当たり前の幸せを

紅蓮の焔

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五章 『運命の糸』

230話 『欠落しているもの』

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 眠りについたエミリは、意識を手放した次の瞬間には、延々と続く闇の中を浮かんでいた。いや、正確には、漂っていた、とするのが正しいのかもしれない。

 体は動くものの、それで移動ができるかどうかはまた別の問題だった。移動はできない、任意の方向に移動はできない、という意味では、浮かぶと言うより、漂うとか、漂流とか、そんな表現の方があっている気がする。
 周囲に首を巡らせても景色は変わらない。

 上下左右、くまなく見渡して、それを見つけた。

 真っ暗闇のはずなのに、そこに人影が見えた。真っ黒に、ペンキか絵の具をぶち撒けて塗り潰したかのような人影が。少しだけ、不思議に思った。

 暗闇の中で見える黒色に、首を傾けると人影は暗闇の中を歩くように近づいて来て、やがてエミリの目の前に立った。

 見上げてもその顔は下からも見えることはなかった。お面か何かではなく、まるで、その存在だけに被せられたキグルミのように、正体は窺い知れない。

「────」

 だが、姿の見えないその姿に見覚えは無いが、心当たりはあった。
 けれど、何も心に浮かばない。怒りも、焦りも、悲しみも、何も。

 ふとした疑問がそこで出て来た。

 もし予想が当たっているのだとすれば、何かしら反応してもいいものだと思ったのに、しかしそんな事はなくて。けれども、目の前の存在に関して言えば『見えない人影』というだけで、きっと『前の自分』に深い繋がりがあるか、もしくは当人だという予測しか立てられず、エミリは片眉を上げた。

 ただ彼か彼女かが目の前にいて、そして自分がここにいる。たったそれだけだ。それだけの関係なら、きっとそうだろう。それ以外の何物でもない。記憶を失くしていればきっと、昔は親しかった仲も、全てが記憶の彼方に無くなって消えてしまう。
 もしかしたらレイカも、そう考えているのかもしれない。ここにも、この人影にも、どちらにも懐かしさは微塵も感じられないのだけど。

「あなたは、ボク?」

 首を傾け問いかけたエミリに、黒く塗り潰された人影がしゃがみ込んで、エミリと視線の高さを合わせた。近づいた顔も、やはり塗り潰された黒色で見えることはなかった。

 けれど、それは確かに頷いたかのように、エミリには見えた。

 その意志は、尊重しようと決めた。

 ※※※

「進まなきゃ……」

 ぽつりと、エミリは呟いた。
 尊重しようと決めたその意志になんの意味があるのかは不明だけれども、あの人影が何かを成そうとして、どこかに進もうとしていたのは気づけたから。

 その覚悟を、意志を、心に留めておこうと、そう胸に手を当てる。

「前に、進む……」

 口の中で噛み砕いて、飲み込んで、エミリは体を持ち上げるようにして上体を起こした。
 ふと温もりを感じたその手を見れば、そこには誰もいなかった。

 おそらく、先程まではるんちゃんが眠っていたのだろう。

 布団を畳んで部屋の外に出ると軽い寒気を覚えた。
 通気性バツグンの、このブカブカな寝間着にも原因はあると思うが。

「……るんちゃんさん、どこだろ」

 布団の温もりからしてあまり距離はないはずだと、エミリは廊下をとぼとぼと歩き始めた。

 その廊下は、白い壁とあまり滑らないフローリングの床の構成で真っ直ぐ続いている。端は既に見えていて、上へ登る階段が左側、下りる階段が右側に見られた。

 階下から漂ってくる匂いに釣られ、エミリは下に下りて行った。

「あ、起きてきましたか、エミリちゃん」

「おはようございます、るんちゃんさん」

「何この子カワイイ!?」

 彼女は白いエプロンを身に纏い、特徴的な毛先が跳ねた癖っ毛を揺らしてまろ眉をぴょこぴょこと跳ねさせながら笑顔を浮かべていた。
 その手には包丁が握られ、今まさに野菜を切っている最中だった。彼女の側の鍋がグツグツと煮えているのが音から伝わってくる。

「まゆげ、動いてる……」

「ああ、これは、嬉しくなると勝手に動いちゃうんですよ……お恥ずかしい……」

 曖昧な笑顔を浮かべて、切り終えた野菜を鍋の中に入れると蓋をして手を洗い始めた。
 それをキッチンの入り口で立ち尽くしながら見つめていたエミリに、濡れた手で手招きする。ニヤリと含み笑いを浮かべたるんちゃんに気づいた様子もなく、エミリは近づいて行った。

 るんちゃんの側に来ると、エミリはそこにきらきらと光る宝石を見た。

 正確には、流し台に置いてある小さな桶に水が貯められ、それが綺麗な虹色をしながら泡立っていたのだ。それを見つめるエミリは、きらきらと同じくらいに、その目を光らせる。

 それをよく見ようとして、エミリは背伸びをして流し台に身を乗り出してじっくりと観察する。虹色に光る泡がゆっくりとではあるものの動いたりして、虹色の光をふにゃふにゃと曲げながら大きくなったり小さくなったりして、桶の上を泳いでいた。

 そしてエミリは、その光景に魅入ってしばらく眺め続けた。

「ふふっ……」

 微笑ましくエミリを見つめ、その側を離れたるんちゃんは蓋を開けて鍋の中を確認して小さく頷く。ちらりと隣を見たるんちゃんの瞳には、まだ夢中に虹色を見つめているエミリが映る。
 そうしてこっそりと部屋を出て行ったるんちゃんは楽しそうに笑っていた。

 しばらくして虹色から目を離せる事に成功したエミリは、辺りに漂う香りに目を光らせた。周りを見渡してもそこには誰の姿もない。が、その香りの原因ならば、見つけることができた。

「────」

「ん? あ、バカ!」

 湯気を立たせている鍋を持ち上げようとしていたエミリの襟首を引っ掴んで鍋から勢いよく引き剥がしたのは一人の少年だった。

「──まほまほくん?」

 焦った様子でエミリを抱き抱えていたのは、少年と呼ぶには似つかわしくない顔、細い体をしたまほまほくんであった。彼はその顔を見上げるエミリにゲンコツを食らわせる。

「ああそうだよバカ! 危ないだろあんなのに触ったら!」

「どうして?」

 頭を抱えながら表情一つ変えずに尋ねたエミリの、その余りにも欠落した人間性に彼の瞳に困惑の色が浮かぶ。少し強めに殴られても眉一つ動かさない、本当に困ったような、検討のついていない顔をしているエミリの瞳に、底知れない暗闇が見えた気がして、体が竦んだ。

「どうしてって……」

「ねえ、どうして?」

 重ねて質問を受けて答えに窮した彼の方に体の正面を向け、エミリはその眉をひそめる。そうして彼の表情から読み取ろうとして、その顔に左右黒白の色違いの瞳を近づけていき──

「……傷になる、怪我するからだ」

 彼は、そう、諦めたかのような口調でそう告げた。
 近づけていた顔は、ピタリと止まる。

 彼は、不思議そうな顔をするエミリから目を背けず、しかしながら明らかな嫌悪感をその瞳に宿らせて、そう答えた。その答えに瞬きを返すエミリ。

「傷がつくと、怪我すると、ダメなの?」

「ああダメだ。……近くで誰かに、怪我でも、されたら、気が、滅入る……」

 口元を歪ませて顔を背ける彼の顔に、エミリは瞬きと同時に頷いて見せた。

「うん、分かった。気をつけるね」

「……ほんとに分かったんだろうな……?」

「ほんとだよ? 怪我はしちゃだめ。でしょ?」

「……ああ、そうだよ」

 舌打ちして、膝の上に座っているエミリを隣に避けて彼は立ち上がった。
 同じように立ち上がると、エミリは少年の顔を見上げる。大きく息を吸い込んでいた。真似して、大きく息を吸い込み、ほっぺを膨らませる。

 二人一緒に、一つ息をついた。

「なんでこんな事に……」

 小さく呟かれたその声はエミリにも誰にも、届く事はなかった。
 ただ、同じ動作をしたエミリは再び彼をジッと見上げていた。

 ※※※

「ふぅん? ならあの子はやっぱり『勇者』の可能性が高いと?」

 机とベッド、そして窓しかない部屋の中で、机の前に座っていたレイカは聞き返した。
 朝ごはんを作り終えた報告がてら、前日のエミリとの会話内容報告、そして──

「あと、ドレスもかわいかったです!」

 体をくねくねと揺らしながら熱くなる頬に手を当てて目を閉じその瞼の向こう側に思い出し描いたエミリの純白のドレスの姿。それにるんちゃんは軽くよだれを垂らす。

「それは聞いてないから後でな。──にしても、よりによって『勇者』か……」

 難しい顔をしたレイカの顔に気づいて動きを止めたるんちゃんは、目を背けて一言。

「上に、報告しますか?」

 尋ねた後に上目遣いでレイカを見やると、レイカは目を閉じ、ゆるゆると首を横に振った。
 そこにはどこか自嘲ぎみた笑みが浮かべられている。

「……いいや、しないでおこう」

「理由を聞いても?」

「理由? 上に報告して、引き渡しでもしたらあの子がどうなるのか、目に見えているじゃないか。どうせ、ヤク漬けにされて『ホロゥの素』にされてしまうだろう?」

 人形のような笑顔を浮かべて何も話さない、動かないるんちゃんの様子に片眉を上げて、レイカは椅子の背もたれにもたれかかり、少し顎を上げる。

「なんだ? それじゃあ不満か?」

「……いいえ。先輩は優しいですね」

「るんちゃんの方が優しいさ。……ワタシはただ単に夢見が悪くなる事はしたくない。それだけだ。もっと賢くなれれば良いんだが……どうにも考え過ぎると頭が働かなくなる……」

 首を揉んでため息をついたレイカは立ち上がって、後ろの書類の束を見下ろす。
 その一番上に書かれた命題は『七つの大罪の情報についての報告』。ほぼ白紙だ。

 とにかく、レイカは部屋を出て歩いた。その後を追ってるんちゃんも外に出た。
 隣に並んだるんちゃんはレイカに笑いかける。

「ふふっ、先輩のそういう所、好きですよ」

「ありがとう。……さて、朝ごはんができたんだろう? 食べるとするか」

「まほまほくんは……」

「彼も誘って来てくれ。今日の方針を説明したい」

 笑顔を浮かべたるんちゃんは頷いて元気よく敬礼する。

「了解ですっ! 今すぐ呼んできますね!」

 歩いた方とは逆に走って行ったるんちゃんに「廊下は走るなー」と声をかけ、キッチンへと向かう。肩を回すと、小気味のいい音が鳴った。

「……今日くらいは、先に行ってくれるとありがたいんだけどなあ」

 気疲れからくるため息を吐いて、レイカは首を揉む。
 この遊撃隊の隊長に任命された辺りから、この動作をしている気がしてならない。

「もっと仲良くなれれば楽しいんだろうけどな」

 そう零すと、レイカは二階から一階へ下りて行った。
 そして、キッチンの隣の、小さな食堂の中を見たレイカは目を白黒させる。

「おはようございます、隊長」

「レイカだ。おはよー」

 二人はテーブルに座り、にらめっこをしていた。





[あとがき]
 次回は11月22日更新です。
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