勇者だった俺は死に戻りして知った――魔王を殺せば世界が滅ぶので、今度は勇者を止めることにした

ポポリーナ

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守り手の仮説

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 リーシャは王都を発ち、三日目の朝にエルステッドに到着した。

 商業都市の東門をくぐった時、街の喧騒が耳に飛び込んできた。荷馬車の軋む音。商人の掛け声。鍛冶屋の槌の音。活気があるように見えるが、リーシャの目には異変が映っていた。

 野菜の値段が上がっている。井戸の周りに列ができている。南から避難民が流れ込み、宿屋が満杯だという噂が聞こえる。

 ——世界の衰弱が、日常を蝕み始めている。人々はまだ気づいていない。だが数ヶ月以内に、この異変は誰の目にも明らかになるだろう。

 約束の宿屋——「銀の林檎亭」の看板が風に揺れている。リーシャは扉を押し開けた。食堂の暖かい空気と肉の焼ける匂いが顔を包んだ。

 レイドが一階の食堂で待っていた。ガレスとミラも一緒だ。

「リーシャ!」ガレスが手を振った。「よう、元気か!」

「ガレスさん。お元気そうで何よりです」

 リーシャはレイドの隣に座った。碧眼が真っ先にレイドの左手を見た。

「レイド。左手を見せてください」

「……気づいたか」

「気づかないわけがありません。袖の下から紋様の光が漏れています」

 レイドが袖をまくった。左手の甲に、ヴェルディアの紋様が淡く脈動している。以前より範囲が広がり、手首から前腕の半ばにまで達していた。

 リーシャが手を取り、指先で紋様をなぞった。微かな魔力の振動が、リーシャの指に伝わってくる。

「魔力の波形が乱れています。ヴェルディアの力が——あなたの体に浸透し始めている。北嶺で紋様の力を使ったと聞きましたが」

「ああ。剣に魔力を乗せた。赤鉄蜥蜴を斬った」

「それが原因です。紋様から力を引き出すたびに、ヴェルディアの魔力があなたの体に定着していく。人間の肉体は、柱の力に耐えるようにはできていません」

 リーシャの声が硬くなった。学者の冷静さの裏に、仲間への懸念が滲んでいる。

「使い続ければ、どうなる」

「最悪の場合——体が魔力に耐えきれず、崩壊します。腕が使えなくなるか、それとも——」

「分かった。極力使わないようにする」

「極力ではなく、使わないでください。絶対に」

 リーシャの碧眼が強い光を帯びた。レイドは頷いた。

 食堂の片隅に移動し、四人で頭を突き合わせた。リーシャが懐から書類の束を取り出す。

「守り手の覚醒について、二つの手がかりがあります」

 リーシャが羊皮紙を広げた。図面と数式が細かく書き込まれている。

「一つ目。三百年前の禁書に記された覚醒条件。覚醒には三つの段階があります。第一段階——魔力の共鳴。柱の力と同じ根源の魔力を持つ者が、柱の力に触れること。これは魔王領で私の魔力がヴェルディアの力と共鳴した時に達成されています」

「第二段階は」

「意志の接続。柱の存在との間に、意志的な繋がりを作ること。具体的に何を意味するかは不明ですが——おそらく、ヴェルディアと深い信頼関係を結ぶことだと推測します。魔王城での対面で、私はヴェルディアの孤独に共感しました。三千年を一人で世界を支え続けてきた存在に。——あれが接続の始まりだったのかもしれません」

 リーシャの碧眼が一瞬遠くなった。魔王城での記憶を辿っている。ヴェルディアの紅い瞳。蒼白な肌。三千年の孤独を背負った少女の姿をした存在。あの目に宿っていた、諦めと——微かな希望。

「三つ目は」

「柱の力の断片を体内に取り込むこと。これが最も重要で、最も困難な段階です」

 リーシャの指が、地図上の一点を指した。王都の中心。聖教会の大聖堂。

「二つ目の手がかり。別の写本に記された記述です。『柱が砕かれた場所に残る残滓から力を吸収することが可能である』と。千年前、聖教会が四つの柱を破壊した。その場所に——五大聖堂が建てられたのではないか」

「五大聖堂が柱の跡地に——」ガレスが身を乗り出した。

「はい。建設記録にも不審な記述があります。『大聖堂の基礎は、既存の地下構造物の上に建設された』と。地下に何かがある。柱の残滓が眠っている可能性が高い」

 ミラが口を挟んだ。

「つまり——大聖堂の地下に潜って、柱の残滓をリーシャが吸収すれば、守り手が覚醒するってこと?」

「理論上は。ただし——」

「ただし?」

「聖教会がそれを許すとは思えません。大聖堂の地下は最高機密です。禁書庫の調査中にも、教会関連の棚は立ち入り禁止になっていましたし、覚醒条件に関する核心の頁が破り取られていたことからも、聖教会は守り手の存在を把握し、意図的に封じていると考えられます。そして今、マルティウスがレイドの異端審問を準備している。王都の大聖堂は最も警備が厳しい場所になっているはずです」

 四人の間に沈黙が落ちた。

 レイドが口を開いた。

「方法はある。——正面からは無理だが、地下水道を使えば大聖堂の地下に近づける可能性がある」

「地下水道?」

「王都の建設時に作られた排水路だ。学院と大聖堂は地下水道で繋がっている可能性があると、リーシャの書類に書いてあったな」

 リーシャが頷いた。

「はい。古い地図を確認しました。王立学院の地下二層から分岐する水路が、大聖堂の方向に延びています。ただし、途中で封鎖されている可能性も——」

「行ってみなければ分からない」

 レイドは窓の外を見た。エルステッドの街並みの向こうに、王都の方角がある。一周目の記憶では、大聖堂の地下には古代の魔法陣があった。だがそれ以上の記憶はない。一周目のレイドは、大聖堂の地下に立ち入ったことがないのだ。

 未知の領域に踏み込む。それは二周目で初めての体験だった。

 レイドが立ち上がった。

「明日、王都に向かう。リーシャと二人で大聖堂の地下に潜る。ガレスとミラは別行動だ」

「別行動?」ガレスが眉を上げた。

「ガレスには冒険者ギルドを回ってもらう。各地の魔物暴走の最新情報を集めてくれ。そしてミラ——」

「聖教会の監視を撒く係でしょ。分かってるよ」

 ミラが唇の端を上げた。

「浄罪の目の連中があたしたちを探してるはず。あたしが王都の外で目立つ動きをして引きつけてる間に、リーダーとリーシャが南の水門から王都に入る。知り合いに鍵を開けさせておくよ」

「頼む」

「任せて。——ああ、でもリーダー」

「何だ」

「リーシャと二人きりなんだから、ちゃんと守りなよ」

 レイドの表情が微かに変わった。リーシャの耳の先が赤くなった。ガレスが豪快に笑い、食堂の他の客が振り返った。

「こら、声が大きい」ミラが慌ててガレスの口を塞いだ。

 束の間の穏やかさ。食堂の喧騒。皿の触れ合う音。隣のテーブルの商人たちの笑い声。世界が壊れかけている中で、仲間と共にいる温もり。

 レイドはその温もりを胸に刻み込んだ。一周目では、こういう時間すら持てなかった。

 ——守る。この温もりを。この仲間を。この世界を。

 左手が脈動した。痛みが指先まで走る。だがレイドは、その痛みを笑顔の裏に隠した。

 明日、王都に潜入する。聖教会の懐に飛び込み、千年の秘密を暴く。

 失敗すれば、異端の烙印を押され、全てが終わる。

 だが——やるしかない。ヴェルディアの時間は、もう残り少ない。

 窓の外で、星が一つ流れた。誰かの願いが——空を横切って消えていった。
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