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王太子殿下、お話があります
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大理石の床を踏む靴音が、天井のアーチに反響して跳ね返ってくる。金箔の天井装飾が頭上で眩く光り、磨き抜かれた柱に自分の姿が薄く映る。セラフィーナ・ヴァルトシュタインの姿が。
前世の最終面接では、膝が震えていた。今も震えている。ただし理由は「不採用になったら困る」ではなく「この先にいる人は将来私を処刑する人」だ。どちらがマシかと聞かれたら、正直どっちも嫌だ。
「セラフィーナ様、お顔が強張っておいでです」
隣を歩く侍女が小声で囁いた。私は反射的に微笑みを作る。公爵令嬢の仮面。この身体は、笑顔の作り方を知っている。
「ありがとう。大丈夫ですわ」
大丈夫ではない。心拍数が前世の残業明け並みに跳ね上がっている。
応接間の扉が見えた。近衛兵が二人、扉の両脇に立っている。扉の向こうに、王太子レオンハルト・アウレリウスがいる。
——ゲームでは「冷酷な暴君」。セラフィーナを断罪し、処刑台に送る人物。
深呼吸。
面接だと思え。退職前の最後の面談だ。円満退社のための。
◇
扉が開いた瞬間、紅茶の芳醇な香りが鼻腔を満たした。
応接間は想像より狭く、陽の光が大きな窓から差し込んでいた。磨き上げられた銀器がテーブルの上で冷たい光沢を放ち、ティーセットが二人分。
そして——椅子に座っていたのは、「冷酷な暴君」ではなかった。
金髪碧眼。それは動画で見た通り。しかしゲームの立ち絵にあった傲慢な笑みはどこにもなく、代わりに——なんと言えばいいのか——生真面目すぎて逆に不器用な青年が、姿勢を正してこちらを見ていた。
「セラフィーナ。待っていた」
レオンハルトの声は低い。低いが、威圧的ではない。むしろ、何を言えばいいのかわからないような、ぎこちなさがあった。
「お待たせいたしましたわ、殿下」
カーテシーをしながら、観察する。癖だ。前世で取引先の顔色を読むのが仕事だった。
レオンハルトの隣には、もう一人。赤毛の青年が控えめに座っている。
「側近のフリッツだ。記録のために同席させている」
「まあ、フリッツ様。お久しぶりですわ」
フリッツが軽く頭を下げる。真面目そうな顔。ゲームでは攻略対象ではなかったはずだが、こちらも「生きた人間」の顔をしている。当たり前か。ここはゲームの中ではなく——ゲームだった世界そのものなのだから。
席につく。紅茶を一口。温かい。味は——前世のコンビニ紅茶とは比べ物にならない。当然だ、公爵令嬢の舌が覚えている味覚基準は、元OLの比ではない。
「最近の学園生活はどうだ」
レオンハルトが口を開いた。義務的な質問。だが目は真っ直ぐにこちらを見ている。
「つつがなく過ごしておりますわ。殿下はいかがですか?」
「政務が多い。父上の体調が優れず、余が代行する案件が増えた」
——情報。王の体調不良。ゲームではこの設定、あっただろうか。動画では出てこなかった気がする。
「それは大変ですわね。ご無理をなさいませんよう」
会話が噛み合っている。婚約者同士の、型通りの面会。フリッツが横で書記のように羽根ペンを動かしている。
さて。本題を切り出すタイミングを図る。
婚約破棄——と直接言うのはまだ早い。今日は布石だ。フリッツが同席している以上、プライベートな話題は公式記録に残る。いきなり破棄を口にすれば、ゲームのイベントとは違う形で騒動になりかねない。
代わりに、もう少し柔らかい角度から攻める。
「殿下、一つご相談があるのですが」
「何だ」
「卒業後の進路について、考えていることがございまして」
レオンハルトが微かに眉を動かした。婚約者が「進路」を語ること自体が、この世界では異例なのだろう。貴族令嬢の進路は「嫁ぐ」の一択。
「進路?」
「ええ。私は——領地経営に興味がありますの」
空気が変わった。フリッツのペンが一瞬止まる。レオンハルトは碧い目を少し見開いて、それから——何を考えているのか読めない表情で、紅茶のカップを持ち上げた。
「領地経営。ヴァルトシュタイン家の領地をか」
「辺境の土地ですわ。父上が持て余している場所がありまして」
「ヘルムガルドか」
知っていた。さすがは王太子。国土の隅まで把握している。
「不採算の寒冷地だと聞いている。あそこに何の関心がある?」
答えに詰まった——フリをした。実際は準備万端だが、ここで完璧な回答を返すと不自然だ。
「……まだ漠然とした段階ですわ。ただ、卒業後にどのような形で王国に貢献できるか、考えておきたいと思いまして」
「ふむ」
レオンハルトが顎に手を当てた。考え込む仕草。
「最近、学園の薬草園の管理が杜撰になっているという報告を受けた。農事に関心があるのなら、一度視察してみてはどうだ」
——薬草園?
予想外の返答だった。私の話を一蹴するでもなく、かといって深追いするでもなく、「農事に関心があるなら」と自然に受け止めている。しかも具体的な提案つき。
これが、ゲームの「冷酷な暴君」?
「ありがとうございます。検討いたしますわ」
面会はそのまま穏やかに終わった。これ以上踏み込むのは危険だ。今日は「辺境に関心がある」という種を蒔いただけで十分。次回の面会で、もう一歩進める。
「次の面会は二週間後でよいか」
「ええ、殿下。その頃には、もう少し具体的なお話ができるかと」
レオンハルトが頷く。真剣な眼差しが一瞬、何かを言いかけるように揺れた。しかし口を開いたのはフリッツだった。
「セラフィーナ様、本日はありがとうございました。殿下、次のご公務のお時間です」
「わかった」
レオンハルトが立ち上がる。長身。肩幅が広い。ゲームの立ち絵より、ずっと——人間だった。
◇
帰りの馬車の中。革張りの座席に身体を預け、窓の外を流れる王都の夕暮れを眺める。
馬車の揺れが心地よい。前世の満員電車とは天と地の差だ。
——レオンハルト・アウレリウス。
ゲームの印象とは、あまりにも違った。傲慢ではなく生真面目。冷酷ではなく不器用。私の話を切り捨てず、むしろ真剣に受け止めていた。
「ゲームのキャラにしては人間味がある」——いや、違う。この世界に「ゲームのキャラ」などいない。全員が生きた人間だ。それを今、目の前で突きつけられた。
胸の奥がざわつく。
——駄目だ。感情移入は厳禁。これは生存戦略。
レオンハルトがどんな人間であろうと、私がやるべきことは変わらない。婚約を破棄し、辺境に行く。攻略対象との接触を断つ。処刑エンドを回避する。
彼がいい人であればあるほど、婚約破棄は心が痛むだろう。しかし、心の痛みと首の痛み——比較するまでもない。
馬車が王立学園の前を通りかかった時、窓の外にちらりと人影が映った。
学園の回廊を歩く長身の男。赤銅色の髪。腰に佩いた剣の鍔が、夕陽に一瞬だけ光った。
男が足を止め、こちらを——馬車を見つめる。琥珀色の瞳が、夕暮れの光の中で鋭く光って見えた。
近衛騎士団長、ルキウス・フェルグランド。攻略対象その二。
——なぜこっちを見ている?
私は咄嗟に視線を逸らし、カーテンを引いた。
心臓が跳ねる。まさか、もうフラグが立った? いや、目が合っただけだ。それはイベントじゃない。多分。きっと。おそらく。
馬車が走り去る。車輪が石畳を叩く音が、やけに大きく聞こえた。
振り返ってはいけない。あの視線の意味を考えてはいけない。
——私は退職するだけ。それだけだ。
次の面会まで二週間。
それまでに、婚約破棄の「費用対効果」を完璧に算出しておく。
感情に揺らぐ余裕は、ない。
前世の最終面接では、膝が震えていた。今も震えている。ただし理由は「不採用になったら困る」ではなく「この先にいる人は将来私を処刑する人」だ。どちらがマシかと聞かれたら、正直どっちも嫌だ。
「セラフィーナ様、お顔が強張っておいでです」
隣を歩く侍女が小声で囁いた。私は反射的に微笑みを作る。公爵令嬢の仮面。この身体は、笑顔の作り方を知っている。
「ありがとう。大丈夫ですわ」
大丈夫ではない。心拍数が前世の残業明け並みに跳ね上がっている。
応接間の扉が見えた。近衛兵が二人、扉の両脇に立っている。扉の向こうに、王太子レオンハルト・アウレリウスがいる。
——ゲームでは「冷酷な暴君」。セラフィーナを断罪し、処刑台に送る人物。
深呼吸。
面接だと思え。退職前の最後の面談だ。円満退社のための。
◇
扉が開いた瞬間、紅茶の芳醇な香りが鼻腔を満たした。
応接間は想像より狭く、陽の光が大きな窓から差し込んでいた。磨き上げられた銀器がテーブルの上で冷たい光沢を放ち、ティーセットが二人分。
そして——椅子に座っていたのは、「冷酷な暴君」ではなかった。
金髪碧眼。それは動画で見た通り。しかしゲームの立ち絵にあった傲慢な笑みはどこにもなく、代わりに——なんと言えばいいのか——生真面目すぎて逆に不器用な青年が、姿勢を正してこちらを見ていた。
「セラフィーナ。待っていた」
レオンハルトの声は低い。低いが、威圧的ではない。むしろ、何を言えばいいのかわからないような、ぎこちなさがあった。
「お待たせいたしましたわ、殿下」
カーテシーをしながら、観察する。癖だ。前世で取引先の顔色を読むのが仕事だった。
レオンハルトの隣には、もう一人。赤毛の青年が控えめに座っている。
「側近のフリッツだ。記録のために同席させている」
「まあ、フリッツ様。お久しぶりですわ」
フリッツが軽く頭を下げる。真面目そうな顔。ゲームでは攻略対象ではなかったはずだが、こちらも「生きた人間」の顔をしている。当たり前か。ここはゲームの中ではなく——ゲームだった世界そのものなのだから。
席につく。紅茶を一口。温かい。味は——前世のコンビニ紅茶とは比べ物にならない。当然だ、公爵令嬢の舌が覚えている味覚基準は、元OLの比ではない。
「最近の学園生活はどうだ」
レオンハルトが口を開いた。義務的な質問。だが目は真っ直ぐにこちらを見ている。
「つつがなく過ごしておりますわ。殿下はいかがですか?」
「政務が多い。父上の体調が優れず、余が代行する案件が増えた」
——情報。王の体調不良。ゲームではこの設定、あっただろうか。動画では出てこなかった気がする。
「それは大変ですわね。ご無理をなさいませんよう」
会話が噛み合っている。婚約者同士の、型通りの面会。フリッツが横で書記のように羽根ペンを動かしている。
さて。本題を切り出すタイミングを図る。
婚約破棄——と直接言うのはまだ早い。今日は布石だ。フリッツが同席している以上、プライベートな話題は公式記録に残る。いきなり破棄を口にすれば、ゲームのイベントとは違う形で騒動になりかねない。
代わりに、もう少し柔らかい角度から攻める。
「殿下、一つご相談があるのですが」
「何だ」
「卒業後の進路について、考えていることがございまして」
レオンハルトが微かに眉を動かした。婚約者が「進路」を語ること自体が、この世界では異例なのだろう。貴族令嬢の進路は「嫁ぐ」の一択。
「進路?」
「ええ。私は——領地経営に興味がありますの」
空気が変わった。フリッツのペンが一瞬止まる。レオンハルトは碧い目を少し見開いて、それから——何を考えているのか読めない表情で、紅茶のカップを持ち上げた。
「領地経営。ヴァルトシュタイン家の領地をか」
「辺境の土地ですわ。父上が持て余している場所がありまして」
「ヘルムガルドか」
知っていた。さすがは王太子。国土の隅まで把握している。
「不採算の寒冷地だと聞いている。あそこに何の関心がある?」
答えに詰まった——フリをした。実際は準備万端だが、ここで完璧な回答を返すと不自然だ。
「……まだ漠然とした段階ですわ。ただ、卒業後にどのような形で王国に貢献できるか、考えておきたいと思いまして」
「ふむ」
レオンハルトが顎に手を当てた。考え込む仕草。
「最近、学園の薬草園の管理が杜撰になっているという報告を受けた。農事に関心があるのなら、一度視察してみてはどうだ」
——薬草園?
予想外の返答だった。私の話を一蹴するでもなく、かといって深追いするでもなく、「農事に関心があるなら」と自然に受け止めている。しかも具体的な提案つき。
これが、ゲームの「冷酷な暴君」?
「ありがとうございます。検討いたしますわ」
面会はそのまま穏やかに終わった。これ以上踏み込むのは危険だ。今日は「辺境に関心がある」という種を蒔いただけで十分。次回の面会で、もう一歩進める。
「次の面会は二週間後でよいか」
「ええ、殿下。その頃には、もう少し具体的なお話ができるかと」
レオンハルトが頷く。真剣な眼差しが一瞬、何かを言いかけるように揺れた。しかし口を開いたのはフリッツだった。
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レオンハルトが立ち上がる。長身。肩幅が広い。ゲームの立ち絵より、ずっと——人間だった。
◇
帰りの馬車の中。革張りの座席に身体を預け、窓の外を流れる王都の夕暮れを眺める。
馬車の揺れが心地よい。前世の満員電車とは天と地の差だ。
——レオンハルト・アウレリウス。
ゲームの印象とは、あまりにも違った。傲慢ではなく生真面目。冷酷ではなく不器用。私の話を切り捨てず、むしろ真剣に受け止めていた。
「ゲームのキャラにしては人間味がある」——いや、違う。この世界に「ゲームのキャラ」などいない。全員が生きた人間だ。それを今、目の前で突きつけられた。
胸の奥がざわつく。
——駄目だ。感情移入は厳禁。これは生存戦略。
レオンハルトがどんな人間であろうと、私がやるべきことは変わらない。婚約を破棄し、辺境に行く。攻略対象との接触を断つ。処刑エンドを回避する。
彼がいい人であればあるほど、婚約破棄は心が痛むだろう。しかし、心の痛みと首の痛み——比較するまでもない。
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学園の回廊を歩く長身の男。赤銅色の髪。腰に佩いた剣の鍔が、夕陽に一瞬だけ光った。
男が足を止め、こちらを——馬車を見つめる。琥珀色の瞳が、夕暮れの光の中で鋭く光って見えた。
近衛騎士団長、ルキウス・フェルグランド。攻略対象その二。
——なぜこっちを見ている?
私は咄嗟に視線を逸らし、カーテンを引いた。
心臓が跳ねる。まさか、もうフラグが立った? いや、目が合っただけだ。それはイベントじゃない。多分。きっと。おそらく。
馬車が走り去る。車輪が石畳を叩く音が、やけに大きく聞こえた。
振り返ってはいけない。あの視線の意味を考えてはいけない。
——私は退職するだけ。それだけだ。
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