魔法至上主義の世界で『筋力』だけカンストした男が拳一つで全てを覆す

ポポリーナ

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拳と巨岩の邂逅

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 鉄と汗の匂いが、乾いた風に混じる。

 グランドール魔法学院の訓練場は、校舎の裏手に広がる石造りの巨大な円形闘技場だ。直径五十メートルはあろうか。周囲には観覧席が階段状に連なり、中央の平地には魔法で生成された的——光の円盤が等間隔に浮かんでいる。

 午後の日差しが容赦なく照りつける中、Dクラスの生徒たちが横一列に並んでいた。

「では、基礎魔弾の的当てを始めます」

 セレナが杖を一振りする。光の的が揺らぎ、ゆっくりと移動を始めた。

「魔力を指先に集中し、的の中心を狙ってください。制限時間は一人三十秒。では——一番から」

 生徒が次々と魔弾を放つ。青白い光が空気を裂き、的に命中するたびに甲高い音が訓練場に響く。命中率はまちまちだが、全員が当然のように魔法を操っている。

 その列の端で、鉄心は腕を組んで立ち尽くしていた。

「剛田くん。あなたは見学です」

 セレナの声に感情はない。だが、その目は「余計なことをするな」と雄弁に語っている。

「えー、見てるだけっすか?」

「魔法の実技授業で魔法が使えない生徒に何をさせろと? ……私に画期的な案があるとでも? ないですよ、残念ながら」

 鉄心は唸った。体を動かせないのは、彼にとって最大の苦痛に等しい。

 観覧席の端に腰を下ろし——三秒で立ち上がる。

「見てるだけは退屈だな」

 腕を回し、首を鳴らし、足を広げてストレッチを始める。前屈で指先が地面につくどころか、手のひらが完全に石畳に密着する柔軟性。筋肉の塊のくせに、その体は驚くほどしなやかだ。

 生徒たちがちらちらと視線を向ける。昨日の教室での騒ぎはもう学院中に知れ渡っている。ノーマジックの転入生——嘲笑の的。

 だが、午前中にカイルが見せたような好奇の目も、わずかに混じっていた。

「なんだあいつ、また体動かしてんのか」

「魔法使えないんだから、それしかやることないんだろ」

 囁き声が風に乗る。鉄心の耳には届いているはずだが、その顔には曇り一つない。


  ◇


 訓練場の入り口に、一つの影が現れた。

 銀髪が午後の光を受けて白金に輝く。碧い瞳は氷のように澄み、制服の上からでもわかる華奢な体躯は、まるで精巧な人形のようだ。

 空気が変わる。

 的当てをしていた生徒の手が止まり、観覧席のざわめきが一瞬で沈黙に変わった。

「リ、リリアーナ様!?」

「Aクラスの首席が、なんでDクラスの実技に?」

 リリアーナ・フォン・アルカディア。魔法学院の頂点に立つ天才。名門貴族の令嬢にして、歴代最年少で首席を獲得した少女。

 観覧席の壁に並ぶ歴代首席の肖像画——その最も新しい一枚に描かれた顔と、同じ面差し。

「特別視察ですわ」

 リリアーナは涼やかに言い放ち、訓練場を見回した。その視線が、ストレッチをしている鉄心の姿で止まる。

「……あなたが噂の『ノーマジック』ですの?」

 一歩、また一歩。リリアーナが鉄心に近づく。ヒールが石畳を叩く硬質な音が、静まり返った訓練場に響いていく。

「よくもまあ、この神聖な学び舎に足を踏み入れましたわね」

 氷の声。周囲の温度が二度ほど下がったかのような錯覚。生徒たちは息を呑み、セレナは眉間に深い皺を刻む。

 鉄心は前屈の姿勢からゆっくりと体を起こし、リリアーナを見下ろした。身長差は三十センチ近い。

「おう、よろしくな!」

 満面の笑み。差し出された右手は、リリアーナの顔より大きい。

「握手すると手が潰れそうですわね。結構です」

「そうか? 加減はするぞ。——しかし、いい筋肉してるな……」

 鉄心の目が、リリアーナの腕から肩にかけてをじっと見つめる。

「……いや、ちょっと細いか」

 訓練場が、凍りついた。

 セレナが額に手を当てる。生徒たちの顔が青ざめる。

 リリアーナの頬が、みるみる紅潮していく。唇が震え、碧い瞳に炎が宿る。

 ——細い。

 その一言が、彼女の最も深い場所を抉っていた。名門アルカディア家の令嬢として、華奢であることは美徳のはず。なのに、なぜこんなにも胸の奥が軋むのか。

「な……っ!」

 声が裂ける。

「野蛮人がっ! この私に向かって——!」


  ◇


 リリアーナの右手が天を指す。魔力が渦巻き、青白い光が訓練場の空気を震わせる。

 セレナが叫ぶ。

「リリアーナさん、やめなさい——!」

 遅い。

 訓練場の端に置かれていた訓練用の巨岩——重量推定一トン。それがリリアーナの魔法に捕まれ、宙に浮き上がる。

 だが、その挙動がおかしい。通常、首席レベルの魔法使いなら、一トン程度の物体操作で汗一つかかない。なのにリリアーナの額には薄く汗が滲み、魔力の光が不規則に明滅している。

 感情が、魔力制御を乱しているのだ。

 巨岩が鉄心に向かって射出される。

「危ないっ!」

「逃げろ——!」

 生徒たちの悲鳴が訓練場にこだまする。一トンの岩が人体に直撃すれば、ただでは済まない。

 鉄心は動かなかった。

 正確に言えば——動く必要がなかった。

 半歩。たった半歩だけ前に踏み込む。右足を軸に腰を回転させ、肩甲骨から腕へ、腕から拳へ——全身の力が一点に集束する。

 拳が、巨岩の中心を捉えた。

 音は、遅れてきた。

 最初に見えたのは、岩の表面を走る亀裂だった。蜘蛛の巣のように一瞬で全体に広がり——次の瞬間、巨岩は内側から弾け飛んだ。衝撃が空気を叩き、観覧席の最前列にいた生徒の髪が風圧でなびく。

 破片が放射状に飛び散り、細かな石の粒子が雪のように訓練場に降り注ぐ。午後の日差しを受けて、その一粒一粒がきらきらと光る。

 静寂。

 鉄心は拳を下ろした。石の粉をぱたぱたと払い——何も言わない。

 代わりに、観覧席を振り返る。最前列の生徒たちに破片が当たっていないか、一人ひとりを視線で確かめている。全員の無事を確認してから、リリアーナに向き直った。

「危ないぞ。周りに人がいるときは、気をつけないと」

 いつもの能天気な声ではなかった。前世で何百回と生徒に言い聞かせてきた、体育教師の声だ。

 リリアーナは目を見開いたまま、動けなくなっていた。

「嘘でしょ……」

 お嬢様口調が剥がれ落ち、素の声が漏れる。あり得ない。一トンの巨岩を、拳一つで。魔法も使わず。防御術式も展開せず。ただの——拳で。

 足が震える。それが恐怖なのか、別の何かなのか、リリアーナ自身にもわからなかった。

 観覧席の端で、セレナはノートを開いていた。

 ——あの踏み込み。半歩の体重移動、腰の回転から拳への力の伝達。無駄が一切ない。本人に自覚はないだろうが、あれは理論上最も効率的な打撃フォーム。

 ペンが走る。「身体力学——無意識の最適化? 要検証」。

 ノートを閉じ、セレナはペンを指の間でくるりと回した。その目が、訓練場に散らばる岩の破片と、平然と立つ鉄心を交互に見る。

「初日から問題を起こさないでください、二人とも」

「いや、飛んできたから壊しただけっすよ。受け止めるわけにもいかないし」

「……そうですか。一トンの岩を『壊しただけ』、と」

 セレナの声は平坦だが、ペンを持つ指先にわずかに力がこもる。

 ——これは、もしかすると。

 訓練場のざわめきが、少しずつ戻り始める。だが、その質が変わっていた。嘲笑は消えていないが、その中に畏怖が混じっている。好奇が芽吹いている。

「おい、今の見たか……」

「一トンの岩を、拳で……」

「魔法じゃないよな、あれ。じゃあ何だよ」

 誰も答えられない。この世界の常識には、「筋力で巨岩を砕く」という項目が存在しないのだから。


  ◇


 実技授業の再開が告げられ、生徒たちが的当てに戻っていく。だが集中できている者は少ない。視線が何度も鉄心の方へ泳ぐ。

 鉄心はといえば、何事もなかったかのように再びストレッチを始めている。開脚して上体を倒し、額が地面につく。筋肉の塊がこの柔軟性を持っているのは、それ自体が常識への挑戦だ。

 リリアーナは訓練場の出口に向かっていた。背筋を伸ばし、銀髪を揺らし、首席の威厳を取り繕って。

 その足が、一瞬だけ止まる。

 振り返らない。

「次は、本気で叩き潰しますわ」

 声は冷たく、硬い。

 だが——その右手が、微かに震えていた。握りしめた拳の中で、爪が掌に食い込んでいることに、リリアーナ自身は気づいていない。

 鉄心がストレッチの姿勢のまま顔を上げ、去っていく銀髪の背中を見送る。

「おう、いつでも来いよ! 今度は怪我しないようにな!」

 能天気な声が訓練場に響く。

 リリアーナの歩みが、ほんの一瞬だけ乱れた。

 そしてセレナは、ノートにもう一行書き加える。

「感情波動と魔力出力の相関——リリアーナ・フォン・アルカディア、要観察」

 ペンを置き、訓練場を見渡す。

 石の粉がまだ舞っている。午後の光の中で、きらきらと。

 ——魔法のない拳が、首席の魔法を超えた。

 その事実が、この訓練場にいた全員の胸に、小さな棘として刺さっている。抜こうとしても抜けない、無視しようとしても疼く、そんな棘として。
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