おシゴトです!

笹雪

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第13話

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 まるで心の中に、大きな穴が開いているような感覚だった。
 遠くで電話が鳴っていることには気づいていたが、柚希は最後まで顔を上げることはなかった。
 自分のスマホの電源は、もう何日も入れていない。
 事務所に架かってくる電話なら、自分が出る必要はない。
 柚希はそう思って、黙々と今日の業務日誌を記入していた。
 日誌に記載された業務内容に目立ったミスや改善点はなく、柚希を知らない人から見れば完璧と言われるであろうその仕事っぷりも、よく知った人たちからすれば違和感があるのだろう。
 実際、柚希が事務所にいる間に出勤してきた先輩方からは、心配するような声が掛けられていた。

 しばらくすると、不意に後ろから大きなため息が聞こえてきて、柚希はようやく顔を上げた。
「……社長?」
「いま、大庭さんから電話があったよ」
 大庭という名前に、柚希は内心ドキリとした。
 それは、翔太がマンションで使っている偽名だった。
「もう辞めたって言ってるのに、話がしたいの一点張り。……まったく、たいしたご執心だね」
「す、すみません……」
 テレビ局でのことがあってから、柚希は翔太を自分のクライアントから外してもらっていた。そして大庭の正体といままでの出来事を話すと、社長は柚希がここを辞めたことにしてくれたのだ。
「まぁ、今回は過ぎたこととして見逃すけど、以後は気をつけるようにね」
「…………はい」
 うなだれた柚希の肩を、社長がなぐさめるように軽く叩いた。
「うちとしても、いま柚希ちゃんが抜けるのは痛いんから」
 頼むよ、と言って笑った社長に、柚希は深々と頭を下げた。




「ええぇぇぇっ!!!」
「ちょっと里菜、声が大きいって」

 柚希は苦笑しながら立ち上がりかけた里菜の腕を引っ張った。
 仕事帰りに連れて来られたファーストフードの店内は混み合っていて、いまの里菜の叫びを気にしている客がいないのが幸いだった。
「わかってるよ! ハァ……待って。ちょっと整理させて。いったい全体、どうしてそんなことになったのよ?」
 柚希は、困惑する里菜にうながされるまま、自分と翔太の間で起こったことをきちんと最初から説明していった。
 実は、ちっとも連絡が取れない柚希に腹を立てた里菜が、仕事から帰ってきた柚希をマンションの前で待ち伏せしていたのだ。
「…………ごめんね。契約があるから、里菜にも言えなかったんだ」
 ほんとはいまも言っちゃダメなんだけどね、と柚希がなんでもないことのように苦笑すると、里菜がまた大きくため息をついた。
「そんなことは別にいいのよ。柚希が真面目だってことは知ってるし、ただ、あたしが言いたいのは……」
「やだな、里菜。……お仕事だよ」
「っ、そんなこと! ……あんたに限って、そんなわけないでしょ」
「………………」
「あたしは、あんたがどれだけあの仕事を大事にしてるか、これでもよくわかってるつもり」
「里菜……」
「それが、一時の気の迷いだけで関係を持つなんて、ありえないのよ」
 里菜の真剣な瞳が、逃げようとする柚希をじっと見ていた。
「……、めて」
(お願い……)

「好きになったんでしょう? 翔太のこと」

「っ、……」
 柚希は思わず息を呑んだ。

(もうそれ以上、何も言わないで)

「それを翔太にも」
「やめてよ!」
 柚希は、いつのまにか握りしめていた手のひらを、勢いよくテーブルの上に叩きつけていた。
 一瞬シンとした店内に構うことなく、柚希が続ける。
「もう終わったの、これ以上、関わるつもりもない。……もう、もうたくさんだよ!」
「柚希……」

(好きになればなるほど、……自分がみじめになるだけ)

「ごめんね……、今日は帰る」
 里菜の引き留める声を振り切るように、柚希は店を後にした。



***** ***** ***** ***** *****

 里菜と会ってから、一週間が過ぎていた。
 先週は毎日架かってきていた翔太からの電話が、今週に入るとピタリと収まっている。もう諦めたのかもしれないね、という社長の言葉に、柚希はほっとしながらもどこか寂しかった。
 あの奇跡のような日々が、完全に終わってしまった。
 柚希はそんなふうに思ってしまう自分を叱りつけると、気持ちを切り替えるように事務所のドアを開いた。

「おはようございまーす!」

「おっ、おはよう柚希ちゃん」
 いつもの席に腰掛けた社長が、マグカップ片手に満面の笑みで迎えてくれた。
 社長がこういう表情をするときは、決まって新しいお得意さまが出来たときだ。そしておそらく社長の様子からすると、その新しいお得意さまは自分の振り分けになるのだろう。
 柚希は苦笑しながらバッグをソファに置いて、自分用のコーヒーを用意することにした。社長の話を聞くのはそれからでも構わないはずだ。
 柚希が紙コップを持ってソファに腰掛けると、社長が待ってましたとばかりにクライアントの資料を渡してきた。
「柚希ちゃんに、新規のお仕事です」
「わたしに、ですか?」
 前回の指名のこともあり、柚希は一瞬表情を曇らせた。
「ああ……いや、そういうわけじゃないんだ。ただ先方の希望が、なるべく若い子がいいって話でね」
「若い子……」
 確かに『スマイル』で一番若い家政婦と言えば、柚希である。
「なんでも、部屋に電子機器がたくさんあるらしくて、男でも女でも若い方が安心なんだそうだ」
 その説明に柚希が手元にある資料を覗き込むと、職業欄にはSEという文字が書き込んであった。
(システムエンジニア……IT関係の人なのかな?)
「どう? 柚希ちゃんに頼めるかな?」
 特に断る理由もない柚希は、残りの資料を読みながらあっさりと頷いていた。



「わぁ……高そう」
 篠原のところとも、翔太のところとも似ていない作りだが、明らかに同じ雰囲気を持つ高級マンションに、柚希は感嘆のため息をこぼした。
(IT関係って、いまはもうちょっと庶民的というか、こう……機能性を重視したところに住んでるかと思ったんだけど……)
 半ば呆然とマンションを眺めていた柚希は、とりあえずスクーターを止めようと駐車スペースを探した。
 どうやら一般車両用は地下にあるようなので、出来れば駐輪場に置かせてもらいたい。
 そんな風に思った柚希が建物の裏手に回ろうとすると、エントランスの方から声が掛かった。
「このマンションに何か御用ですか?」
「えっ……」
 振り返ってみると、黒いスーツの男性がこちらに向かって歩いてくるところだった。
「あの、わたし、家政婦の派遣会社から来たんですが……」
「家政婦さん?」
 男性は首を傾げると、柚希の格好をまじまじと見つめてきた。
「…………?」
「ああ、これは失礼しました。わたしはこのマンションの管理をしている者です」
「え! やだ、すいませんっ」
 柚希も慌てて仕事道具の中から名刺入れを取り出すと、その中から事務所のチラシ代わりでもある名刺を一枚差し出した。
「……なるほど、確かに。で、本日は誰かの依頼でこちらに?」
「はい」
 柚希がクライアントの部屋番号を伝えると、管理人である男性が軽く目を見張った。
 そのまま柚希にここで待っているように言うと、すぐさま管理人室へ戻っていく。
「どうしたんだろ……?」
(それにしても、スーツ姿の管理人さんなんて初めて見たなぁ)

 数分で戻ってきた管理人は、スクーターを駐輪場のすぐそばに止めるように案内すると、エントランスのオートロックを開けて待っていてくれた。
「え、あの……」
 クライアントに許可を取らなくてもいいのかと焦る柚希に、エレベーターのボタンまで押してくれた管理人が苦笑した。
「大丈夫です。先ほどご連絡しまして、あなた様が来ることを確認しましたから」
「……そ、そうですか」
 今までにない展開に、柚希はなぜか緊張しながらエレベーターに乗り込んだ。
「いってらっしゃいませ」
 管理人に笑顔で見送られると、いったいこの先に何があるのかと思いたくなってくる。
 柚希は深々と息をついて、エレベーターが停止するのを待った。

 そのクライアントの部屋は、最上階の一番奥にあった。
 部屋数の少なさに驚きつつもそこまでたどり着くと、柚希は玄関のベルを鳴らした。
 新しい仕事先だと、この瞬間が一番緊張する。
 柚希が気を引き締めたとき、カチャリという音とともに玄関のドアが開いた。

「…………え……」

 ドアの向こうに立っていた人物に、柚希は身動きひとつ出来なかった。
「いらっしゃい、柚希ちゃん」
 そう言って微笑んだ顔は、柚希もよく知っているものだ。
「な、なんで……」
 あなたがここに? という言葉は、最後まで言わせてもらえなかった。
「なんでって、ここは俺の部屋だから」
 そう言った桃原潤也が、柚希に向かってにこやかに微笑んでいた。


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