勇者だった俺は死に戻りして知った――魔王を殺せば世界が滅ぶので、今度は勇者を止めることにした

ポポリーナ

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猫の潜入

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 大聖堂の東翼。修繕工事の足場が、月明かりの下で骨組みのように浮かんでいた。

 ミラは足場の最上段まで登り、屋根裏の通気口に手をかけた。鉄格子は錆びており、力を入れると音もなく外れた。ジークの情報通りだ。

 通気口から屋根裏に潜り込んだ。埃が舞い、鼻をくすぐる。くしゃみを堪え、暗闇の中を這って進む。

 屋根裏は広い。大聖堂の天井の上に広がる空間。梁と支柱が林のように並び、鳩の巣と蜘蛛の巣が所々に散在している。ミラは梁の上を猫のように歩き、ジークの地図に記された隠し通路を探した。

 北側の壁に、古い扉があった。鍵はかかっていない。千年前の建設時に作られた保守通路。修繕の記録に一度だけ言及され、それ以降は忘れ去られた道。

 扉を開けると、狭い螺旋階段が下に続いていた。壁の石に手を触れながら降りていく。一階、地下一階、地下二階——。

 地下二階の通路に出た。ここからは聖教会の管轄区域だ。壁に聖火の燭台が並び、橙色の光が廊下を照らしている。

 足音が聞こえた。ミラは壁の窪みに体を押し込んだ。浄罪の目の兵士が二人、廊下を通り過ぎた。

「枢機卿の命令だ。禁術の準備を急げ」

「聖遺物の浄化はあと半日かかる。触媒の調整も必要だ」

「半日で足りるのか」

「足りなくても間に合わせる。枢機卿の御意志だ」

 二人が角を曲がって消えた。ミラは壁から離れ、二人が来た方向に向かった。

 廊下の突き当たりに、大きな扉があった。鉄製。鍵がかかっている。だが——鍵穴は古い型だ。ミラの髪から細い金属の棒を抜き、鍵穴に差し込む。三秒で開いた。

 扉の向こうは、儀式の間だった。

 広い空間。中央に石の台座があり、その上に銀色の器が置かれている。器の中に——透明な液体。聖水ではない。魔力を帯びた液体が、微かに発光している。

 台座の周囲に、六つの聖遺物が配置されていた。骨、歯、衣の断片、十字架の欠片。聖教会の秘宝。だがミラの目を引いたのは、台座の前に広げられた巻物だった。

 古代文字で書かれた術式。ミラには読めない。だが——巻物の端に、現代語の注釈が書き加えられていた。マルティウスの筆跡だろうか。

 『守り手の共鳴を逆転させ、残滓を引き剥がす。対象の生存は——保証されない』

 ミラの手が震えた。

 生存は保証されない。つまり——この禁術をリーシャに使えば、リーシャが死ぬ可能性がある。残滓を引き剥がすというのは、体に取り込んだ柱の力を無理やり引き抜くことだ。それは——リーシャの命を奪いかねない。

「——やらせない」

 ミラは周囲を見回した。術式を妨害する方法を探す。巻物を盗む? 聖遺物を壊す? だが——ここで騒ぎを起こせば、脱出が困難になる。

 判断を下した。巻物は盗らない。痕跡を残さない。だが——情報は持ち帰る。

 ミラは懐から小さな紙を取り出し、注釈を書き写した。術式の配置。聖遺物の種類。液体の色と量。全てを素早く記録する。

 もう一つ。ミラは六つの聖遺物の一つ——十字架の欠片に触れた。触れた瞬間、微かな振動が指先に伝わった。魔力を帯びている。この聖遺物が触媒の核心だ。

 ミラは十字架の欠片を——僅かにずらした。台座の定位置から、三指ほど。一見すれば分からないが、術式の精度に影響するはずだ。起動が遅れるか、あるいは不完全に終わる。

「これで少しは時間が稼げるはず」

 ミラは儀式の間を出て、鍵をかけ直した。来た道を戻り、螺旋階段を駆け上がる。屋根裏を這い、通気口から外に出た。

 足場を飛び降り、夜の路地に着地した。

 大聖堂の尖塔が頭上に聳えている。その中で、マルティウスが禁術を準備している。あと半日で完成するはずだったものが——ミラの小さな妨害で、少しだけ遅れる。

 ミラは紙を懐にしまい、夜の闇を走った。レイドに情報を届けるために。ジークの密使に繋ぐために。

 猫は任務を果たした。爪は見せず、足跡は残さず。

 だが心の中では——怒りが燃えていた。リーシャの命を奪おうとする術。仲間を傷つけようとする老人。

 ——許さない。

 ミラの猫目が、闇の中で光った。


  ◇


 翌朝。ジークの屋敷。

 フェリクスが地図を広げ、ミラの報告を書き加えていた。情報の断片が線で繋がれ、大聖堂の地下構造が浮かび上がっている。

「ミラの報告を精査した」フェリクスが眼鏡を直した。「禁術の触媒は六つの聖遺物。そのうち核心は十字架の欠片。ミラがずらしたことで、術式の起動には追加の調整が必要になる。半日の遅延——つまり、猶予は一日伸びた」

 ジークが椅子に座り、腕を組んでいた。黒い眼帯の下の瞳が、地図を読んでいる。

「一日。レイドが王都に戻るには——最短で二日。間に合うか」

「ギリギリです。レイドが北嶺から馬を飛ばせば——二日の夜には王都に着く。禁術の完成が一日遅れたとして、三日目の朝。その朝が——決戦の時です」

「アルヴィンは」

「王都で三日の猶予を取り付けています。三日目にマルティウスとの再会談。その場が——戦場になるでしょう」

 ジークが立ち上がった。窓の外に王都の朝景が広がっている。大聖堂の尖塔が朝日を受けて白く光り、聖教会の旗が風にはためいている。

「フェリクス。全ての駒に連絡を取れ。アルヴィンに会い、作戦を詰める。レイドには伝書で現状を送れ。ミラは引き続き聖教会の監視だ」

「了解しました。——ジーク様。一つ確認ですが」

「何だ」

「この作戦が成功すれば、聖教会は千年の権威を失います。そしてジーク様の国も——聖教会との関係を根本から見直すことになる。それでよろしいのですか」

 ジークの口角が上がった。

「世界が終わるよりはいい。——それに、腐った権威を守るのは俺の趣味じゃない」

 フェリクスが微笑んだ。主の言葉に、全幅の信頼を込めて。

「では——準備を始めます」

 王都の朝。穏やかな日常の裏で、二つの陣営が最後の準備を進めている。聖教会と、それに抗う者たち。三日後——全てが動く。

 ジークは窓辺に立ち、大聖堂を見つめ続けた。あの巨大な石の建物の中で、一人の老人が千年の嘘を守ろうとしている。そしてその嘘を暴こうとする者たちが、四方から王都に集まりつつある。

 歴史が動く瞬間を——ジークは肌で感じていた。国を治める者として。真実を求める者として。そして——レイドという、奇妙な友を持った者として。

「面白い時代に生まれたものだ」

 ジークは独り言を呟き、執務室に戻った。やるべきことは、山ほどある。
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