勇者だった俺は死に戻りして知った――魔王を殺せば世界が滅ぶので、今度は勇者を止めることにした

ポポリーナ

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最後の訓練

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 二日目の午後。

 泉の畔で、レイドは新しい回路パターンを手に刻んでいた。

 魔力を指先に集中し、羊皮紙の図形を再現する。東西軸の第三交差点——損傷箇所を迂回する新しい紋様。前回の設計より複雑だが、体が覚えている基本形がある。そこから分岐する——新しい道。

「違います」

 リーシャの声が飛んだ。レイドの手が止まった。

「第三交差点の分岐——左ではなく右が先です。前回とは逆です」

「逆——」

「迂回路は前回の鏡像になっています。イルヴァーンの力が浸食した経路を避けるために——反転させました。感覚としては——前回の回路を裏返す、あの時と同じです」

 前回——イルヴァーンの力を剥がすために、回路を時間方向に回転させた。あの時の感覚。裏返す。鏡像にする。

 レイドは目を閉じた。体に染みついた回路の形を——反転させる。右が左に。左が右に。

 手に魔力を集中した。形が——変わった。

「近い。あと少し——第二分岐の角度を五度広げてください」

「五度——」

 微調整。指先が震える。だが——形は取れた。

「合格です」

 リーシャの肩から——僅かに力が抜けた。ほんの一瞬。すぐに次の指示に移る。

「次はセレナさん」


  ◇


 セレナは副回路の新しいパターンに苦戦していた。

「ここの結節点——どうしても形が崩れます」

「回復魔法の流れを、そのまま回路に乗せてみてください。あなたの魔力は——流れるように広がる性質があります。それを利用して」

 セレナが手を翳した。緑の光が——柔らかく広がった。回路の紋様が——水が流れるように形を取る。

「あ——できた」

「その感覚を覚えてください。あなたの魔力は——硬い形よりも、流れる形に適しています」

 ミラは副回路のもう一つの新パターンを、意外にも早く習得した。

「斥候の魔力って——細い糸みたいなものでしょ。糸を紋様に沿って這わせるだけ。——刺繍みたいなもの」

「その通りです。ミラさんの魔力は——精密な線を引くのに適しています」

「刺繍は得意なの。母親が——エルフの刺繍を教えてくれた」

 ミラの声が——一瞬だけ、柔らかくなった。


  ◇


 三日目。

 全員の魔力がゆっくりと回復していた。泉の水が——回復を助けている。魔力の結晶体である泉の水に触れているだけで、体内の魔力が補充されていく。

 だがヴェルディアだけは——回復していない。世界を支え続けているため、泉から補充される魔力がそのまま均衡の維持に使われている。

「顔色が——」レイドが声をかけた。

「問題ない」

「嘘をつくな」

 ヴェルディアの唇が——僅かに持ち上がった。笑おうとしたのかもしれない。だが——力がない。

「嘘ではない。持つ。あと一日だ。——一日くらい」

「朝飯前か?」

「……朝飯前だ」

 レイドが隣に座った。泉に手を浸し、魔力を流した。ヴェルディアの呼吸が——少しだけ楽になった。

「レイド」

「何だ」

「お前は——何を失ったか。分かったか」

 レイドは黙った。礎石に魂の断片を差し出した代償。記憶の一部が失われた。

「一周目の——最初の朝の記憶が薄い。勇者として選ばれた朝。仲間たちと酒場で乾杯した夜。——輪郭は覚えている。だが——声の質感が消えた。匂いが消えた。温度が消えた」

「……辛いか」

「辛い——かどうか分からない。失ったものの大きさを——失った側からは測れない。だが——」

 レイドは泉の水面を見つめた。

「お前との記憶は——全部残っている。リーシャとの記憶も。ガレスも。ミラも。二周目の記憶は——一つも消えていない。だから——大丈夫だ」

 ヴェルディアが水面に視線を落とした。琥珀色の瞳に——泉の微かな光が映っている。

「私は——三千年の記憶の大半を忘れた。人間の体になった時に。だが——忘れていないものもある。エルナの声。仲間たちの笑い方。イルヴァーンの——裏切る前の、優しい目」

「覚えているのか」

「忘れたくても忘れられない。——それが、大事な記憶ということだろう」


  ◇


 三日目の夜。

 最後の同時訓練を行った。

 十人が泉の周囲に立つ。それぞれが手に魔力を集中し、担当回路の形に整える。レイドは新しい東西軸の修正パターン。セレナとミラは新しい副回路パターン。残りの七人は前回と同じ。

「三——」

 リーシャの声が響いた。

「二——」

 全員が息を止めた。

「一——」

 十の魔力が同時に放たれた。泉の水面が——一瞬、光った。

 リーシャが判定した。

「九割七分」

 全員が息を吐いた。

「前回の最高記録が九割五分だ」ジークが言った。「超えたか」

「超えました。——新しいパターンも含めて、全員の精度が上がっています」

 アルヴィンが聖剣を見下ろした。金色の光が——安定して灯っている。

「前回——イルヴァーンに裏切られた。今回は——」

「今回は十人だけです」リーシャが言った。「イルヴァーンの力は届かない。純粋に——私たちの力だけで。それで十分です」

「本当に十分か——」フェリクスが聞いた。「イルヴァーンは——人間の魔力では百年で劣化すると言った」

「百年で劣化するなら——百年後にまた修復すればいい」レイドが答えた。「それが——人間のやり方だ」

「百年後に——誰が修復するんだ」

「次の世代が。——俺たちが今日やったことを、記録に残す。やり方を伝える。百年後の人間が——同じことをできるように」

 フェリクスの眼鏡が光を反射した。計測器を見下ろし——頷いた。

「数字は嘘をつかない。——百年持つなら、百年分の価値がある」

 ヴァレリウスが拳を胸に当てた。

「百年後の管理者は——俺が育てる。四つ目の神殿の信者たちを。アウグストゥスの教団を。封印の管理者として。——百年の間に、次の世代を準備する」

「俺もだ」ジークが言った。「黒鷹の傭兵ギルドを——封印の護衛として残す。金は——どうにかなるだろう」

 フェリクスが笑った。

「金にならねえ仕事だ——とは言わないのか」

「言わねえよ。——世界がなきゃ、金も使えねえからな」

 焚き火の光が十人の顔を照らした。明日——四日目。最後の儀式。

 全員が——準備を終えた。

 レイドは泉の水面を見つめた。暗い水面。だが——明日の夜明けには、ここに新しい光が灯る。

「リーシャ」

「はい」

「明日——うまくいく」

「根拠は?」

「ない。——ただ、そう思う」

 リーシャが笑った。

「私には根拠があります。九割七分の精度。十人の魔力の質と量。回路設計の理論的完全性。——だから、うまくいきます」

「理論か」

「理論です。——でも」

「でも?」

「あなたの『そう思う』も——信じています」

 二人は泉の畔で、最後の夜を過ごした。明日——世界が完成する。
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