21 / 51
直接取引モデル——中抜きは許さない
しおりを挟む
白壁に赤い屋根。手入れされた庭園に噴水。玄関の石段には苔一つない。南方の温暖な気候がもたらす豊かさが、建物の隅々にまで行き渡っている。
対照的に、私の靴底にはまだヘルムガルドの泥がこびりついていた。三日間の馬車旅で腰は悲鳴を上げている。前世の出張を思い出す——取引先のオフィスが立派であるほど、こちらの提案書が薄く感じるあの圧迫感。
「セラフィーナ様、少しお待ちを」
ギュンターが馬車の中で葉巻を消した。太い体躯を揺らして降り、門の衛兵に慣れた様子で名刺——羊皮紙に押された商業ギルドの印章——を渡す。三十年の信用が、一枚の紙に凝縮されている。
「いくつか忠告しておく」
「伺いますわ」
「クラウス・フォン・ヴォルフスハイムは実利家だ。口先や肩書きには動かない。代わりに、品物が良ければ出自を問わない」
「つまり製品で語れと」
「ああ。それと——値段を安くしすぎるな。安売りは自信がない証拠だと、あの男は見抜く」
前世の先輩営業が同じことを言っていた。「値引きは最後の手段。最初に値引くやつは二流だ」と。国が変わっても、商売の本質は変わらない。
◇
応接間の天井は高く、窓から差し込む午後の光が石造りの床を温めていた。壁には狩猟の絵画と、南方の産物——絹織物、陶器——が飾られている。富の展示。これも商談術の一つだ。
クラウス・フォン・ヴォルフスハイムは、想像していたよりも小柄な男だった。五十代半ば。灰色の髭を短く刈り込み、目は小さいがよく動く。あの目は数字を計算している目だ。前世の取引先の財務部長を思い出す。
「辺境のヴァルトシュタイン嬢か。ギュンターの紹介でなければ、門前払いにしていた」
開口一番、正直な男だった。嫌いじゃない。
「ご多忙の中、お時間をいただき感謝いたしますわ。本日は、品物に語らせていただきます」
ヨハンが木箱をテーブルに置いた。蓋を開ける。
五本のヘルムガルド鋼の刃物が、窓からの光を受けて青く輝いた。ギュンターへの商談で見せた十本から選んだ、最上の五本。マルクスが「五本選ぶなら俺が選ぶ」と自ら品質チェックしたものだ。
クラウスの目が変わった。商人の目から、鑑定士の目に。
手に取る。重さを確かめる。光に透かす。——ギュンターと同じ動作だ。品物を見極める人間の手つきは万国共通らしい。
「切ってみてよろしいですか」
「どうぞ」
テーブルの端に置かれた革の端切れを、クラウスが一閃した。音もなく裂けた。断面が滑らかだ。クラウスの眉がわずかに上がった。
「……品質は認める。しかし、なぜ王都の仲買を通さない」
「中間マージンを排除し、生産者と消費者の双方に利益を還元するためですわ」
「仲買を敵に回す覚悟があると?」
「敵に回すのではなく、不要にするのです。品質が保証され、供給が安定し、価格が適正であれば——仲買を通す合理性がありません」
クラウスが椅子の背にもたれた。指先が顎を撫でている。計算中の顔だ。
「原価はいくらだ」
懐から原価計算書を取り出した。ギュンターに見せたものと同じフォーマット。項目ごとに計算根拠を記載し、誰でも検証可能な形に整えてある。
クラウスが一項目ずつ確認していく。目が細くなる。
「……王都の同等品より二割以上安い。品質は同等以上。しかもこの計算書は——」
「ご自由に検証なさってくださいませ。数字は嘘をつきませんわ」
沈黙が落ちた。ギュンターは腕を組んだまま、口を挟まない。プロの商人は、相手が考えている時に邪魔をしない。
「月にどれだけ供給できる」
「当面は十五本。半年後に五十本まで拡大します」
「少ないな」
「品質管理のためです。全数検査を通った製品しか出荷しません。不良品を一本でも出せば、ヘルムガルド鋼の名前に傷がつく」
クラウスの目が私を見据えた。値踏みではない——信用を測る目だ。
「若いのに——いや、年齢は関係ないな。ギュンター、この嬢ちゃんをどう見る」
「買って損はしない商品と、裏切らない売り手だ。三十年の経験で言う」
ギュンターの一言が重い。この男が保証人になるということは、自分の信用を賭けるということだ。
クラウスが立ち上がった。手を差し出した。
「月十五本、すべて買おう。価格はお前の提示通りでいい。——ただし、品質が落ちた瞬間に契約は終わる」
手を握った。堅い手だった。実利家の手。信用を握りしめる手。
「ありがとうございます。品質は——私の命をかけて保証いたしますわ」
「命ではなく信用をかけろ。命は一つだが、信用は積み重なる」
良い言葉だ。前世の上司に聞かせたかった。
◇
商談を終え、ヴォルフスハイムの宿で一泊した翌朝。帰路の馬車の中で、私は計算をしていた。
月十五本の売上。原価を引いた粗利。輸送コスト。ギュンターへの手数料。残った純利益——前世の零細企業の月商とほぼ同じ規模だ。ここから始める。
「ギュンター殿、帰ったらすぐに鉱夫たちに話があります」
「何をする気だ」
「成果報酬制を導入しますわ。採掘量に応じたボーナスを支給します」
ギュンターの眉が動いた。
「日給制から成果報酬制か。鉱夫が暴走して安全を無視する危険があるぞ」
「だから上限を設けます。安全基準を満たした上での増産にのみボーナスを適用する。前世の——書物に書いてありましたわ」
「また書物か」
「とても分厚い書物ですの」
ヨハンがまたため息をついた。もはや様式美だ。
馬車の窓から、南方の平野が流れていく。ヴォルフスハイムの豊かな農地。麦畑の緑が目に眩しい。ヘルムガルドにはない光景だ。しかし——ヘルムガルドにはヘルムガルドの宝がある。
「ギュンター殿」
「なんだ」
「次の取引先は、どこを狙いますの」
ギュンターが葉巻に火をつけた。紫煙が馬車の天井に昇る。
「東のブレンタール。港町だ。海運ルートに繋がれば、販路は一気に広がる」
「海運——王都の流通網を迂回できる」
「察しがいいな。あんたに商才がなけりゃ、俺はとっくにこの取引から降りている」
褒め言葉なのか牽制なのか。おそらく両方だ。
◇
ヘルムガルドに戻ったのは四日後の夕方だった。
領主館の前で、ヘルガとオルガが待っていた。ヘルガは腕を組み、オルガは手を胸の前で握っている。二人とも表情が硬い。
「お帰りなさいませ、お嬢様。——商談は」
「成立しましたわ」
ヘルガの口元が微かに緩んだ。一瞬だけ。すぐに毒舌マスクが戻る。
「そうですか。では今夜は祝いの夕食でも作りますかね。——と言いたいところですが、お嬢様が留守の間に三つほど問題が」
やはりそうか。経営者が出張から戻ると問題が山積みなのは、前世でも今世でも同じだ。
「聞きましょう」
「一つ、薬草園の柵が夜中に獣に壊されました。二つ、鉱山の坑道で小さな落盤がありましたが怪我人はなし。三つ——マルクス親方が、品質管理チャートを自分で改良し始めました」
最後のは問題じゃない。むしろ最高のニュースだ。
「マルクス殿が自分でチャートを?」
「温度の測定間隔を細かくしたそうです。『この方が正確だ』と言って」
笑いがこみ上げた。あの寡黙な巨漢が、数字を自分のものにし始めている。部下が自走するのは上司にとって最大の喜びだ。前世では一度も経験できなかった喜び。
翌朝、鉱山の広場に鉱夫たちを集めた。二十人ほど。日焼けした顔に汗と土埃。朝の冷気の中で白い息を吐いている。
「皆さん、ヴォルフスハイム領との直接取引が成立しました」
静かなざわめき。
「これにより、安定した収入が見込めます。そこで——新しい報酬制度を導入しますわ」
成果報酬制の説明をした。基本日給は据え置き。安全基準を遵守した上で、採掘量が基準を超えた分にはボーナスを上乗せする。チームごとの成果を評価し、個人の暴走を防ぐ仕組み。
鉱夫の一人が手を挙げた。年配の男。
「領主様、つまり——頑張った分だけ、もらえるってことですかい」
「そうですわ。ただし、安全を無視した増産は認めません。怪我をしたら元も子もありませんから」
男の顔に、困惑と期待が入り混じった表情が浮かんだ。この領地で「頑張った分だけ報われる」経験をした者は、おそらくいない。十五年間、搾取の構造の下で労働していた人々だ。
「嘘じゃないですかね」
別の鉱夫が言った。若い男。目に疑いの色がある。
「嘘かどうかは、最初の月で証明されますわ。数字は嘘をつきません——それは、クラウス・フォン・ヴォルフスハイム殿もおっしゃっていました」
近隣の有力領主の名前を出したことで、空気が変わった。ヘルムガルドの鋼が外の世界に認められたという事実。それは鉱夫たちの労働に価値があるという証明でもある。
ヨハンが私の隣で、静かに微笑んでいた。
「セラフィーナ様」
「何ですの」
「……この領地に来てよかったです」
耳が赤い。この従者は、照れると耳が赤くなる癖がある。
鉱夫たちが持ち場に散っていく。足取りが、前より少しだけ軽い。気のせいかもしれない。でも——気のせいだとしても、それは悪い兆候じゃない。
領主館に戻る道で、ヘルガが昨夜焼いたパンを差し出してきた。黒パンだが、いつもより少しだけ柔らかい。
「祝いだと言ったでしょう」
「ヘルガさん、これ——バターが塗ってありますわね」
「気のせいですよ」
気のせいじゃない。この人は不器用な祝福を、パンのバターに込める人だ。
噛みしめた。小麦とバターの素朴な味が、口の中に広がる。前世では高級レストランの接待で食べた料理より、このパンの方がずっと美味しい。
最初の取引が成立した。最初の一歩。しかし——ギュンターの言葉が頭に残っている。「東のブレンタール。港町」。販路を広げれば、王都の目にも留まる。前世の経験が告げている。成功は、必ず妬みを呼ぶ。
空を見上げた。辺境の空は今日も高い。雲が北から南へ、ゆっくりと流れていく。
次は——領民の暮らしを、もう一段上げる番だ。
対照的に、私の靴底にはまだヘルムガルドの泥がこびりついていた。三日間の馬車旅で腰は悲鳴を上げている。前世の出張を思い出す——取引先のオフィスが立派であるほど、こちらの提案書が薄く感じるあの圧迫感。
「セラフィーナ様、少しお待ちを」
ギュンターが馬車の中で葉巻を消した。太い体躯を揺らして降り、門の衛兵に慣れた様子で名刺——羊皮紙に押された商業ギルドの印章——を渡す。三十年の信用が、一枚の紙に凝縮されている。
「いくつか忠告しておく」
「伺いますわ」
「クラウス・フォン・ヴォルフスハイムは実利家だ。口先や肩書きには動かない。代わりに、品物が良ければ出自を問わない」
「つまり製品で語れと」
「ああ。それと——値段を安くしすぎるな。安売りは自信がない証拠だと、あの男は見抜く」
前世の先輩営業が同じことを言っていた。「値引きは最後の手段。最初に値引くやつは二流だ」と。国が変わっても、商売の本質は変わらない。
◇
応接間の天井は高く、窓から差し込む午後の光が石造りの床を温めていた。壁には狩猟の絵画と、南方の産物——絹織物、陶器——が飾られている。富の展示。これも商談術の一つだ。
クラウス・フォン・ヴォルフスハイムは、想像していたよりも小柄な男だった。五十代半ば。灰色の髭を短く刈り込み、目は小さいがよく動く。あの目は数字を計算している目だ。前世の取引先の財務部長を思い出す。
「辺境のヴァルトシュタイン嬢か。ギュンターの紹介でなければ、門前払いにしていた」
開口一番、正直な男だった。嫌いじゃない。
「ご多忙の中、お時間をいただき感謝いたしますわ。本日は、品物に語らせていただきます」
ヨハンが木箱をテーブルに置いた。蓋を開ける。
五本のヘルムガルド鋼の刃物が、窓からの光を受けて青く輝いた。ギュンターへの商談で見せた十本から選んだ、最上の五本。マルクスが「五本選ぶなら俺が選ぶ」と自ら品質チェックしたものだ。
クラウスの目が変わった。商人の目から、鑑定士の目に。
手に取る。重さを確かめる。光に透かす。——ギュンターと同じ動作だ。品物を見極める人間の手つきは万国共通らしい。
「切ってみてよろしいですか」
「どうぞ」
テーブルの端に置かれた革の端切れを、クラウスが一閃した。音もなく裂けた。断面が滑らかだ。クラウスの眉がわずかに上がった。
「……品質は認める。しかし、なぜ王都の仲買を通さない」
「中間マージンを排除し、生産者と消費者の双方に利益を還元するためですわ」
「仲買を敵に回す覚悟があると?」
「敵に回すのではなく、不要にするのです。品質が保証され、供給が安定し、価格が適正であれば——仲買を通す合理性がありません」
クラウスが椅子の背にもたれた。指先が顎を撫でている。計算中の顔だ。
「原価はいくらだ」
懐から原価計算書を取り出した。ギュンターに見せたものと同じフォーマット。項目ごとに計算根拠を記載し、誰でも検証可能な形に整えてある。
クラウスが一項目ずつ確認していく。目が細くなる。
「……王都の同等品より二割以上安い。品質は同等以上。しかもこの計算書は——」
「ご自由に検証なさってくださいませ。数字は嘘をつきませんわ」
沈黙が落ちた。ギュンターは腕を組んだまま、口を挟まない。プロの商人は、相手が考えている時に邪魔をしない。
「月にどれだけ供給できる」
「当面は十五本。半年後に五十本まで拡大します」
「少ないな」
「品質管理のためです。全数検査を通った製品しか出荷しません。不良品を一本でも出せば、ヘルムガルド鋼の名前に傷がつく」
クラウスの目が私を見据えた。値踏みではない——信用を測る目だ。
「若いのに——いや、年齢は関係ないな。ギュンター、この嬢ちゃんをどう見る」
「買って損はしない商品と、裏切らない売り手だ。三十年の経験で言う」
ギュンターの一言が重い。この男が保証人になるということは、自分の信用を賭けるということだ。
クラウスが立ち上がった。手を差し出した。
「月十五本、すべて買おう。価格はお前の提示通りでいい。——ただし、品質が落ちた瞬間に契約は終わる」
手を握った。堅い手だった。実利家の手。信用を握りしめる手。
「ありがとうございます。品質は——私の命をかけて保証いたしますわ」
「命ではなく信用をかけろ。命は一つだが、信用は積み重なる」
良い言葉だ。前世の上司に聞かせたかった。
◇
商談を終え、ヴォルフスハイムの宿で一泊した翌朝。帰路の馬車の中で、私は計算をしていた。
月十五本の売上。原価を引いた粗利。輸送コスト。ギュンターへの手数料。残った純利益——前世の零細企業の月商とほぼ同じ規模だ。ここから始める。
「ギュンター殿、帰ったらすぐに鉱夫たちに話があります」
「何をする気だ」
「成果報酬制を導入しますわ。採掘量に応じたボーナスを支給します」
ギュンターの眉が動いた。
「日給制から成果報酬制か。鉱夫が暴走して安全を無視する危険があるぞ」
「だから上限を設けます。安全基準を満たした上での増産にのみボーナスを適用する。前世の——書物に書いてありましたわ」
「また書物か」
「とても分厚い書物ですの」
ヨハンがまたため息をついた。もはや様式美だ。
馬車の窓から、南方の平野が流れていく。ヴォルフスハイムの豊かな農地。麦畑の緑が目に眩しい。ヘルムガルドにはない光景だ。しかし——ヘルムガルドにはヘルムガルドの宝がある。
「ギュンター殿」
「なんだ」
「次の取引先は、どこを狙いますの」
ギュンターが葉巻に火をつけた。紫煙が馬車の天井に昇る。
「東のブレンタール。港町だ。海運ルートに繋がれば、販路は一気に広がる」
「海運——王都の流通網を迂回できる」
「察しがいいな。あんたに商才がなけりゃ、俺はとっくにこの取引から降りている」
褒め言葉なのか牽制なのか。おそらく両方だ。
◇
ヘルムガルドに戻ったのは四日後の夕方だった。
領主館の前で、ヘルガとオルガが待っていた。ヘルガは腕を組み、オルガは手を胸の前で握っている。二人とも表情が硬い。
「お帰りなさいませ、お嬢様。——商談は」
「成立しましたわ」
ヘルガの口元が微かに緩んだ。一瞬だけ。すぐに毒舌マスクが戻る。
「そうですか。では今夜は祝いの夕食でも作りますかね。——と言いたいところですが、お嬢様が留守の間に三つほど問題が」
やはりそうか。経営者が出張から戻ると問題が山積みなのは、前世でも今世でも同じだ。
「聞きましょう」
「一つ、薬草園の柵が夜中に獣に壊されました。二つ、鉱山の坑道で小さな落盤がありましたが怪我人はなし。三つ——マルクス親方が、品質管理チャートを自分で改良し始めました」
最後のは問題じゃない。むしろ最高のニュースだ。
「マルクス殿が自分でチャートを?」
「温度の測定間隔を細かくしたそうです。『この方が正確だ』と言って」
笑いがこみ上げた。あの寡黙な巨漢が、数字を自分のものにし始めている。部下が自走するのは上司にとって最大の喜びだ。前世では一度も経験できなかった喜び。
翌朝、鉱山の広場に鉱夫たちを集めた。二十人ほど。日焼けした顔に汗と土埃。朝の冷気の中で白い息を吐いている。
「皆さん、ヴォルフスハイム領との直接取引が成立しました」
静かなざわめき。
「これにより、安定した収入が見込めます。そこで——新しい報酬制度を導入しますわ」
成果報酬制の説明をした。基本日給は据え置き。安全基準を遵守した上で、採掘量が基準を超えた分にはボーナスを上乗せする。チームごとの成果を評価し、個人の暴走を防ぐ仕組み。
鉱夫の一人が手を挙げた。年配の男。
「領主様、つまり——頑張った分だけ、もらえるってことですかい」
「そうですわ。ただし、安全を無視した増産は認めません。怪我をしたら元も子もありませんから」
男の顔に、困惑と期待が入り混じった表情が浮かんだ。この領地で「頑張った分だけ報われる」経験をした者は、おそらくいない。十五年間、搾取の構造の下で労働していた人々だ。
「嘘じゃないですかね」
別の鉱夫が言った。若い男。目に疑いの色がある。
「嘘かどうかは、最初の月で証明されますわ。数字は嘘をつきません——それは、クラウス・フォン・ヴォルフスハイム殿もおっしゃっていました」
近隣の有力領主の名前を出したことで、空気が変わった。ヘルムガルドの鋼が外の世界に認められたという事実。それは鉱夫たちの労働に価値があるという証明でもある。
ヨハンが私の隣で、静かに微笑んでいた。
「セラフィーナ様」
「何ですの」
「……この領地に来てよかったです」
耳が赤い。この従者は、照れると耳が赤くなる癖がある。
鉱夫たちが持ち場に散っていく。足取りが、前より少しだけ軽い。気のせいかもしれない。でも——気のせいだとしても、それは悪い兆候じゃない。
領主館に戻る道で、ヘルガが昨夜焼いたパンを差し出してきた。黒パンだが、いつもより少しだけ柔らかい。
「祝いだと言ったでしょう」
「ヘルガさん、これ——バターが塗ってありますわね」
「気のせいですよ」
気のせいじゃない。この人は不器用な祝福を、パンのバターに込める人だ。
噛みしめた。小麦とバターの素朴な味が、口の中に広がる。前世では高級レストランの接待で食べた料理より、このパンの方がずっと美味しい。
最初の取引が成立した。最初の一歩。しかし——ギュンターの言葉が頭に残っている。「東のブレンタール。港町」。販路を広げれば、王都の目にも留まる。前世の経験が告げている。成功は、必ず妬みを呼ぶ。
空を見上げた。辺境の空は今日も高い。雲が北から南へ、ゆっくりと流れていく。
次は——領民の暮らしを、もう一段上げる番だ。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】男装して会いに行ったら婚約破棄されていたので、近衛として地味に復讐したいと思います。
銀杏鹿
恋愛
次期皇后のアイリスは、婚約者である王に会うついでに驚かせようと、男に変装し近衛として近づく。
しかし、王が自分以外の者と結婚しようとしていると知り、怒りに震えた彼女は、男装を解かないまま、復讐しようと考える。
しかし、男装が完璧過ぎたのか、王の意中の相手やら、王弟殿下やら、その従者に目をつけられてしまい……
蔑まされた没落貴族家の悪役令嬢ですが、この舞台の主役は私がやらせていただきます!
あぷりこっと
恋愛
「君の嫉妬深さにはもう辟易しているんだ」
婚約者のハイベルクにそう告げられた瞬間、レーウは確信した。
――計画通り。
何も知らない侯爵令嬢ランダ。王国最強と謳われた騎士団長ハイベルク。彼がその双剣を振るう相手を間違えた時、破滅のカウントダウンは始まった。
世間がレーウを嫉妬に狂った没落家の伯爵令嬢と蔑んでいる間、彼女は自警団と共に貴族院の秘密を暴き敵の逃げ場を奪い続けていた。
格安警備会社へのすり替え、配電盤の掌握、そして夜視の魔導具。
感情を切り捨て毒となった令嬢が公爵邸舞踏会を、社会的抹殺の舞台へと変える。
「不運と踊る?……いいえ。私に踊らされていたのだと、地獄で気づきなさい!!」
※ヒロインの活躍が凛々しいので応援してください♪
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
+++++
・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
「婚約破棄された転生令嬢ですが、王城のメイド五百人に慕われるメイド長になりました。なお元婚約者は私のメイドに土下座中です」
まさき
恋愛
社畜OLとして過労死した私は、異世界の令嬢・アリア・ヴェルナーに転生した。
目が覚めたら、婚約破棄されていた。
理由は「地味で面白みがない」から。
泣く暇もなかった。翌朝、王城のメイド採用面接に向かった。
最初は鼻で笑われた。雑用係からのスタートだった。
でも——前世で叩き込まれた仕事術と、一人ひとりの話を聞く姿勢で、少しずつメイドたちが集まってきた。
厨房が変わった。リネンが変わった。王城全体が変わっていった。
そして就任スピーチで宣言した。
「500人全員の名前を、覚えます」
冷酷と噂される王太子は、静かに見ていた。
悪役令嬢は妨害を仕掛けてきた。
元婚約者は——後悔し始めていた。
婚約破棄された令嬢が、500人に慕われるメイド長になるまでの物語。
なお元婚約者は、私のメイドたちの前で土下座中です。
公爵家の次女ですが、静かに学園生活を送るつもりでした
佐伯かなた
恋愛
王国でも屈指の名門、公爵アルヴィス家。
その家には、誰もが称賛する完璧な令嬢がいた。
長女ソフィア。
美貌、知性、礼儀、すべてを備えた理想の公爵令嬢。
そして──もう一人。
妹、レーネ・アルヴィス。
社交界ではほとんど名前も出ない、影の薄い次女。
姉ほど目立つわけでもなく、社交の中心にいるわけでもない。
だが彼女は知っている。
貴族社会では、
誰が本当に優れているのかは、静かな場面でこそ分かるということを。
王立学園に入学したレーネは、
礼儀作法、社交、そして人間関係の中で、静かに周囲を観察していく。
やがて──
軽んじていた者たちは気づく。
「公爵家の妹」が、本当はどんな令嬢だったのかを。
これは、
静かな公爵令嬢が学園と貴族社会で評価を覆していく物語。
私が騎士団の司令官ってなんですか!? ~聖女じゃなかった私は得意の料理で騎士たちの心を掴んだら食堂の聖女様と呼ばれていました~
あんねーむど
恋愛
栄養士が騎士団の司令官――!?
元社員食堂の職員・白城千鳥は、ある日突然「聖女」として異世界アルゼリオン王国に召喚される。
しかし期待された聖女の力はまったく発現されず、判明したのは彼女がただの一般人だという事実。
役立たずとして放逐されるかと思いきや、千鳥は王宮食堂で料理人として働くことに。慣れない異世界生活の中でも、栄養管理や献立作りを通して騎士たちの体調を支え、静かに居場所を築いていく。
そんなある日、問題児ばかりを集めた新設部隊アルゼリオン王国騎士団戦術騎士隊【アルタイル】 が発足。なぜか千鳥が司令官に任命されてしまう。
戦えない、魔法も使えない、指揮の経験もない。
困惑する千鳥を待っていたのは、王子である身分を隠している隊長のエドガー、年下で聡明だが一途すぎるノエル、俺様で口の悪い元衛士隊のクラウディオ、外見に反してサディスティックでマッドサイエンティストのフェルナンド、癖も事情も抱えたイケメン騎士たちだった。
最初は反発され、軽んじられ、失敗も重ねる千鳥。それでも彼女は騎士一人ひとりと向き合い、少しずつ信頼を勝ち取っていく。
聖女でも悪役令嬢でもない。戦場に立つことすらできない彼女は、やがて隊員たちを導く司令官として成長していく。
★にキャラクターイメージ画像アリ〼
※料理モノの物語ではありません。
あの日々に戻りたくない!自称聖女の義妹に夫と娘を奪われた妃は、死に戻り聖女の力で復讐を果たす
青の雀
恋愛
公爵令嬢スカーレット・ロッテンマイヤーには、前世の記憶がある。
幼いときに政略で結ばれたジェミニ王国の第1王子ロベルトと20歳の時に結婚した。
スカーレットには、7歳年下の義妹リリアーヌがいるが、なぜかリリアーヌは、ロッテンマイヤー家に来た時から聖女様を名乗っている。
ロッテンマイヤーは、代々異能を輩出している家柄で、元は王族
物語は、前世、夫に殺されたところから始まる。
転生モブは分岐点に立つ〜悪役令嬢かヒロインか、それが問題だ!〜
みおな
恋愛
転生したら、乙女ゲームのモブ令嬢でした。って、どれだけラノベの世界なの?
だけど、ありがたいことに悪役令嬢でもヒロインでもなく、完全なモブ!!
これは離れたところから、乙女ゲームの展開を楽しもうと思っていたのに、どうして私が巻き込まれるの?
私ってモブですよね?
さて、選択です。悪役令嬢ルート?ヒロインルート?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる