処刑エンドの悪役令嬢に転生したので攻略対象を全員回避して辺境で起業したら、なぜか王太子が追いかけてくるんですが

ポポリーナ

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王太子の馬車と招かれざる客

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 一頭ではない。十頭は超えている。重厚な蹄鉄のリズムが地面を揺らし、旗のはためく音が風に乗って領主館まで届いた。

 金の獅子と銀の鷲。

 王家の紋章だ。

「来た……」

 窓から身を乗り出して呟いた。来てしまった。

 レオンハルトが「また来る」と言い残して王都に戻ったのは二ヶ月前。あの言葉が社交辞令でないことは薄々わかっていたが、こんなに早いとは。

「セラフィーナ様、視察団が正門に到着しました。王太子殿下ご本人と、護衛騎士六名、侍従三名、書記官一名——」

 ヨハンが報告書を読み上げている。声が微妙に裏返っている。この正直者、動揺を隠す気がない。

「——あと、商人らしき人物が二名。王家の一行とは別行動で、東の宿場町に到着したとギュンターから連絡が」

「商人?」

「ノーヴァル商会の紋が入った荷馬車だったと」

 王太子と商会の代理人が同時に来る。偶然とは思えない。

 ナターリアの手紙。ノーヴァルの上奏文。レオンハルトの「また来る」。別々の糸が一本に縒り合わさって、私の喉元に巻きつこうとしている。

「ヨハン、正装を用意して。ヘルガに応接間の準備を頼んで。ギュンターにはノーヴァルの代理人の動向を監視するよう伝えて」

「はい!」

「あと——」

「はい?」

「私が動揺しているように見えたら、袖を引っ張って」

 ヨハンが真面目な顔で頷いた。前世の秘書にもこういう人がほしかった。


  ◇


 正門前。

 馬車が停まり、金細工の扉が開いた。降り立ったのは金髪碧眼の青年。半年前より少しだけ頬が引き締まっている。政務の重みか、あるいは——。

 考えるな。公務だ。これは公務。

「ヘルムガルド領主代行、セラフィーナ・ヴァルトシュタインでございます。殿下のお越しを歓迎いたしますわ」

 完璧なカーテシー。深く、優雅に。令嬢の鎧を着込んで、一分の隙もなく。

 レオンハルトが——一瞬だけ、その鋭い視線を細めた。

「……堅いな」

 小声だった。フリッツにも聞こえないほどの。

 聞こえてしまった。この耳の良さは前世のブラック企業で培われたものだ。上司の小声の悪口は全部聞こえていた。

「公式の場ですので」

「ああ……そうだな」

 レオンハルトは姿勢を正した。王太子の顔に戻る。しかしその碧い目の奥に、ほんの一瞬だけ——失望のような色が過ぎった。

 失望。なぜ。何に。

 考えている暇はない。フリッツが一歩進み出て会釈した。

「お久しぶりでございます、セラフィーナ嬢。殿下の辺境視察に際し、記録と随行を務めます」

 この側近、相変わらず隙がない。あの穏やかな微笑みの裏で、全てを記録している人間だ。

 護衛騎士たちが馬を繋ぎ、荷を下ろす間に、応接間に案内した。

 領主館の廊下を歩きながら、フリッツの目が壁や天井を走るのが見えた。半年前と比べて修繕が進んでいること、使用人の動きが組織的であること、廊下の清掃が行き届いていること——あの側近は全てを観察している。おそらく今夜の報告書に「領主館の運営状態は王都の中級貴族の邸宅に匹敵する」程度のことは書くだろう。

 レオンハルトは別のことを見ていた。壁に掛かった辺境の風景画——領民の子供が描いたもので、ヘルガが勝手に飾ったのだが——に足を止めて、じっと見つめていた。

「子供が描いたのか」

「ええ。領民の子供たちが学校で——」

「学校があるのか?」

 声にかすかな驚きが混じっている。辺境に学校を作ったことは報告書に書いたはずだが、実際に子供の絵を見るのとは違うのだろう。

「簡易なものですわ。週に三日、読み書きと算術を教えています」

 レオンハルトは絵から目を離さなかった。下手だが力強い筆致。青い空と緑の山。その隅に銀色の髪の女性が小さく描かれている。

「……余の治める王都にも、まともな庶民の学校がない」

 呟きは独り言に近かった。フリッツが何か言いかけて口を閉じた。

 この人は本気で国のことを考えている。ゲームの「冷酷な暴君」は、子供の絵の前で立ち止まったりしない。

 応接間に通すと、ヘルガが辺境産の薬草茶を用意してくれていた。王都にはない、苦みと甘みが混じった独特の香り。レオンハルトがカップを手に取り、一口含んで目を見張った。

「これは——」

「辺境の薬草園で栽培した葉のブレンドですわ。オルガが調合したものです」

「美味いな」

 素直な感想。王族の社交辞令ではない声色。こういう不意打ちが一番困る。

 ヘルガが奥から追加の茶菓子を持ってきた。栗の粉で作った素朴な焼き菓子。ヘルガはレオンハルトの顔をじっと見て、「お若いですね。王太子ってもっと偉そうなものかと思ってました」と言い放った。

 フリッツが青ざめた。ヨハンが目を剥いた。

 レオンハルトが——笑った。

「……面白い家政婦長だな」

「お褒めに預かり光栄ですよ。お嬢様より食べてる量が少ないですから、もう一つどうぞ」

 ヘルガ。その口を止めてほしい。しかしレオンハルトは本当に追加の菓子を手に取り、普通に食べた。王宮の厳格な食事作法とは程遠い、自然な所作。

 この人は——辺境の空気に馴染むのが早い。

 歓迎の挨拶と視察日程の説明に移った。完璧に事務的に。感情を挟む隙を与えず、工程表を読み上げるように説明した。

 初日は鍛冶場と薬草園の視察。二日目は商業施設と新規住宅区画。三日目は近隣領地との取引現場の見学。全て一時間刻みのスケジュール。前世の出張管理と同じ精度で組んだ。

「——以上が視察日程でございます。ご不明点があれば」

「一つ」

 レオンハルトが挙手した。王太子が挙手するのはどうかと思うが、この人は生真面目だから本気でやっている。

「帳簿を見せてほしい」

 心臓が跳ねた。

「帳簿、ですか」

「辺境がここまで発展した理由を、余は理解せねばならぬ。工程表の視察だけでは表面しか見えん。帳簿——財務記録を見れば、経営の本質がわかるはずだ」

 横でフリッツが微かに驚いた顔をしている。王太子が帳簿に興味を持つのは異例なのだろう。

 しかし私は驚けなかった。半年前の視察で、レオンハルトは帳簿を読む目を持っていることを見せていた。この人は、ゲームの「冷酷な暴君」ではない。数字を読み、現場を見て、自分の頭で考える人間だ。

 ——だからこそ、帳簿を見せるのが怖い。

 あの帳簿には複式簿記がある。原価計算がある。この世界に存在しないはずの記帳法が、全ページに渡って記されている。

「……もちろんですわ。明日の午前に帳簿室をご案内いたします」

 断る理由がない。王太子の公式視察で、財務記録の開示を拒否すれば、それこそ不正の疑いを招く。

 レオンハルトが頷いた。その目は真剣だった。政務として以上の何かが、あの碧い瞳の奥にある。

 でも——それを認めてはいけない。認めたら、計画が崩れる。


  ◇


 応接間を出た後、廊下でヨハンが待っていた。

「袖、引っ張るタイミングありましたか?」

「帳簿のところ」

「え、あの場面ですか? 普通に受け答えしてましたけど」

「内心は修羅場でしたわ」

 ヨハンが苦笑した。この従者は最近、私の建前と本音の温度差を読むのが上手くなっている。

 廊下の窓から夕暮れの赤い光が差し込んでいた。ヨハンの表情が、少し硬くなった。

「セラフィーナ様、もう一件。さっき厨房に見慣れない男が出入りしていまして。ギュンターの商会の者だと名乗っていたんですが、ギュンターに確認したら『そんな奴は知らん』と」

「ノーヴァルの?」

「まだわかりませんが——その男、フリッツ様と廊下で会って、妙に丁寧な挨拶をしていました。王都の作法で」

 辺境の人間が王都の宮廷作法を使う。不自然だ。クルトを泳がせて流している偽情報の効果が薄れてきたのか、それとも別系統の人間が新たに送り込まれたのか。

 ノーヴァル商会は手を替え品を替え、辺境の内情を探ろうとしている。カーティスの上奏文は政治攻撃の序章にすぎない。次の一手を打つために、現場の情報が欲しいのだ。

 窓の外で、夕陽が山の稜線に沈んでいく。護衛騎士たちが馬を厩舎に入れる音が聞こえる。フリッツが中庭を歩きながら、手帳に何かを書き留めていた。

「ヨハン」

「はい」

「明日の帳簿開示、どこまで見せるか——今夜中に考えないといけませんわね」

 レオンハルトの視察。ノーヴァルの偵察。二つの目が、同時にこの領地を見ている。

 片方は敵。もう片方は——。

 何だ。味方か。それとも、もっと厄介な何かか。

 令嬢の仮面の裏で、元経理部主任の勘が警鐘を鳴らしている。帳簿を見せれば、この世界にない知識が露呈する。見せなければ、不信を招く。

 どちらを選んでも、リスクがある。

 ——前世なら、ここで残業を始める場面だ。

「ヨハン、今夜の夕食はヘルガに頼んで軽めにしてもらって。食後に執務室で作戦会議ですわ」

「了解です。……あの、セラフィーナ様」

「何?」

「今夜は徹夜しないでくださいね」

 前世の上司に一度も言われなかった台詞を、この従者は毎晩のように言ってくれる。

「……善処しますわ」

 廊下に二つの影が伸びている。私の影と、ヨハンの影。その向こうの客室の窓に、蝋燭の明かりが灯った。レオンハルトの部屋だ。

 半年前は一日で帰った。今回は三日いる。

 三日間、あの真っ直ぐな眼差しから逃げ切れるだろうか。
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