魔法至上主義の世界で『筋力』だけカンストした男が拳一つで全てを覆す

ポポリーナ

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思惑の議事室、筋肉のロビー

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 重厚な樫の扉が閉ざされると、議事室の空気が一段と冷えた。

 磨き上げられた長テーブルを囲む十二の椅子。高い天井からは魔法灯の青白い光が降り注ぎ、並ぶ貴族議員たちの顔に鋭い影を落としている。羊皮紙とインクの匂いが、かすかに鼻をつく。

 上座に立つヴァルター・グリムハルトは、手にした報告書を卓上に叩きつけた。

「認めん……断じて認めんぞ!」

 白髪が揺れる。その声は広い議事室の壁に跳ね返り、余韻を引いた。

「ノーマジックの入学など、三千年の学院史に対する冒涜である。魔力ゼロ——ゼロだぞ! そのような者に学び舎の門を開けば、グランドール魔法学院の権威は地に落ちる」

 議員たちの間に視線が交わされる。沈黙の中、一人の中年貴族が咳払いをした。丸い体型に似合わぬ鋭い目つきの男——商務卿ベルティーニ伯爵である。

「学院長のお気持ちはよく分かりますとも。しかし——あの試験結果は事実です」

「事実がどうした。筋力ごときが魔法を超えるなど、認めるわけにはいかん」

「認める認めないの問題ではございませんよ」

 向かい側から涼しげな声が割り込んだ。痩身の女性議員、レイチェル・ヴァルモンド侯爵夫人が扇をゆるく揺らしている。

「むしろ好都合ではありませんか。ノーマジックが魔法エリートの中でどうなるか——身分秩序の正当性を示すには、これ以上の見世物はございません」

 ヴァルターの眉間に深い皺が刻まれた。「見世物」という言葉に、唇の端が微かに歪む。

「侯爵夫人。学院は見世物小屋ではない」

「もちろんですわ。あくまで結果として、そうなるだろうと申し上げているだけです」

 ベルティーニ伯爵が身を乗り出した。

「万が一——万が一ですが、あの男が本当に使い物になるのであれば、利用価値は計り知れませんぞ。魔力至純派の方々にも良い示しになる」

 魔力至純派。その言葉に、数名の議員が表情を引き締めた。だが誰も、その名についてそれ以上は口にしなかった。

 ヴァルターは長テーブルの端から端まで、ゆっくりと視線を這わせた。賛成の顔、日和見の顔、嘲りを含んだ顔。この中に、純粋に教育のことを考えている者が何人いるか。

「——採決を」

 短く告げた彼の声は、先ほどの激昂が嘘のように平坦だった。

 挙手が上がる。賛成九、反対三。

 ヴァルターは承認書を引き寄せ、羽ペンを取った。万年筆の先がインク壺に沈む。署名する手が、一瞬だけ止まる。

 だが、彼は何も言わず、流麗な文字を書き記した。

 ペン先が羊皮紙を離れた音が、やけに大きく響いた。


  ◇


 廊下の奥から、規則正しい音が聞こえてくる。

 ずん、ずん、ずん。

 試験場のロビーは大理石の床と高いアーチ天井で構成された、荘厳な空間である。壁には歴代の優秀卒業生の肖像画が並び、魔法灯が穏やかな光を投げかけている。

 その中央で、一人の巨漢が腕立て伏せをしていた。

 上下するたびに床が微かに震え、肖像画の額縁がかたかたと鳴る。額から滴る汗が大理石に小さな水溜りを作り、それがじわじわと広がっていく。

「……ねえ見て、あれが噂のノーマジック」

 廊下の角から顔を覗かせた女子生徒が、友人の袖を引いた。

「魔力ゼロなのに入学試験受けてるって。嘘みたい」

「っていうか、何してるの? あの動き」

「さあ……体を上下させてる。何かの儀式?」

 ひそひそ声。くすくす笑い。好奇と嘲りが混ざった視線が、四方から突き刺さる。

 剛田鉄心は、そのどれにも気づいていなかった。いや、気づいてはいるのかもしれない。だが、彼の意識は今、全身の筋繊維の一本一本に集中している。

「——九百九十八、九百九十九、千っ!」

 最後の一回を押し上げ、鉄心は軽やかに立ち上がった。百九十五センチの巨体が跳ね起きる動作に、見物していた生徒の一人が小さな悲鳴を上げる。

「ふー、いい汗かいた!」

 腕を回し、首を鳴らす。大理石のロビーに、ごきごきという骨の音が響き渡った。

「ちょっと、床が濡れてるじゃない……」

「すまんすまん! 汗拭くもの持ってないんだよな」

 鉄心はにかっと笑って頭を掻いた。周囲の生徒たちは一歩後ずさる。笑顔に敵意はない——ないのだが、筋肉の量が威圧感を勝手に生み出してしまう。

 こつ、こつ、こつ。

 硬い靴音がロビーに近づいてきた。規則正しく、迷いのない足取り。

 現れたのは、深緑のローブを纏った女性だった。黒髪を後ろでひとつにまとめ、細いフレームの眼鏡の奥から冷静な瞳がこちらを見据えている。手には書類の束。その肩には、目に見えるほどの疲労が乗っかっていた。

 セレナ・ミスティカは、床に広がる汗の水溜りと、その中心に仁王立ちする巨漢を交互に見た。

 深い、深い溜息が漏れる。

「……あなたが、剛田鉄心ですね」

「おう! そうっす!」

「入学が許可されました。明日から正式にグランドール魔法学院の生徒となります」

「マジっすか!? やったー!」

 鉄心が両手を突き上げた瞬間、その腕の筋肉が隆起し、ローブの袖が悲鳴を上げた。ぴちぴちという布の軋みに、セレナの眉がぴくりと跳ねる。

「……そして、私があなたのクラス担任です。セレナ・ミスティカと申します」

「おう、よろしくっす、セレナ先生!」

 差し出された巨大な手を、セレナは一瞬見つめた。握手に応じると、その握力に指の骨が軋んだ。顔色を変えずに手を引き抜いたのは、さすがの精神力である。

「……はぁ。なぜ私が」

 呟きは独り言のはずだったが、ロビーの天井によく響いた。


  ◇


 学院の敷地は広大だった。

 石畳の回廊を歩きながら、セレナは淡々と説明を続ける。午後の陽射しが柱の間から差し込み、二人の影を長く伸ばしていた。風が渡り廊下を吹き抜け、中庭の花壇から甘い香りを運んでくる。

「起床は六時。朝の鍛錬は七時から。授業は八時半開始、終了は十六時。門限は二十一時です」

「なるほどなるほど。で、筋トレの時間は確保できますか?」

 セレナの足が止まった。振り返る。

「……今、何と?」

「筋トレっす。朝練前に一時間、放課後に二時間は欲しいんすけど」

「あなた、自分の立場を理解していますか。ノーマジックとして特例入学したのです。周囲の風当たりは相当なものになりますよ」

「風当たり? 外で筋トレするから風は気持ちいいっすけど」

 セレナの額に青筋が浮かんだ。こめかみを指で押さえ、数秒間、目を閉じる。

「……いいでしょう。好きにしてください。次の質問は?」

「食堂のご飯、大盛りにできますか? できれば三人前で」

「食堂の運営方針は私の管轄外です」

「じゃあ、誰に聞けばいいっすか?」

「……食堂長のマーガレットに直接交渉してください。あの人なら多少の融通は利くでしょう。ただし、丁寧にお願いすること。分かりましたか?」

「了解っす!」

 敬礼のような仕草をする鉄心に、セレナは三度目の溜息をついた。

 回廊を抜け、別棟へ向かう渡り廊下に差しかかる。本館の華やかな装飾と比べ、こちらは石壁が剥き出しで、魔法灯の数も少ない。

「この学院で、魔力を持たない者が学んだ記録は——公式には、一つもありません」

 セレナの声のトーンが変わった。歩きながら、前を向いたまま。

「公式には?」

 鉄心が首を傾げる。セレナは一瞬、口を噤んだ。

「……寮はこちらです」

 質問には答えなかった。

 案内された部屋は、寮棟の最上階——といえば聞こえはいいが、要するに屋根裏に近い小部屋だった。扉を開けると、かび臭い空気が鼻を突く。簡素なベッド、小さな机、衣装棚。それだけで部屋の大半が埋まっている。

「最下等の個室です。本来は物置として使われていた場所ですが」

「いいじゃないすか! 俺一人なら十分っす!」

 鉄心は部屋に踏み入り、天井に頭をぶつけそうになりながら窓を開けた。

 風が吹き込む。

 眼下には学院の全景が広がっていた。尖塔の連なり、中庭の噴水、遠くに見える王都の城壁。夕暮れの空が橙と紫に染まり、雲の輪郭を金色に縁取っている。

「おお……すげえ」

 素直な感嘆が漏れる。狭い部屋の唯一の贅沢は、この景色だった。

 ベッドに腰を下ろそうとして、鉄心はふと壁に目を留めた。

 石壁の隅、ベッドの頭上にあたる位置に、小さな文字が刻まれている。爪で引っ掻いたような粗い筆跡。

「力は魔法だけではない」

 誰が、いつ書いたものか。文字の溝には埃が積もり、相当な年月が経っていることを物語る。

「セレナ先生、これ——」

 振り返ると、セレナは既に扉の前に立っていた。表情はいつもの無感動な仮面に戻っている。

「明日からが本番です」

 そう言って、一拍の間を置いた。その目が、ほんの一瞬だけ鉄心の全身——鍛え上げられた筋肉の鎧を、値踏みするように見つめた。

「……覚悟しておいてください」

 扉が静かに閉じる。

 廊下を遠ざかる足音を聞きながら、鉄心は壁の落書きにもう一度目を向けた。

 力は魔法だけではない。

「——だよな」

 誰に言うでもなく呟いて、鉄心は窓辺に立った。夕陽が沈んでいく。明日から始まる未知の日々を前に、やるべきことは一つだった。

「よし。寝る前にスクワット千回だな」

 ずん、ずん、ずん。

 屋根裏部屋の床が、規則正しいリズムを刻み始める。階下の生徒が天井を見上げ、怪訝な顔をしたが——その振動の正体を知る者は、まだ誰もいなかった。
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