どちらともなく噴出した。


「ふ、あははは、やっぱこれ変だよな。お前が着てみてよかった!」
「ははは、今は二人とも着てるのでマシですけど、さっきみたいに蓮様が一人で着てるのは結構シュールでしたよ。ふふ、」


ひとしきり笑って息を整えるようにこたつ机に突っ伏した。半纏のおかげでこたつに入っていない上半身も温かい。くすくすと笑いを引いたまま突っ伏していた顔を少しだけ挙げて蓮様を見ると、ぱちりと目が合う。少し照れたようににへら、と軟らかく笑うので、思わず僕も締まりのない顔で笑い返した。
小さな世界は安寧に満ちている。
ぺたりとこたつ机に上半身を倒してこちらへ両腕を投げ出す蓮様が緩く口を開く。


「なあ涼。」
「なんです?蓮様。」
「……今年もよろしくな。」
「……ええ、今年もよろしくお願いします。」


また笑う蓮様に、こたつや半纏のおかげだけではない温かさが胸に入り込む。伸ばされた右手に自身の左手を重ね、もう片方の手には戯れにこたつの上に積まれていたみかんを一つポンと置いた。今度は蓮様がくすくすと笑う。
いつの間にか、僕の頭に居座っていた水瓶の氷は溶けていた。



******



「涼、どこ行ってたんだ?」
「兄さん。蓮様の部屋でいろいろ話してたんです。今朝会った時はまともに挨拶もできませんでしたから。」


日が傾いてきたため家に戻ると廊下でばったりと翡翠に会った。手には盆に乗った急須と湯呑を持っており、どうやら自室に持っていくらしい。急須の口からゆらゆらと湯気がたち上っている。


「ないとは思いますが、怪我はしませんでしたか?」
「何がだ?」
「いえ、文化祭のときに三階から飛び降りてたでしょう。中庭でたまたま見たんです。大丈夫でしたか?」
「は!?あ、ああ。別にあれくらい大丈夫だ。それにお前も飛び降りたって話を聞いた。言うまでもないが、気を付けろ。」
「お互いさまですけどね。」


驚いたように肩を揺らした翡翠に首を傾げる。飛び降りたことがばれるのはそんなに不味かっただろうか。だが別に怪我をしているわけでもないし、僕だってほとんど同じことをしているのだから特に問題はないはずだ。考えるものの明確な答えは出ないまま、何故か翡翠は動揺が尾を引いているようでいまだにどこかそわそわしている。


「しかし兄さんがあそこまでするとは思いませんでした。桃宮さんのこと、捕食者だのビッチだの扱き下ろしていたのに。別に放置しても校内でしたから大したことは起きなかったでしょう。」
「そ、れは……!」


以前から疑問に思っていたことをさしたる意図もなく問うとまた大きく肩を跳ねさせ、手元の急須と湯呑が音をたてた。あれほど毛嫌いしていたのになぜ校舎から飛び降りてまで助けようとしたのか不思議でならなかった。


「別に、ただ目の前でああいう?胸糞悪い奴らを見るのが嫌だっただけで、桃宮だから助けたわけじゃなくて誰でもああなってれば助けたんだ、別に桃宮だから助けたわけじゃない、断じて。階段使わなかったのは単に面倒くさかっただけ急いでたとかそういうんじゃない。むしろ普段から階段じゃなくて飛び降りるのを積極的に使っていきたいくらいで、あいつだから飛び降りたわけじゃ……、」

「わかりました。わかりましたから落ち着いてください!お茶が零れます!」


何気なく興味本位で聞いただけだったのだが、凄まじい勢いで話す翡翠に若干引いた。ほぼノンブレスで立て板に水のごとく捲し立てる。表情や声のトーン自体はほとんど平素と変わらないが、手元の急須と湯呑が携帯のバイブ並に小刻みに震え先ほどよりも大きな音をたててている。このままではいつか翡翠が僕を見舞いに来た時のブドウの二の舞になりかねない。むしろ陶器のため大参事だ。


「あー、と……特に他意はなく、たまたま気が向いたから助けてあげた、みたいな感じでオーケーですか?」
「そ、そう!それ!」


そういうことだ!と話を終わらせ、お盆の上のものをガチャガチャ言わせながらそそくさと翡翠は自室へと走っていった。廊下には点々と水滴が落ちている。どうやら落とすことは避けられたが大分零れてしまったらしい。大方翡翠は気づいてなさそうなので僕が雑巾を取りに行く。

桃宮のために負担を省みず助けに向かい、それをつつかれると執拗なまでに桃宮のためじゃないことを主張、普段は落ち着きがあるのに今に限ってあからさまに動揺、どもる、目が泳ぐ、早口になる。極めつけは真っ赤に染まった耳。


「……しかしまあ、あの翡翠が……、」


あれだけ毛嫌いしていた翡翠が、まさか桃宮に気があるとは。わずか数か月の間にいったい何があったのか。押せ押せな桃宮に絆されたのかどうなのか知らないが、今なら悪くないかもしれない。以前まで桃宮は逆ハーレムルートを辿っていたが、最近はあまりそう言った風には見えない。黄師原からの生徒会の誘いを蹴り、緑橋とも若干距離を取っているし、以前ほど僕に話しかけようとして来ることもなくなった。


「むしろこれで丸く収まるんじゃ……?」


完全に僕は、翡翠はもう攻略キャラクターから外れたものだと思っていた。『白樺蓮の御側付の赤霧翡翠』は『白樺蓮の御側付の赤霧涼』に成り代わられ、作中の赤霧翡翠とは全く違う人物になった。現に逆ハーレムイベントである攻略キャラクターと桃宮の写真撮影のとき翡翠はその場にいなかった。フレームアウトした赤霧翡翠とフラグが立っているのは全くの想定外である。
言い換えるのなら、彼らは完全にシナリオから外れているのだ。
桃色と赤の間にあったはずの数々のイベントは、彼らの間には発生し得ない。
今まで蓮様の安寧を脅かしかねないと思っていたからこそ、僕は桃宮を注意し敵視していた。だが蓮様に関わらずゲームに巻き込まれないというのであれば、彼女がどこで何をしていても何の問題もないのだ。

何より、翡翠は別に僕が守らなければならない存在ではない。彼が守られるような立場でも人柄でもないことはわかっている。むしろ首を突っ込むことは間違いなく余計なお世話だろう。


「……問題なさそうですし、ひとまず傍観ですかね。」


どう転んでも問題なく見てる分にはそれなり面白そうだ、と自己完結し、廊下に点々と残る水滴をふき取る作業を始めた。
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