勇者だった俺は死に戻りして知った――魔王を殺せば世界が滅ぶので、今度は勇者を止めることにした

ポポリーナ

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帰路に潜む影

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 魔王城を発つ朝、空は鉛色だった。

 瘴気が重く垂れ込め、結界の青い光が普段より薄く見える。ヴェルディアの体力が削られている証拠だ。レイドは城門で足を止め、振り返った。

 ヴェルディアは見送りに来なかった。玉座から動く体力すら惜しいのだろう。代わりにナージャが城門の影に立っていた。小柄な体に不釣り合いな威圧感。紅い瞳がレイドを見ている。

「行くのか」

「ああ。やるべきことがある」

「……主を頼む」

 その一言を発する時、ナージャの唇が僅かに震えた。昨夜同盟に反対を表明した従者が、今朝は——頼んでいる。

 レイドは頷いた。余計な言葉は要らなかった。

 リーシャ、ガレス、ミラが後に続く。ジークの一行は一足先に出発し、南東の尾根から人間の領域に戻っている。アルヴィンの部隊も昨夜のうちに撤退を開始した。セレナの調査が続く三日間——その猶予が、今は全員の足枷であり命綱でもあった。


  ◇


 隠し通路を抜け、東回廊に出た時、空気が変わった。

 瘴気の重さが嘘のように消え、木々の緑と土の匂いが戻ってくる。だがレイドの体は、まだ魔王領の感覚を引きずっていた。胸の奥でヴェルディアの紋様が微かに脈動している。

「レイド」リーシャが隣に並んだ。「守り手の力について、ヴェルディアから聞いた情報を整理させてください」

「ああ」

「守り手は柱を補助する存在。柱の力を増幅し、安定させる。——もし私がその力を覚醒できれば、ヴェルディアの負担を減らせる。つまり世界の延命が可能になる」

「覚醒の方法は」

「まだ不明です。ただヴェルディアが言っていた『同じ根源の魔力に触れること』がヒントになるかもしれません。瘴気の中で私の魔力が共鳴したのは、覚醒の第一段階だった可能性が高い」

 リーシャの碧眼が光っている。未知の領域に踏み込む学者の興奮と、仲間を救いたいという意志が重なった目。街道を歩きながら、彼女は既に頭の中で理論を組み立て始めている。時折足を止めて地面に手を当て、地脈の流れを確認する仕草を見せた。

「ここの地脈は安定しています。魔王領を出ると、急激に正常に近づきますね。つまり——ヴェルディアの力が及ぶ範囲では、まだ制御が機能している」

「その制御が完全に切れたら、今の安定も消えるということか」

「はい。一周目で見た崩壊は、まさにそれです」

「リーシャ。——ありがとう」

「何がですか」

「全部だ」

 リーシャが僅かに目を伏せた。耳の先が微かに赤い。だがすぐに顔を上げ、いつもの冷静さに戻った。

「お礼はまだ早いです。成果を出してから言ってください」

 ガレスが後ろから声をかけた。

「なあリーダー。魔族の城であんなもん見せられちゃ、俺も黙ってられねえ。これからどうする?」

「まず拠点に戻る。セレナの調査結果が出るまでの三日間で、次の手を打つ」

「次の手って?」

「王都で何かが起きている。魔力模型で見た赤い点——あれを調べる必要がある」

 ミラが耳を澄ませながら歩いていた。周囲の気配を常に探っている。

「ねえリーダー。一つ気になることがあるんだけど」

「何だ」

「あたしたちが魔王領から出てくるところ、見られてるよ」

 全員の足が止まった。

「誰に」

「街道の向こう。——聖教会の従者だと思う。二人いる。あたしたちが通路を出るところを、ずっと見張ってた」

 レイドの背筋に冷たいものが走った。聖教会。マルティウスの手の者。

「追ってくるか」

「ううん。逆に離れてる。——報告に行くつもりだね」

 ミラの猫目が鋭くなった。

「鴉を飛ばすと思う。王都に向けて」

 レイドの頭が高速で回転する。聖教会の従者がここにいるということは、マルティウスが東回廊を監視していたということだ。アルヴィンの部隊に同行していた者が、独自に動いている可能性もある。

「追えるか」

「追えるけど、殺す?」

「殺さない。——だが報告書の内容は知りたい」

 ミラが唇の端を上げた。

「了解。ちょっと行ってくる」

 ミラが音もなく街道の脇の茂みに消えた。猫のような身のこなし。数分後、ミラが戻ってきた。手に小さな紙片を持っている。

「鴉に括りつけてあった報告書。写しを作ったよ。原本はそのまま飛ばした——止めたら怪しまれるからね」

 レイドが紙片を開いた。リーシャが横から覗き込む。

 ——「勇者レイド・アシュフォード、魔王領より帰還。異端の疑い、確定」

 短い文面だった。だがその一行に込められた意味は、鉛のように重い。

「異端の疑い、確定……」リーシャが呟いた。「マルティウスがこれを受け取れば——」

「聖教会による排除が始まる」

 レイドは紙片を握りつぶした。指が白くなるまで力を込める。

 マルティウス。あの老人は最初からレイドを警戒していた。認定式で額に爪を立てた時から。「神託に名のない勇者」——異端の兆し。

 今、その疑いが確定した。

「急ぐぞ。拠点に戻る」

 四人は足を速めた。東回廊の街道を西へ。背後に魔王領の瘴気が霞み、前方に人間の領域の緑が広がっている。

 街道沿いの宿場町に着いたのは夕刻だった。人々が日常を送っている。市場で野菜を売り、子供が走り回り、鍛冶屋の槌の音が響いている。世界が終わりかけていることを、誰も知らない。

 宿屋の部屋に荷物を下ろした時、鴉が窓枠に止まった。脚に小さな筒が括りつけてある。

 カイルからの伝書だった。

「レイドへ。北嶺ルートで魔物の大暴走が発生。Cパーティーは壊滅寸前。前回の恩に着る。だが正直、もう限界だ。——助けを求む」

 レイドの手が震えた。一周目と同じだ。ヴェルディアの衰弱が進むにつれ、魔物の制御が崩壊し、各地で被害が拡大していく。

「カイルを助けに行かなきゃ」ガレスが即座に言った。

「だが王都の異変も——」リーシャが眉を寄せた。

「同時にはできない」ミラが肩をすくめた。「体は一つだし」

 レイドは窓の外を見た。夕陽がエルステッドの城壁を橙色に染めている。穏やかな夕暮れ。だがその向こうで、世界が壊れ始めている。

 魔王を助けること。カイルを救うこと。マルティウスの暗躍に対処すること。——全てを同時にやらなければならない。

 一人の人間に背負える量を、とうに超えている。

 だが——仲間がいる。

「リーシャ。王都の異変はお前に任せたい。学院の文献と、守り手の力の覚醒の研究を進めてくれ」

「分かりました」

「ガレスとミラは俺と一緒にカイルの救援に向かう」

「了解だぜ!」

「あたしも了解」

「そしてジークには——フェリクスの情報網で聖教会の動きを探らせる。あの男なら、マルティウスの手の者を追える」

 レイドは拳を握った。やるべきことが、整理されていく。一人では無理でも、仲間がいれば——道は見える。

 窓の外で、聖教会の鴉が西の空へ飛んでいった。

 マルティウスの元へ。「異端確定」の報告を携えて。

 戦いは、新たな局面を迎えようとしていた。

 レイドは窓辺に立ち、夕陽に染まる街並みを見つめた。この景色を、一周目では二度と見られなくなった。崩壊の中で全てが消えた。

 今度は——消させない。

 胸の奥で、ヴェルディアの紋様が静かに脈動した。遠い魔王城で、一人で世界を支え続けている存在の鼓動。

 レイドはその脈動に手を当て、目を閉じた。
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