処刑エンドの悪役令嬢に転生したので攻略対象を全員回避して辺境で起業したら、なぜか王太子が追いかけてくるんですが

ポポリーナ

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帳簿は嘘をつかない——王太子と経理の攻防

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 帳簿室は領主館の東棟にある。壁一面の棚に、革表紙の帳簿が年代順に並んでいる。古いものは十五年前のものまで。私が着任してからの半年分は、一番手前の棚に六冊。

 昨夜、ヨハンと二時間かけて「見せる帳簿」と「見せない帳簿」を選別した。基本的な収支記録と取引台帳は開示する。問題は原価計算の詳細と複式簿記の部分だ。

 結論——隠しきれない。

 複式簿記はこの半年の帳簿の全ページに浸透している。借方・貸方の構造を抜き取って単式に書き直す時間はなかった。仮に書き直しても、レオンハルトの目をごまかせる気がしない。

 ならば——見せるしかない。そして、質問が来たら「独学です」で押し通す。

 問題はその「独学」がどこまで通用するかだ。

「セラフィーナ様、王太子殿下がいらっしゃいました」

 ヨハンの声に、背筋を伸ばした。

「お通しして」

 扉が開く。レオンハルトが一人で入ってきた。フリッツの姿がない。

「フリッツ様は?」

「外で待たせた。二人のほうが話しやすい」

 ——それは誰にとって。

 私にとっては、フリッツがいてくれたほうが緩衝材になるのだが。しかし抗議する理由もない。

「こちらが直近半年の財務記録です。収支台帳、取引明細、在庫管理表。順にご覧くださいませ」

 革表紙を開いた。朝日が数字の列を照らす。インクの匂い。革の匂い。乾いた紙の匂い。

 レオンハルトが帳簿の前に座った。ページを繰る手つきが——丁寧だった。数字を一つ一つ追っている。飾りではない。本気で読んでいる。

 最初の五分は質問がなかった。沈黙の中で紙がめくれる音だけが響く。私の心臓は一ページごとに早鐘を打っている。

「セラフィーナ」

 来た。

「この記帳法は——」

「はい」

「借方と貸方を対にして、取引ごとに二重に記録している。同じ金額が左右に入る。これは……王国の標準的な記帳法ではないな」

 核心。一発で見抜いた。

「独自の方法ですわ。取引の正確性を検証するために考案したものです」

「考案した? お前がか」

「ええ」

 嘘だ。前世の簿記検定一級の知識だ。でもそう言うわけにはいかない。

 レオンハルトの碧い目が帳簿から私に移った。あの目で見つめられると——困る。嘘をつきにくくなる。

「この方法だと、記帳ミスが即座に発見できるな。左右の合計が一致しなければ、どこかに誤りがある」

「ご明察ですわ」

「王国の財務省でもこの精度の記帳はできていない。大蔵卿が見たら腰を抜かすだろう」

 褒めているのか。それとも追及の前段階か。判断がつかない。

 レオンハルトは更にページを繰った。原価計算のセクションに入る。ヘルムガルド鋼一本あたりの鉄鉱石コスト、燃料費、人件費、減価償却に相当する鍛冶場設備の按分——全てが数字で明示されている。

「原価を構成要素に分解して、工程ごとに集計している。これは……」

 レオンハルトの指が数字の上で止まった。眉が寄る。

「セラフィーナ、この『減価償却』という項目は何だ」

 最も厄介な質問が来た。減価償却の概念は、この世界の会計には存在しない。設備の消耗を経年で費用化するという発想自体が、産業革命以前の世界にはないのだ。

「設備は使えば消耗します。その消耗分を毎年の費用として計上することで、利益の正確な把握が——」

「待て」

 レオンハルトが手を挙げた。目が光っている。怒りではない。純粋な知的興奮。

「つまり、鍛冶場のふいごが十年使えるなら、その購入費を十年に分割して毎年の経費に入れるということか」

「……そのとおりですわ」

 一回で理解した。この人、頭がいい。ゲームでは「武力で解決」タイプだったはずだが。

「この概念を王国財政に導入すれば、設備投資の判断が根本的に変わる。現状の予算編成は単年度の現金支出だけを見ている。だから長期投資が後回しにされる。だが減価償却があれば——」

 止まらなくなっていた。レオンハルトは帳簿を読みながら、脳内でそのまま国家財政への応用を組み立てている。

 まずい。この人に帳簿を見せたのは間違いだったかもしれない。知的好奇心の塊だ。一つの概念を見せると、十の応用を考え始める。

 しかし——その真剣な横顔を見ていると。数字に没頭する真剣な眼差しを見ていると。

 この人も、数字の中に真実を見つけようとする人間なのだ。

 少しだけ、胸の力が抜けた。自分と同じ言語を話す人間がいるという安心感。それは危険な安心感だったが。

「セラフィーナ」

 レオンハルトが帳簿から目を上げた。

「この記帳法を、余にも教えてくれないか」

 予想外の申し出。帳簿を調べに来たのではなく、学びに来た。

「……いいですけど、長くなりますわよ」

「構わぬ」

 二時間。

 気づけば二時間が経っていた。

 私は帳簿を使って複式簿記の基礎を説明し、レオンハルトは驚くほどの速さで吸収した。質問が的確で、理解が速く、応用力がある。

 最初は仕訳の概念から。「この鉄鉱石の購入は、資産の増加と現金の減少。だから借方に原材料、貸方に現金を——」「なるほど。では売上が立った時は、逆に現金が借方に入るのか」「そのとおりですわ」

 次に試算表。「借方合計と貸方合計が一致しなければ、どこかに記帳ミスがある。自動的に検証できるんです」「これは……軍の兵站管理にも応用できるな。補給物資の出入りを同じ方法で——」

 話が弾む。レオンハルトの頭の中で、複式簿記が会計の枠を超えて広がっていくのが目に見えた。国家の財政管理、軍の補給システム、公共事業の予算編成——一つの概念が無限の応用を生む瞬間に立ち会っている。

 いつの間にか令嬢口調が崩れかけていた。「ここの借方は——」「いえ、それは貸方に——」「あ、そうです、正解」。教える楽しさに没頭して、相手が王太子であることを忘れかけていた。

 窓の外の陽光が角度を変え、帳簿の上の影が移動していた。蝋燭は必要なかった。朝から差し込む自然光だけで十分だった。二人の間にあるのは帳簿と数字だけ。それなのに、この距離が——近い。

 ヨハンがノックして、昼食の時間を告げた。レオンハルトが顔を上げた時、その表情は——視察に来た王太子のものではなかった。何か面白いものを見つけた学生の顔。

「続きは午後でも?」

「あ、いえ、午後は鍛冶場の視察が——」

「鍛冶場は明日でいい」

「スケジュールが——」

「余が変更する」

 王権の乱用。しかしその目が楽しそうなのが、もっと困る。


  ◇


 帳簿室を出た後、廊下でヨハンが待っていた。

「セラフィーナ様、すごい笑顔でしたけど大丈夫ですか」

「笑顔?」

「帳簿の説明してる時、すごく楽しそうでした。王太子殿下も」

 ……やばい。

 楽しかった。認めたくないが、楽しかった。数字の話を理解してくれる人間がいるのが嬉しかった。前世でも今世でも、帳簿の話に目を輝かせてくれる相手はいなかった。

 ヨハンが小声で続けた。

「それと、ギュンターから緊急の伝言が。ノーヴァルの代理人が宿場町の商人に接触して、ヘルムガルド鋼の生産量と取引先を聞き回っているそうです」

 現実に引き戻された。

 帳簿室の温かな空気が、一瞬で冷えた。商業情報の漏洩は致命傷になる。生産量と取引先がわかれば、ノーヴァルは的確に圧力をかけられる。取引先に「辺境との取引を続ければ王都での商売に影響が出る」と脅すだけで、直接取引モデルは崩壊する。

「ギュンターには、取引先への事前通知を頼みましょう。ノーヴァルから接触があった場合の対応策を共有しておく必要がありますわ」

「はい。あと——」

 ヨハンが言いかけて、廊下の先を見た。レオンハルトが客室に戻る後ろ姿。その足取りは軽かった。帳簿で学んだことを反芻しているのだろう。

「王太子殿下、楽しそうですね。帳簿であんなに盛り上がる人、初めて見ました」

「……私も」

 認めてしまった。

 レオンハルトが角を曲がる直前、一度だけ振り返った。目が合った。碧い瞳が微かに笑って、それからすぐに前を向いて消えた。

「この記帳法……誰に学んだ?」

 廊下の向こうから、独り言のように呟く声が聞こえた。小さな声。しかし帳簿室での二時間を共有した後の、真剣な疑問。

「余の知る限り、王国にこの体系を教えられる者はいない」

 声が遠ざかっていく。足音が角を曲がって消えた。

 私は廊下に立ち尽くしていた。ヨハンが心配そうな目でこちらを見ている。

 帳簿を見せたのは正しかったのか。

 いや——帳簿だけなら、まだいい。問題は、私が楽しんでしまったことだ。

 あの二時間。数字を通じて心が通じ合うような感覚。あれは——危険だ。
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