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第一章:僕らに慣れるまで

第一章:第一話【一口だけでいいから】

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 あれから数十分経ち俺はソファから位置を移してダイニングテーブルの椅子へ腰掛けていた。幼馴染の菜美なみはというと全く変わらずソファに姿勢よく座っており腰が痛くならないのかと心配になる。
 ただ一切動きを見せないので大丈夫なのだろうと断定し、暇を潰すために淹れたコーヒーを小さく音を立てながら啜る。
 そんなこんなで暇を持て余していたところに智美紀ちみきがやって来た。智美紀はバンッと大きい音を立てて廊下とリビングを隔てるドアを開ける。
 その音に驚いたのか、菜美はビクッと肩を跳ねさせる。その一連の動きを見ていた俺は智美紀に対して呆れたように文句を呈する。


「そんな大きい音を出すなって......驚いただろ」
「ハハハ、ごめんね......ってまた勝手に私のコーヒー豆を挽いたでしょ!」
「別にいいじゃん少しくらい」
「少しでも塵が積もればなんとやらでなくなるでしょ!」


 誰が驚いたのか、それに関して口にはしない。まあこの程度のこと智美紀なら分かるだろうが。
 しかし、久しぶりにコーヒーを淹れたというのに怒られてはせっかくのコーヒーが不味くなってしまうのであまり口を挟まないで欲しいのだが......まあ勝手に使った俺が悪いので強くは出れない。
 智美紀は俺が俺たちの横を通って台所に立つ。するとテキパキと冷蔵庫や引き出しやらから材料や調理器具を取り出し何かを作り始める。特に気にすることではないのだが、もしかすると菜美に食べさせるものかもしれないと思ったら聞かずにはいられなかった。


「母さん、何作ってるんだ?」
「ん~? 鍋......かしら?」
「鍋? 秋の季節って言ってもまだ暑いだろ? それなのになんで」
「せっかくあの子が出てきてくれたんだよ、同居人で囲んでご飯食べたいじゃん」
「まあ、俺は別にいいんでけど......その鍋って何を入れるんだ?」
「まず椎茸でしょ? それから豚肉に、ほうれん草、糸蒟蒻、豆腐、後はにんじんと肉団子かしら」


 なぜ鍋に入れる食材を聞いたのか、それは菜美が食べても大丈夫なのかどうかを確認するためである。
 同居する際、菜美の両親はアレルギーに関して「知らない」という事だった。そして当の本人に関しては色々と聞く前に部屋に引き篭もってしまったので何が食べれて何を食べれないのか全く知らない。
 なのでこれまでは部屋の前に食事を置いて食べてもらい、残したものが食べられないのだと判断していたのだが、せっかく部屋から出てきたのだ、これを聞く機会でもある。
 しかし、聞く時はなるべく丁寧に、崩れかかっている菜美の心をさらに壊さないようにしなければならない。


「......なあ菜美、なんか食べられないものとかってあるか?」
「...............」
「そうか、ならよかった」


 小さいピンク色の唇は微動だにせず、ただ頭を上下に振るだけだった。だけど、今のこの状況でも十分な返事なので菜美に感謝を述べ、俺は再びコーヒーが淹れてあるマグカップの取っ手を指で持ち上げ、口に近づける。
 マグカップの端が唇に着いたことを感触で確認すると、口を少しだけ開け、そこにほんのり暖かいコーヒーを流し込む。
 口の中で踊るように流れるコーヒーはほんのり苦く、俺の舌とマッチしていた。

 それから暫くして窓から指す西日も消え、新月から三日ほどの月から放たれている月明かりが辺りを照らす頃。そして周りの家々が明かりを灯している頃。
 俺の家でも同様にリビングや台所の明かりを灯し、三人でダイニングテーブルと鍋を囲うように椅子に座っていた。


「それでは手を合わせまして......頂きます!」
「頂きます」
「............」


 智美紀の合掌に続いて俺も合掌し、鍋から食材を掬って自分の皿の中にダイブさせる。長年家事をし続けている智美紀の料理は見た目からも美味しいというのが伝わってくる。
 そして鍋にはもう元から味付けがされているようで、そのまま食べてもすごく美味しかった。
 だが、ふと隣に視線を移すと、皿や鍋に手を付けず、俯いたままの菜美の姿があり、俺は咄嗟に声を掛けた。


「食べない、のか?」


 そんな俺の問いかけにううんと言うように首を横に振る菜美。じゃあなぜ食事に手を付けないのか、不思議そうに菜美の顔を見つめていると、ゆっくりと腕を動かしてさらに手を付けようとするのだが、直前で腕を引っ込ませてしまう。
 食事にもトラウマがあるのか、そんな憶測を立てていると、菜美の行動を見兼ねた智美紀が菜美に声を掛ける。


「食べないんだったら、それでもいいけど......」


 声を掛けたは良いもののどういう言葉を掛ければいいのか分からなくなったというところだろう。智美紀は言葉を詰まらせて困った顔をする。
 菜美は少しして、急に椅子を立ったと思うと走りだし、リビングから出て足音を立てながら二階へと昇って行った。智美紀は「あ......」と力ない声を零して無造作に開け放たれたドアを見つめていた。
 俺は小さく溜息を吐いてから少し叱責するように智美紀に言葉を掛ける。


「悪気はないのは分かるけど、今のアイツの心は不安定で壊れやすいんだぞ、もう少し考えてくれよ。それにアイツは罪悪感を溜めやすいんだろ、だから次からは気を付けろよ」
「ごめんね......」
「取り敢えず、説得してくるからさ、何か用意しといて」
「うん......」


 母親に対してこんな態度はダメだと自分では分かっているものの、つい当たりが強くなってしまうのは思春期のせいなのだろうか。そんなことを頭の片隅で考えながらリビングを出て菜美の部屋の前に立つ。
 正直智美紀にあんなことを言ったが、俺もどんな言葉を掛ければよいものなのか全く分からなかった。だけど、何か安心させてやらないといけないと思い、直感的に言葉を掛けることにした。


「......お前は悪くない。そして誰もお前が悪いだとか思っちゃいない。それどころか今日部屋から出てきてくれたことに母さんも俺も感謝してる」
「こんなこと言っても菜美は信じられないかもしれんが、俺と母さんはお前と飯を共にすることが嬉しかった。それで、母さんも張り切ってあの鍋を作ってくれたんだよ」
「母さんあんな事言ってたけど菜美を気遣ってくれてたんだ、だからさ、一緒に飯を食べよう。別に完食とかしなくていい、一口だけでもいいからさ」


 本当に言葉がめちゃくちゃだと思う。だけど、じっくり考えて作った言葉より、本当に菜美の事を思い、その場で考え、作った言葉の方が良いと思ったから。でもこんな言葉で出てきてくれだなんて思っていない。でも少しでも菜美の心に刺さってくれれば、それだけでいい。
 少しして目の前の、長い月日閉ざされていた扉が開いて、そこから菜美の姿が現れた。
 そして、思ってもいなかったことを————。


「たべる......」
「...............そうか、じゃあ一緒に下に行くか」


 小さくて、今にも消え入りそうな声だったが、それでも久しぶりに聞く幼馴染の声は随分と前に聞いた声と変わっていなくて、守ってやりたくなった。
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