処刑エンドの悪役令嬢に転生したので攻略対象を全員回避して辺境で起業したら、なぜか王太子が追いかけてくるんですが

ポポリーナ

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ふふ、面白いですね——宮廷魔術師の来訪

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 今度は王家の紋章でも近衛騎士団の旗でもない。質素だが品の良い馬車。車体に小さく刻まれた紋章は——宮廷魔術師ギルドの徽章。

「もう誰が来ても驚きませんわ」

 嘘だ。内心で悲鳴を上げている。

 馬車から降りたのは、藍色の長髪を一つに束ねた青年だった。銀縁の眼鏡。穏やかな微笑み。しかしその笑みの奥に——鋭利な知性が光っている。

 エミル・ヴィスタリア。宮廷魔術師。ゲームの攻略対象その三。

「お久しぶりです、セラフィーナ様。辺境の魔力循環に学術的に興味深い変動が観測されまして——長期滞在の許可をいただければと」

 穏やかな声。丁寧な言葉遣い。しかし「許可をいただければ」と言いながら、既に荷物を下ろしている。許可を求める体裁を取りつつ、断られる可能性を一切考慮していない。

 この人が一番怖い。レオンハルトは不器用で正直だ。ルキウスは口下手で直球だ。しかしエミルは——穏やかな笑顔の裏で、常に計算している。

「ゲームのバグか?」

 呟いてしまった。小声で。

 エミルの耳が微かに動いた。聞こえたかもしれない。聞こえていないことを祈る。

「ようこそ、エミル殿。滞在の手配はヘルガに——」

「ありがとうございます。それと、薬草園を拝見してもよろしいですか。聖光草という植物について、ぜひオルガ殿にお話を伺いたい」

 聖光草。なぜ知っている。

「宮廷魔術師ギルドのネットワークは広いんですよ。辺境で珍しい薬草が栽培されているという噂は、学術界にも届いています」

 笑顔。穏やかな笑顔。しかしその目が笑っていない。


  ◇


 薬草園。

 オルガが温室でエミルを案内している。私は少し離れた場所で様子を見ていた。

 エミルは薬草の品種を一つ一つ確認しながら、的確な質問を重ねていた。寒冷地特有の薬効成分の濃度差、加工方法による有効成分の変化、保存期間と品質の関係。オルガは最初緊張していたが、エミルの質問が専門家レベルだと気づくと、表情が輝き始めた。

「エミル様、薬草学にもお詳しいのですね」

「ええ、魔術と薬草学は表裏一体ですから。特に魔力を帯びた植物は——」

 エミルの足が止まった。温室の奥。聖光草の苗床。

 淡い光を帯びた葉が、午後の日差しとは無関係に自ら発光していた。一株だけ、花が咲いている。白い花弁が微かに揺れ、花芯から透明な光の粒子が舞い上がっている。

 エミルが眼鏡を外した。銀縁がなくなった素顔に、初めて——演技ではない感情が浮かんだ。驚嘆。

「これは……」

 膝をつき、聖光草に手を伸ばした。指先が葉に触れた瞬間、淡い光が指の周りを巡った。エミルの瞳が一瞬、藍色から金色に変わったように見えた。

「魔力と共鳴している。この植物は、地下の魔力脈から養分を得ている」

「魔力脈?」

「この辺境の地下に、大規模な魔力の流れがあります。古代の魔術文献では『竜脈』と呼ばれるもの。聖光草はその竜脈の恩恵を受けて育っているんです」

 オルガが息を呑んだ。

「だから……この土地でしか育たないんですね。夫もそう推測していました。『この土地には何か特別な力がある』と」

「オルガ殿のご主人は慧眼でした。この聖光草は、単なる薬草ではない。魔力の回復効果を持つ可能性がある。もし実証されれば——王国の魔術体系に革命が起きます」

 エミルの声は穏やかだったが、中身は火薬だった。

 魔力回復効果。それが事実なら、聖光草の価値は計り知れない。王国中の魔術師が欲しがるだろう。教会も黙っていない。聖光教会の教義では、魔力は聖なる力の一側面とされている。その回復手段が教会の外にあるとなれば——政治的な波及効果は計算不能だ。

 オルガが静かに聖光草の花に手を伸ばした。花弁が指に触れると、光が一段強くなった。

「夫はこの花を見ることなく逝きました。もし……もしこの花の力があの時あれば」

 声が震えていた。エミルが穏やかに、しかし真剣な目でオルガを見た。

「オルガ殿。ご主人の研究を引き継いでこの花を咲かせたのは、あなたです。学術的にも、人間的にも、敬意を表します」

 温室の空気が、少しだけ柔らかくなった。エミルは腹黒だが、人の痛みを無視する人間ではない。その二面性が、この男をもっとも読みにくくしている。


  ◇


 薬草園を出て、廃坑入口に向かった。エミルが「魔力測定を行いたい」と言ったからだ。

 坑道の入口。冷たく湿った空気。朽ちた支柱の匂い。先日の偵察で、ルキウスたちが封鎖壁の劣化を確認した場所だ。

 エミルが坑道の入口に立ち、目を閉じた。右手を前に伸ばす。指先が微かに光った。

 沈黙が十秒。二十秒。

「……深い。予想以上に深い。地下三百メートル以上の位置に、大規模な魔力脈が走っています。そしてその脈から枝分かれした支流が、この坑道の最奥部——つまり封鎖区画の付近で地表に近づいている」

 目を開いたエミルの表情は真剣だった。穏やかな仮面が完全に外れている。

「魔獣が集まる理由がわかりました。魔力脈に惹かれているんです。魔獣は魔力を糧にする。地表付近に魔力が噴出している場所があれば、そこに集まる。封鎖区画の向こうは、魔獣にとって『エサ場』なんですよ」

 坑道の奥から微かな風が吹いた。冷たく湿った風。その中に——ほんのかすかに、甘い匂いが混じっている。以前の調査で感じた匂いと同じだ。

「この匂いは——聖光草の香りに似ていますね。地下で聖光草に近い植物が自生しているのかもしれない」

 エミルは腕を組み、考え込んだ。

「魔力脈、聖光草、魔獣の巣——三つが全てこの地下で繋がっている。セラフィーナ様、この領地は思っていた以上に重要な場所です」

 重要。それが良い意味か悪い意味か、今はわからない。

 しかし一つだけ確かなことがある。この情報が王都に伝われば、辺境は今以上に注目を集める。ノーヴァル商会の商業的野心だけではない。王家、教会、魔術師ギルド——全ての権力が、この小さな領地に目を向けることになる。

 半年かけて築いた平穏が、地下から揺らいでいる。


  ◇


 領主館に戻った。執務室のドアを開けると、書架の前にエミルが立っていた。いつの間に先回りしたのか。この人の移動速度は不気味だ。

 エミルは書架の本を一冊一冊、背表紙を読みながら眺めていた。私が王都の古書店で買った技術書たち。農業概論、鉱業入門、薬学基礎、測量術。

「面白い蔵書ですね。貴族令嬢の書架としては、かなり実用寄りだ」

「実用的な知識が必要でしたので」

「ええ、それはわかります。しかし——」

 エミルが振り向いた。銀縁の眼鏡の奥の目が、穏やかだが逃げ場がない。

「セラフィーナ様、一つ伺ってもよろしいですか」

 来る。わかっていた。この人は、観察し、分析し、そして核心を突く。

「『原価計算』という概念を、どなたからお学びに?」

 声は穏やかだった。世間話のような口調だった。しかしその問いは、私の足元を撃ち抜いた。

 原価計算。この世界に存在しない概念。帳簿に書いた瞬間から、誰かに指摘されるリスクは覚悟していた。レオンハルトは複式簿記に気づいた。エミルは——もっと深い部分に気づいている。

「……独学ですわ」

「独学。なるほど」

 エミルは微笑んだ。信じていない。完全に信じていない。しかし追及はしなかった。今は。

「面白い方ですね、セラフィーナ様。また、ゆっくりお話しましょう」

 書架の前を離れ、扉に向かった。しかしドアノブに手をかけた瞬間、肩越しに——あの笑みを浮かべた。

「ちなみに、原価計算だけではありませんよ。複式簿記、減価償却、損益分岐点分析——この世界の会計学には、それらの概念は存在しません。一つもね」

 扉が閉まった。

 足から力が抜けて、椅子に崩れ落ちた。

 エミルは全部知っている。知った上で、泳がせている。学者の好奇心か。それとも——。

 書架の本の背表紙が視界の端で揺れている。ランプの炎が風に煽られたのか。いや、窓は閉まっている。私の手が、震えているだけだ。

 攻略対象三人が、全員揃った。

 一人目は帳簿に惹かれ、二人目は剣を携えて来た。そして三人目は——私の秘密に、最も近い場所にいる。

 残業確定だ。しかも、終わりの見えない長時間残業。

 窓の外では日が暮れ始めていた。鍛冶場の方角からマルクスのハンマーの音が聞こえる。薬草園ではオルガがまだエミルと話しているだろう。北の森の向こうには魔獣が潜んでいる。

 そしてこの領主館には、攻略対象が三人。

 前世の職場でも、面倒な案件が一度に三つ降ってきたことがある。あの時はエナジードリンクで乗り切った。今世にはエナジードリンクがない。ヘルガの薬草茶で代用するしかないが、カフェインが入っているかどうかすら怪しい。
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