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悪役令嬢のスペックシート
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前世の癖だ。午前五時に起きて始発で出社する生活を三年も続けると、身体が勝手に叩き起こしてくる。もっとも今の身体はセラフィーナ・ヴァルトシュタインのものであって、ブラック企業の社畜のものではないのだけれど。
薔薇の香りはもう鼻が慣れた。絹のシーツも、天蓋付きのベッドも。人間の適応力は恐ろしい。
暖炉には昨夜の火がまだ微かに残っていて、炎の揺らめきが壁に淡い影を落としている。その温もりを背に受けながら、私は書斎の机に向かった。
昨日の分析は「攻略対象全員回避」という大方針を立てたところで終わっている。今日はもっと具体的な戦略を詰める。
経営計画と同じだ。方針だけでは動けない。数字を出す。
まず、敵を知ること。
羽根ペンのインクが羊皮紙に染みていく。ゲームの全ルート分岐条件を時系列で書き出す。
処刑エンドに至る最短ルートは、王太子レオンハルトルート。婚約者の立場を利用してヒロインを排除しようとし、王太子自身に断罪される——最も皮肉なパターン。分岐点は「舞踏会でヒロインの飲み物に細工する」イベント。
騎士団長ルキウスルートでは、ヒロインの護衛任務を妨害。宮廷魔術師エミルルートでは、ヒロインの魔力暴走を画策。残り二つのルートも同様に、セラフィーナがヒロインに対して能動的に敵対行動を取ることがトリガーになっている。
ここまで書き出して、確信した。
全ルートの処刑フラグは、「セラフィーナの悪意ある行動」によって起動する。受動的に巻き込まれるケースは——少なくとも動画で見た限り——ない。
つまり。何もしなければ何も起きない。
引きこもり最強説。出社しなければ残業は発生しない。
——ただし、変数がある。
ゲームのヒロイン、リリアーヌ・ローゼンタール。聖女の力を持つとされる少女。彼女が王立学園に入学するのは来月だ。入学後、セラフィーナとの対立イベントが自動発生する——はずだった。しかしゲームの記憶は動画視聴レベル。イベントの発生条件が「セラフィーナの悪意」なのか「近接するだけで発動する強制イベント」なのか、正確にはわからない。
リスクは最小化する。そもそも学園にいなければ接触は起きない。卒業式前に退場する方法を考えるべきだ。
次に、己を知ること。
ペンを置き、セラフィーナの「スペックシート」を作ることにした。
◇
朝食後、私は図書室に向かった。
古い革装丁の書物が天井まで並ぶ部屋は、埃っぽい空気と黴びた羊皮紙の匂いが混ざっている。指先で帳簿の背表紙をなぞると、乾いた革の感触が伝わってきた。前世の会社の書庫は段ボール箱の山だったが、こちらは格段に雰囲気がいい。情報量は比べ物にならないほど少ないけれど。
ヴァルトシュタイン家の財務資料。公爵家だけあって分厚い。重い帳簿を引き出し、一冊ずつ机に積み上げる。
項目一、社会的地位。
ヴァルトシュタイン公爵家は王国有数の大貴族。父アルベルトは宰相の地位にあり、政治的影響力は絶大。セラフィーナは王太子の婚約者——この肩書は、使い方次第で武器にも枷にもなる。
項目二、資産。
ここが問題だった。帳簿を繰る手が止まる。
セラフィーナ個人の資産は限定的。嫁入り道具として準備された宝飾品と衣装が金貨二百枚相当。月々の小遣いが金貨十枚。公爵家の本体資産は全て父が掌握しており、娘の裁量は極めて小さい。
婚約破棄した瞬間、この小遣いすら止められる可能性が高い。
「……つまり、退職金は自分で確保する必要がありますわね」
独り言が令嬢口調なのは、もう気にしないことにした。
嫁入り道具を換金すれば金貨二百枚。前世の感覚で換算すれば——まあ、創業資金としては心許ないが、ゼロよりは遥かにマシだ。
項目三、スキル。
セラフィーナの身体に蓄積された教養は侮れない。語学(共通語と古典語の読み書き)、歴史、社交術、基礎的な魔法理論——全て公爵令嬢として叩き込まれたものだ。特に社交術。人前で堂々と振る舞い、場の空気を読み、言葉の裏を読む能力。前世の私には絶望的に欠けていた技能が、この身体には標準装備されている。
加えて、前世の私が持つ経理・経営・労務管理の知識。
特に簿記。複式簿記はこの世界にまだ存在しない。帳簿の記帳方式を見た限り、単式簿記——いや、それ以前のただの出納帳だ。借方と貸方の概念がない。これだけで差別化できる。
原価計算も同様。「製品一つあたりのコスト」という概念が確立されていないなら、適正価格の設定で競合を出し抜ける。
前世の知識は、この世界では——チートだ。
ゲーム的に言えば隠しスキル。いや、もっと即物的に言えば、「辞めた会社から持ち出した業務ノウハウ」。合法なやつ。だって死んでるし。
項目四、コネクション。
ここが最も貧弱。ゲームの悪役令嬢は嫌われ者だ。社交界でのセラフィーナの評判を探ってみたが、「高慢」「冷酷」「近寄りがたい」——前世の私に対する社内評価と大差ないのが悲しい。あちらは「暗い」「愛想がない」「残業の鬼」だったけれど。
味方はゼロ。これは前提として受け入れる。
◇
スペックシートの完成後、本題に入った。
図書室の奥から引っ張り出してきた領地資料。ヴァルトシュタイン家が保有する領地の一覧。埃を払うと、くしゃみが出た。
——あった。
ヘルムガルド。北東辺境。寒冷地帯。主要産業は細々とした農業と狩猟。人口はおよそ二千。備考欄には「不採算」の二文字。過去十年の収支は全て赤字。歴代の領主代官はいずれも短期間で任を辞している。
普通なら手を出さない物件だ。
——普通なら。
だが私には前世の経験がある。上司に「撤退すべきだ」と判断された案件を、データに基づいて黒字化提案を出し、実際にひっくり返した経験。あのブラック企業で唯一やりがいを感じた仕事だった。手柄は上司が全部持っていったけれど。
ヘルムガルドの赤字の原因は帳簿から推察できる。中間搾取と非効率な流通構造。辺境の産物は何層もの仲買人を経由して王都に届く。その過程で利益が削り取られ、現地には何も残らない。
不採算の本質は「土地に価値がない」のではなく「価値を引き出す仕組みがない」こと。前世のスタートアップ理論と同じだ。市場がないのではなく、市場への接続方法が間違っているだけ。
さらに。資料の片隅に小さく記されていた一文。「旧鉱山、採算悪化により操業停止」。
鉱山があった。鉄鉱石か宝石か、詳細は書かれていないが——地下資源は、正しく掘れば金の生る木になる。
指先が震えた。恐怖ではない。久しぶりに感じる、仕事への高揚。
蝋燭の光が揺れる夜。窓の外には月が昇り、冷えた夜気が隙間から忍び込んでくる。
机の上には、一日がかりで完成した「戦略的撤退計画書」が広がっていた。
フェーズ一。卒業式前に王太子レオンハルトとの婚約を破棄する。円満に。感情論ではなく、論理と数字で。
フェーズ二。辺境ヘルムガルドへの領地移管を父に申請。不採算領地の厄介払い——父にとってはそう見えるはず。
フェーズ三。辺境での領地経営。前世の知識をフル活用し、ヘルムガルドを黒字化する。自立した経済圏を築けば、処刑にも王都の政治にも巻き込まれない。
完璧な計画。
問題は——実行するのが、対人スキル最低のぼっちOLだということくらいか。いや、今はぼっち令嬢か。
ベッドに身体を沈める。粗い繊維の——いや、絹だった。相変わらず、公爵令嬢のベッドは前世の寮とは格が違う。
明日から動く。最初のミッションは、一週間後のレオンハルトとの面会。そこで婚約破棄の地ならしをする。
ゲームの中では「冷酷な暴君」と描かれていた王太子殿下。あの人の前で、冷静を保てるか。
……考えるな。彼はゲームのキャラクターだ。感情を持たないデータ。怖がる必要はない。
——本当に?
その問いを、私は毛布の下に押し込んだ。
計画書の最後の行。赤インクで書いた文字。
「辺境領地の請求」。
ブラック企業辞めるなら、退職金は満額いただきますわ。
薔薇の香りはもう鼻が慣れた。絹のシーツも、天蓋付きのベッドも。人間の適応力は恐ろしい。
暖炉には昨夜の火がまだ微かに残っていて、炎の揺らめきが壁に淡い影を落としている。その温もりを背に受けながら、私は書斎の机に向かった。
昨日の分析は「攻略対象全員回避」という大方針を立てたところで終わっている。今日はもっと具体的な戦略を詰める。
経営計画と同じだ。方針だけでは動けない。数字を出す。
まず、敵を知ること。
羽根ペンのインクが羊皮紙に染みていく。ゲームの全ルート分岐条件を時系列で書き出す。
処刑エンドに至る最短ルートは、王太子レオンハルトルート。婚約者の立場を利用してヒロインを排除しようとし、王太子自身に断罪される——最も皮肉なパターン。分岐点は「舞踏会でヒロインの飲み物に細工する」イベント。
騎士団長ルキウスルートでは、ヒロインの護衛任務を妨害。宮廷魔術師エミルルートでは、ヒロインの魔力暴走を画策。残り二つのルートも同様に、セラフィーナがヒロインに対して能動的に敵対行動を取ることがトリガーになっている。
ここまで書き出して、確信した。
全ルートの処刑フラグは、「セラフィーナの悪意ある行動」によって起動する。受動的に巻き込まれるケースは——少なくとも動画で見た限り——ない。
つまり。何もしなければ何も起きない。
引きこもり最強説。出社しなければ残業は発生しない。
——ただし、変数がある。
ゲームのヒロイン、リリアーヌ・ローゼンタール。聖女の力を持つとされる少女。彼女が王立学園に入学するのは来月だ。入学後、セラフィーナとの対立イベントが自動発生する——はずだった。しかしゲームの記憶は動画視聴レベル。イベントの発生条件が「セラフィーナの悪意」なのか「近接するだけで発動する強制イベント」なのか、正確にはわからない。
リスクは最小化する。そもそも学園にいなければ接触は起きない。卒業式前に退場する方法を考えるべきだ。
次に、己を知ること。
ペンを置き、セラフィーナの「スペックシート」を作ることにした。
◇
朝食後、私は図書室に向かった。
古い革装丁の書物が天井まで並ぶ部屋は、埃っぽい空気と黴びた羊皮紙の匂いが混ざっている。指先で帳簿の背表紙をなぞると、乾いた革の感触が伝わってきた。前世の会社の書庫は段ボール箱の山だったが、こちらは格段に雰囲気がいい。情報量は比べ物にならないほど少ないけれど。
ヴァルトシュタイン家の財務資料。公爵家だけあって分厚い。重い帳簿を引き出し、一冊ずつ机に積み上げる。
項目一、社会的地位。
ヴァルトシュタイン公爵家は王国有数の大貴族。父アルベルトは宰相の地位にあり、政治的影響力は絶大。セラフィーナは王太子の婚約者——この肩書は、使い方次第で武器にも枷にもなる。
項目二、資産。
ここが問題だった。帳簿を繰る手が止まる。
セラフィーナ個人の資産は限定的。嫁入り道具として準備された宝飾品と衣装が金貨二百枚相当。月々の小遣いが金貨十枚。公爵家の本体資産は全て父が掌握しており、娘の裁量は極めて小さい。
婚約破棄した瞬間、この小遣いすら止められる可能性が高い。
「……つまり、退職金は自分で確保する必要がありますわね」
独り言が令嬢口調なのは、もう気にしないことにした。
嫁入り道具を換金すれば金貨二百枚。前世の感覚で換算すれば——まあ、創業資金としては心許ないが、ゼロよりは遥かにマシだ。
項目三、スキル。
セラフィーナの身体に蓄積された教養は侮れない。語学(共通語と古典語の読み書き)、歴史、社交術、基礎的な魔法理論——全て公爵令嬢として叩き込まれたものだ。特に社交術。人前で堂々と振る舞い、場の空気を読み、言葉の裏を読む能力。前世の私には絶望的に欠けていた技能が、この身体には標準装備されている。
加えて、前世の私が持つ経理・経営・労務管理の知識。
特に簿記。複式簿記はこの世界にまだ存在しない。帳簿の記帳方式を見た限り、単式簿記——いや、それ以前のただの出納帳だ。借方と貸方の概念がない。これだけで差別化できる。
原価計算も同様。「製品一つあたりのコスト」という概念が確立されていないなら、適正価格の設定で競合を出し抜ける。
前世の知識は、この世界では——チートだ。
ゲーム的に言えば隠しスキル。いや、もっと即物的に言えば、「辞めた会社から持ち出した業務ノウハウ」。合法なやつ。だって死んでるし。
項目四、コネクション。
ここが最も貧弱。ゲームの悪役令嬢は嫌われ者だ。社交界でのセラフィーナの評判を探ってみたが、「高慢」「冷酷」「近寄りがたい」——前世の私に対する社内評価と大差ないのが悲しい。あちらは「暗い」「愛想がない」「残業の鬼」だったけれど。
味方はゼロ。これは前提として受け入れる。
◇
スペックシートの完成後、本題に入った。
図書室の奥から引っ張り出してきた領地資料。ヴァルトシュタイン家が保有する領地の一覧。埃を払うと、くしゃみが出た。
——あった。
ヘルムガルド。北東辺境。寒冷地帯。主要産業は細々とした農業と狩猟。人口はおよそ二千。備考欄には「不採算」の二文字。過去十年の収支は全て赤字。歴代の領主代官はいずれも短期間で任を辞している。
普通なら手を出さない物件だ。
——普通なら。
だが私には前世の経験がある。上司に「撤退すべきだ」と判断された案件を、データに基づいて黒字化提案を出し、実際にひっくり返した経験。あのブラック企業で唯一やりがいを感じた仕事だった。手柄は上司が全部持っていったけれど。
ヘルムガルドの赤字の原因は帳簿から推察できる。中間搾取と非効率な流通構造。辺境の産物は何層もの仲買人を経由して王都に届く。その過程で利益が削り取られ、現地には何も残らない。
不採算の本質は「土地に価値がない」のではなく「価値を引き出す仕組みがない」こと。前世のスタートアップ理論と同じだ。市場がないのではなく、市場への接続方法が間違っているだけ。
さらに。資料の片隅に小さく記されていた一文。「旧鉱山、採算悪化により操業停止」。
鉱山があった。鉄鉱石か宝石か、詳細は書かれていないが——地下資源は、正しく掘れば金の生る木になる。
指先が震えた。恐怖ではない。久しぶりに感じる、仕事への高揚。
蝋燭の光が揺れる夜。窓の外には月が昇り、冷えた夜気が隙間から忍び込んでくる。
机の上には、一日がかりで完成した「戦略的撤退計画書」が広がっていた。
フェーズ一。卒業式前に王太子レオンハルトとの婚約を破棄する。円満に。感情論ではなく、論理と数字で。
フェーズ二。辺境ヘルムガルドへの領地移管を父に申請。不採算領地の厄介払い——父にとってはそう見えるはず。
フェーズ三。辺境での領地経営。前世の知識をフル活用し、ヘルムガルドを黒字化する。自立した経済圏を築けば、処刑にも王都の政治にも巻き込まれない。
完璧な計画。
問題は——実行するのが、対人スキル最低のぼっちOLだということくらいか。いや、今はぼっち令嬢か。
ベッドに身体を沈める。粗い繊維の——いや、絹だった。相変わらず、公爵令嬢のベッドは前世の寮とは格が違う。
明日から動く。最初のミッションは、一週間後のレオンハルトとの面会。そこで婚約破棄の地ならしをする。
ゲームの中では「冷酷な暴君」と描かれていた王太子殿下。あの人の前で、冷静を保てるか。
……考えるな。彼はゲームのキャラクターだ。感情を持たないデータ。怖がる必要はない。
——本当に?
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