魔法至上主義の世界で『筋力』だけカンストした男が拳一つで全てを覆す

ポポリーナ

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揺れる紋章、砕ける鎖

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 朝の回廊に、冷たい石の匂いが漂っていた。

 季節外れの霜が窓枠を白く縁取り、吐く息がかすかに色づく。カイル・ヴァン・レーゲンが鉄心の訓練場に駆け込んできたのは、朝練の素振りが三百回を超えた頃だった。

「鉄心——ちょっと来い。今すぐだ」

 いつもの軽口がない。カイルの顔は蒼白で、握りしめた羊皮紙がくしゃくしゃに歪んでいた。

「おう、どうしたカイル。顔色悪いぞ。腹壊したか?」

「腹じゃねえ! ……いや、腹は煮えくり返ってるがな」

 カイルは羊皮紙を突き出した。貴族議会の公式印が押された布告文。鉄心は文字を追ったが、途中で首を傾げた。

「えーと……つまり、何て書いてあるんだ?」

「筋力崇拝禁止令だ。魔力至純派が貴族議会に提出した。筋力を用いた戦闘行為の称揚、推奨、教育——全て違法にするってよ」

 カイルの声が押し殺したように低かった。拳の関節が白い。

「俺は男爵家の三男だ。貴族がどれだけ陰湿か、嫌ってほど見てきた。裏で手を回すのも、気に入らない奴を追い落とすのも。だが——」

 言葉が途切れた。カイルは唇を噛み、視線を逸らした。

「ここまで露骨にやるのは初めてだ。お前を名指しはしてない。だが読めば誰だって分かる。この法が通れば、お前が拳を振るうだけで投獄される」

 鉄心は腕組みをした。太い腕の筋肉が、朝日を受けて影を落とす。

「ふーん。法律で筋肉を禁止するってのは、なんかすげえな」

「感心してる場合か!」

「いや、だってさ」

 鉄心は自分の拳を見下ろした。節くれ立った、分厚い掌。

「法律で禁止されたくらいで、筋肉はなくならねえだろ」

 カイルが絶句した。反論しようとして、口を開いて、閉じた。

「……お前、たまに核心突くよな。イラッとするくらいに」


  ◇


 アルカディア家の紋章は、銀の鷲が氷の王冠を戴くものだった。

 リリアーナは自室の机に座り、実家から届いた封書を開いていた。蝋封に押された鷲の刻印。父の筆跡。重厚な羊皮紙から、屋敷の書斎で焚かれる白檀の残り香がした。

 ——読み進めるごとに、指先の温度が下がっていく。

『魔力至純派より正式な申し入れがあった。剛田鉄心なる人物との一切の交流を断つこと。さもなくば、アルカディア家の議会における議席——』

 読んでいた目が止まった。指が紙の上で強張る。

 リリアーナは便箋を裏返した。目を閉じる。深く息を吸い、吐いた。

 ——もう一度、表に返す。

『お前の将来を案じてのことだ。首席の名誉を、あのような者のために——』

 あのような者。

 リリアーナの脳裏に、氷竜を真正面から受け止めた男の背中が浮かんだ。川を渡るとき肩に担ぎ上げた、あの無遠慮な温かさが。「お前の魔法、すっげえ綺麗だった」と、大会の後に何の衒いもなく言い放った声が。

 右手を見下ろした。筋トレで硬くなった掌。密かに誇らしいと思っていた、小さなタコ。

 あの人の真似をして鍛え始めたとき、自分は何を願った?

「もっと、強くなりたい——」

 呟きが唇からこぼれた。あの日、拳を見つめて誓った言葉と同じだった。だが今、その言葉の重さは比べものにならない。

 窓の外で、学院の鐘が鳴った。昨日セレナの部屋で聞いたのと同じ、どこか軋んだ音。

 リリアーナは便箋を持つ手に力を込めた。紙が悲鳴のような音を立てた。

 ——まだ、破れない。

 アルカディアの名は、十六年間の全てだった。魔法の才能も、首席の地位も、この名前と共にあった。家紋を見るたびに背筋が伸びた。父に認められたくて、母の期待に応えたくて、誰よりも努力してきた。

 それを、捨てる?

 机の引き出しから、小さな手鏡を取り出した。映る顔は蒼白だったが、瞳だけが燃えていた。

「……嘘でしょ」

 自分の目が、こんなに強い光を宿していることに、リリアーナ自身が驚いていた。


  ◇


 午後、鉄心が中庭で拳甲の手入れをしていると、長い影が差した。

 見上げると、エリオット・ヴァン・クレストが立っていた。蒼い髪が風に揺れ、その目は真っ直ぐに鉄心を見据えている。

「よう、エリオット。また手合わせか?」

「違う。話がある」

 エリオットは鉄心の隣に腰を下ろした。拳甲に磨き込まれた星鉄鋼が陽光を弾き、二人の顔を照らす。

「魔力至純派の禁止令、知っているな」

「おう。カイルが朝から怒ってたやつだろ」

「俺はお前の力を自分の目で見た」

 エリオットの声に、静かな確信が宿っていた。大会の決勝で、全力の蒼雷を正面から砕かれた男の言葉だった。

「あの拳は、まやかしじゃない。至純派の言い分は間違っている」

 鉄心はきょとんとした。それから、にかっと笑った。

「サンキューな、エリオット。お前いい奴だな」

「……褒めてるわけじゃない。正しいことを正しいと言ってるだけだ」

 エリオットが顔を背けた。耳が赤い。鉄心はそれに気づかず、拳甲を布で磨き続けた。

 足音がした。

 二人が振り向くと、回廊の柱の影から一人の男が歩み出てきた。長身、鋭い目。準決勝で鉄心の拳に沈んだ貴族剣士——レオンハルト・ヴァン・レーゲンスブルクだった。

「盗み聞きをするつもりはなかった。だが、聞こえてしまったものは仕方がない」

 レオンハルトは腕を組み、鉄心を見下ろした。その視線には、かつての敵意はなかった。

「アルカディア家とは因縁がある。個人的に好きではない。だが——」

 一拍、間を置いた。

「正しいものは正しい。お前の力が偽物なら、俺はあの場で倒れてなどいない」

 鉄心は目を丸くした。それから拳甲を掲げて、レオンハルトに見せた。

「お前のあの剣、すげえ速かったぞ。あれ避けるの結構ギリギリだったんだ」

「……世辞はいい」

「世辞じゃねえって。本当にすげえと思ったんだ。なあ、今度手合わせしようぜ」

 レオンハルトの眉がぴくりと動いた。硬い表情が、ほんの一瞬だけ緩んだ。

「考えておく」

 それだけ言い残して、レオンハルトは去っていった。背筋の伸びた後ろ姿を、エリオットが複雑な目で見送る。

「あの男が味方につくとは、な」

「味方とか敵とか、あんま考えたことねえな。いい奴はいい奴だろ」

「……お前のそういうところが、厄介なんだ」

 エリオットの呟きは、風に攫われて消えた。


  ◇


 日が傾き、廊下に橙色の光が差し込む頃。

 リリアーナは父の手紙を手に、寮の廊下を歩いていた。

 足が重い。一歩ごとに、アルカディアの紋章が視界の端でちらつく。便箋に残る白檀の香り。父の声が耳に蘇る——『お前の将来を案じてのことだ』。

 角を曲がると、鉄心の部屋の前に差しかかった。

 扉の隙間から、鼻歌が漏れていた。調子外れで、無邪気な鼻歌。おそらく筋トレをしながら歌っているのだろう。あの男はいつもそうだ。世界が敵に回っても、拳を握って笑っている。

 リリアーナは立ち止まった。

 手の中の便箋を見下ろす。アルカディア家の紋章——銀の鷲。

 脳裏に、枯死域で見た光景が蘇った。魔法が使えない荒野で、それでも立ち上がり続けた自分の足。筋トレで掴んだ、魔法の出力が1.5倍に跳ね上がる瞬間の快感。セレナが目を見開いた、あの顔。

 そして——大会の後、鉄心が自分を見て言った言葉。

 『お前の魔法、すっげえ綺麗だった』

 胸の奥が、きゅっと締まった。だが、今はそれどころではない。

 リリアーナは便箋を両手で掴んだ。紙の繊維が軋む音が、静かな廊下に響いた。

 ——びりっ。

 銀の鷲が、真ん中から裂けた。

 もう一度。紙片が宙に舞う。白檀の香りが散った。

 手が震えていた。だが目は、鏡の中で見たあの光を宿していた。

 拳を握る。硬いタコが、掌に食い込んだ。痛みが、覚悟の輪郭を鮮明にする。

 リリアーナは扉の前に立った。

 三度、ノックする。その音は、小さいのに、どこまでも響くように聞こえた。

 扉が開いた。鉄心が、タオルを首にかけた姿で顔を出す。

「おう、リリアーナ。どうした?」

「——私、あなたと一緒に真実を暴きたいですの」

 声は低く、だが揺るぎなかった。目は逸らさなかった。

 足元に、破られた紋章の欠片が散っている。鉄心の視線がそこに落ち、再びリリアーナの顔に戻った。

「たとえ——家を捨てることになっても」

 廊下の窓から差し込む夕陽が、リリアーナの銀髪を燃えるような橙に染めていた。

 鉄心は何も言わなかった。ただ、一歩横に退いて、扉を大きく開けた。

 その沈黙が、どんな言葉よりも雄弁だった。
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