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商売を学びたいんです!——ヒロイン、弟子入り志願
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小柄な少女が、自分の体の半分ほどもある革鞄を両手で抱えてよろめいている。春先の朝日が巻き毛を金色に染め、エメラルドの瞳がきょろきょろと辺りを見回している。
リリアーヌ・ローゼンタール。ゲームのヒロイン。聖女の力を持つとされる男爵令嬢。
そして——私を処刑に追い込むシナリオの中心人物。
「もう誰が来ても驚きませんわ」
窓から正門を見下ろしながら呟いた。嘘だ。驚いている。心臓がうるさい。
ヨハンが横で「四人目ですか……」と力なく呟いた。もはやツッコミの気力すらないらしい。
「あの、すみません! ヘルムガルド領主のセラフィーナ様にお会いしたいのですが!」
正門の前で、リリアーヌが門番に向かって叫んでいた。声が大きい。張り切っている。しかし門番は困惑している。小柄な少女が一人で辺境まで来ること自体が異常だ。
階段を降りた。廊下を早足で進む。ヨハンが後ろからついてくる。正門の重い木戸を押し開けると、春の風が髪を攫った。
リリアーヌが私を見た瞬間、目を輝かせた。あの卒業式の大講堂で一度見たきりの、ピンクブロンドの少女。あの時は呆然としていた顔が、今は——期待に溢れている。革鞄を胸の前に抱え直し、靴の泥を気にする素振りも見せず、まっすぐにこちらを見つめている。
「セラフィーナ様! お会いできて嬉しいです!」
勢いよく頭を下げた。その拍子に革鞄がずり落ちて地面にぶつかり、中から衣類と本が飛び散った。
「あ、あわわ——」
慌てて拾い集めるリリアーヌ。ヨハンが手伝う。私は——なぜか微笑んでしまった。この天然さは演技ではない。本物だ。
「リリアーヌ殿。……なぜここに?」
「辺境の奇跡的な発展のことを聞きまして、どうしても商売を学びたくて——弟子入りをお願いに参りました!」
弟子入り。
ゲームのヒロインが、悪役令嬢に弟子入り。
脳の処理が追いつかない。ゲームのどのルートにも、こんな展開はなかった。リリアーヌは学園で聖女の力に目覚め、攻略対象と恋に落ち、悪役令嬢を告発する——それがゲームのシナリオだ。辺境まで来て「商売を学びたい」など、脚本にない。
「あの……だめ、でしょうか?」
リリアーヌの目が潤んでいた。不安そうな子鹿の目。この目で断れる人間がいたら、人の心がない。
「……一つだけ聞かせてくださいませ。なぜ私のところに?」
「卒業式の時、セラフィーナ様が壇上で婚約破棄を宣言されたのを見ました。数百人の前で、自分の意志で運命を変えた。あの時思ったんです——私もああなりたいって」
胸の奥がざわついた。手のひらが汗ばんでいる。
あの宣言は——処刑エンドの回避策だった。自分の命を守るための計算ずくの行動。しかしリリアーヌにとっては、「自分の意志で運命を変える」姿に映った。同じ出来事が、見る者によってまったく違う意味を持つ。その事実が、胸に刺さった。
「お父様は反対しなかったんですか」
「しました。すごく。でも私、一人で馬車に乗って出てきてしまって……」
家出同然。男爵家の令嬢が単身で辺境に来る。王都から馬車で何日かかると思っているのだ。とんでもない行動力だ。ゲームでは「素朴でドジ」という設定だったが、この子には——芯がある。
「ヨハン、客室の準備を。ヘルガに伝えて」
「はい。……弟子入りを受けるんですか?」
「まだ決めていません。でも、一人で辺境まで来た子を追い返すわけにはいかないでしょう」
リリアーヌの顔が輝いた。太陽のように。この明るさは天性のものだ。
攻略対象三人が、リリアーヌの到着に反応した。
レオンハルトが応接間に来て、「男爵令嬢がなぜ一人で辺境に? 護衛もなく?」と眉をひそめた。王太子として、貴族令嬢の安全を懸念するのは当然だ。
ルキウスは「護衛対象が増えた」と渋い顔をしながらも、リリアーヌの安全確認を自ら行った。廊下で「怪我はないか。道中、野盗には遭わなかったか」と低い声で訊いていたのを、私は聞き逃さなかった。リリアーヌが「大丈夫です! 馬車の御者さんがとっても強い人で」と元気よく答えると、ルキウスは無言で頷いて踵を返した。あの不器用な優しさは、本物だ。
エミルだけが——微笑みの質が違った。
「興味深い配置ですね」
応接間の隅で、小声で呟いた。
「王太子、騎士団長、宮廷魔術師、そしてヒロイン——いえ、聖女候補。そのすべてが辺境の悪役令嬢のもとに集まる。物語であれば、これはクライマックス前の布陣ですよ」
「エミル殿、それは——」
「ただの独り言ですよ。お気になさらず」
気にしかないでしょうが。
◇
午後。リリアーヌの適性を見るため、ギュンターの商店に連れて行った。
商品棚に並ぶ辺境の特産品。ヘルムガルド鋼の小物、乾燥薬草のパック、革製品。リリアーヌは一つ一つを手に取り、重さを確かめ、匂いを嗅ぎ、品質を指先で判断していた。
「この革、なめし方が丁寧ですね。でも縫い目がちょっと粗い。ここを直せばもっと高く売れると思います」
ギュンターが目を丸くした。
「嬢ちゃん、革細工がわかるのか」
「実家が田舎の男爵家なので、革職人さんとは子供の頃からお付き合いがあって」
田舎の男爵令嬢。大貴族の教育は受けていないが、現場の知識がある。手触りで品質を見極める感覚は、教科書では身につかない。これは——使える。
「リリアーヌ殿、この商品の原価と販売価格の差額から、適正な利益率を推定してみてくださいませ」
「え、えっと……仕入れがこれくらいで、輸送費がこれくらいで……利益率は三割くらいでしょうか」
「正解ですわ」
直感的に数字を掴む力がある。学問として学んでいないが、実経験で商売の勘を身につけている。ゲームでは「聖女の力」にばかり注目されていたが、この子の本当の才能は——商才だ。
ギュンターが私に目配せした。「面白い子だ」と言っている。
「リリアーヌ殿」
「はい!」
「一週間、試用期間としましょう。その間に辺境の商売の基本を見ていただいて——お互いに合うかどうか、判断しませんか」
「はい! よろしくお願いします、セラフィーナ様!」
深々とお辞儀。元気がいい。この明るさは、辺境の人々にも好かれるだろう。
帰り道。夕暮れの光が廊下の石畳を赤く染めていた。リリアーヌは「今日は本当にありがとうございました」と何度も頭を下げながら歩いている。巻き毛がそのたびに揺れて、視界の端で春の花が咲いているようだった。
廊下の角を曲がった時、リリアーヌがよろめいた。革鞄の紐が解けかけて足元に絡まったのだ。咄嗟に手を伸ばした。
リリアーヌの手に触れた。小さな手は温かかった。指先が触れ合った瞬間——。
光った。
微かな、しかし確かな光。二人の手の間に、白い光の粒子が走った。一瞬。瞬きほどの時間。
リリアーヌが立ち止まった。エメラルドの瞳が大きく見開かれ、一瞬だけ——瞳の奥で金色の光が揺れた。
「え……今、何か……」
「何が?」
私は見えていた。しかしリリアーヌが何を感じたのかを確認したかった。
「手が——温かくなって、光が……気のせいかな。すみません、変なこと言って」
「いいえ。変なことではありませんわ」
聖女の力。ゲームでは学園のイベントで覚醒するはずだった。しかしリリアーヌは学園ではなく辺境にいる。そして覚醒の兆候が——私に触れた時に現れた。
辺境の魔力脈。エミルが言っていた「竜脈」。聖光草の異常な成長。そして今——聖女の力の覚醒。全てが地下で繋がっている。
リリアーヌは何も気づいていない。笑顔で廊下を歩いていく。ピンクブロンドの巻き毛が弾むように揺れている。
この子の笑顔を守りたい——と、思った。
ゲームの「ヒロイン」としてではなく。一人の、まっすぐな少女として。
処刑エンドのシナリオでは、この子が私を告発する。しかしこのリリアーヌは——告発どころか、弟子入りを志願してきた。
ゲームは壊れている。壊れたゲームの中で、新しい物語が動き始めている。
窓の外では、春の風がヘルムガルドの街並みを撫でている。鍛冶場の煙が夕焼けに溶けていく。この景色を守るために私は戦ってきた。そしてこれからは——この景色の中にいる人たちのためにも。
攻略対象三人と、ヒロイン。全員が辺境に揃った。ゲームの最終盤で起きるべき配置が、中盤で成立してしまった。
嵐の前の静けさだ。しかし今の辺境には——嵐を乗り越えるだけの人がいる。
リリアーヌ・ローゼンタール。ゲームのヒロイン。聖女の力を持つとされる男爵令嬢。
そして——私を処刑に追い込むシナリオの中心人物。
「もう誰が来ても驚きませんわ」
窓から正門を見下ろしながら呟いた。嘘だ。驚いている。心臓がうるさい。
ヨハンが横で「四人目ですか……」と力なく呟いた。もはやツッコミの気力すらないらしい。
「あの、すみません! ヘルムガルド領主のセラフィーナ様にお会いしたいのですが!」
正門の前で、リリアーヌが門番に向かって叫んでいた。声が大きい。張り切っている。しかし門番は困惑している。小柄な少女が一人で辺境まで来ること自体が異常だ。
階段を降りた。廊下を早足で進む。ヨハンが後ろからついてくる。正門の重い木戸を押し開けると、春の風が髪を攫った。
リリアーヌが私を見た瞬間、目を輝かせた。あの卒業式の大講堂で一度見たきりの、ピンクブロンドの少女。あの時は呆然としていた顔が、今は——期待に溢れている。革鞄を胸の前に抱え直し、靴の泥を気にする素振りも見せず、まっすぐにこちらを見つめている。
「セラフィーナ様! お会いできて嬉しいです!」
勢いよく頭を下げた。その拍子に革鞄がずり落ちて地面にぶつかり、中から衣類と本が飛び散った。
「あ、あわわ——」
慌てて拾い集めるリリアーヌ。ヨハンが手伝う。私は——なぜか微笑んでしまった。この天然さは演技ではない。本物だ。
「リリアーヌ殿。……なぜここに?」
「辺境の奇跡的な発展のことを聞きまして、どうしても商売を学びたくて——弟子入りをお願いに参りました!」
弟子入り。
ゲームのヒロインが、悪役令嬢に弟子入り。
脳の処理が追いつかない。ゲームのどのルートにも、こんな展開はなかった。リリアーヌは学園で聖女の力に目覚め、攻略対象と恋に落ち、悪役令嬢を告発する——それがゲームのシナリオだ。辺境まで来て「商売を学びたい」など、脚本にない。
「あの……だめ、でしょうか?」
リリアーヌの目が潤んでいた。不安そうな子鹿の目。この目で断れる人間がいたら、人の心がない。
「……一つだけ聞かせてくださいませ。なぜ私のところに?」
「卒業式の時、セラフィーナ様が壇上で婚約破棄を宣言されたのを見ました。数百人の前で、自分の意志で運命を変えた。あの時思ったんです——私もああなりたいって」
胸の奥がざわついた。手のひらが汗ばんでいる。
あの宣言は——処刑エンドの回避策だった。自分の命を守るための計算ずくの行動。しかしリリアーヌにとっては、「自分の意志で運命を変える」姿に映った。同じ出来事が、見る者によってまったく違う意味を持つ。その事実が、胸に刺さった。
「お父様は反対しなかったんですか」
「しました。すごく。でも私、一人で馬車に乗って出てきてしまって……」
家出同然。男爵家の令嬢が単身で辺境に来る。王都から馬車で何日かかると思っているのだ。とんでもない行動力だ。ゲームでは「素朴でドジ」という設定だったが、この子には——芯がある。
「ヨハン、客室の準備を。ヘルガに伝えて」
「はい。……弟子入りを受けるんですか?」
「まだ決めていません。でも、一人で辺境まで来た子を追い返すわけにはいかないでしょう」
リリアーヌの顔が輝いた。太陽のように。この明るさは天性のものだ。
攻略対象三人が、リリアーヌの到着に反応した。
レオンハルトが応接間に来て、「男爵令嬢がなぜ一人で辺境に? 護衛もなく?」と眉をひそめた。王太子として、貴族令嬢の安全を懸念するのは当然だ。
ルキウスは「護衛対象が増えた」と渋い顔をしながらも、リリアーヌの安全確認を自ら行った。廊下で「怪我はないか。道中、野盗には遭わなかったか」と低い声で訊いていたのを、私は聞き逃さなかった。リリアーヌが「大丈夫です! 馬車の御者さんがとっても強い人で」と元気よく答えると、ルキウスは無言で頷いて踵を返した。あの不器用な優しさは、本物だ。
エミルだけが——微笑みの質が違った。
「興味深い配置ですね」
応接間の隅で、小声で呟いた。
「王太子、騎士団長、宮廷魔術師、そしてヒロイン——いえ、聖女候補。そのすべてが辺境の悪役令嬢のもとに集まる。物語であれば、これはクライマックス前の布陣ですよ」
「エミル殿、それは——」
「ただの独り言ですよ。お気になさらず」
気にしかないでしょうが。
◇
午後。リリアーヌの適性を見るため、ギュンターの商店に連れて行った。
商品棚に並ぶ辺境の特産品。ヘルムガルド鋼の小物、乾燥薬草のパック、革製品。リリアーヌは一つ一つを手に取り、重さを確かめ、匂いを嗅ぎ、品質を指先で判断していた。
「この革、なめし方が丁寧ですね。でも縫い目がちょっと粗い。ここを直せばもっと高く売れると思います」
ギュンターが目を丸くした。
「嬢ちゃん、革細工がわかるのか」
「実家が田舎の男爵家なので、革職人さんとは子供の頃からお付き合いがあって」
田舎の男爵令嬢。大貴族の教育は受けていないが、現場の知識がある。手触りで品質を見極める感覚は、教科書では身につかない。これは——使える。
「リリアーヌ殿、この商品の原価と販売価格の差額から、適正な利益率を推定してみてくださいませ」
「え、えっと……仕入れがこれくらいで、輸送費がこれくらいで……利益率は三割くらいでしょうか」
「正解ですわ」
直感的に数字を掴む力がある。学問として学んでいないが、実経験で商売の勘を身につけている。ゲームでは「聖女の力」にばかり注目されていたが、この子の本当の才能は——商才だ。
ギュンターが私に目配せした。「面白い子だ」と言っている。
「リリアーヌ殿」
「はい!」
「一週間、試用期間としましょう。その間に辺境の商売の基本を見ていただいて——お互いに合うかどうか、判断しませんか」
「はい! よろしくお願いします、セラフィーナ様!」
深々とお辞儀。元気がいい。この明るさは、辺境の人々にも好かれるだろう。
帰り道。夕暮れの光が廊下の石畳を赤く染めていた。リリアーヌは「今日は本当にありがとうございました」と何度も頭を下げながら歩いている。巻き毛がそのたびに揺れて、視界の端で春の花が咲いているようだった。
廊下の角を曲がった時、リリアーヌがよろめいた。革鞄の紐が解けかけて足元に絡まったのだ。咄嗟に手を伸ばした。
リリアーヌの手に触れた。小さな手は温かかった。指先が触れ合った瞬間——。
光った。
微かな、しかし確かな光。二人の手の間に、白い光の粒子が走った。一瞬。瞬きほどの時間。
リリアーヌが立ち止まった。エメラルドの瞳が大きく見開かれ、一瞬だけ——瞳の奥で金色の光が揺れた。
「え……今、何か……」
「何が?」
私は見えていた。しかしリリアーヌが何を感じたのかを確認したかった。
「手が——温かくなって、光が……気のせいかな。すみません、変なこと言って」
「いいえ。変なことではありませんわ」
聖女の力。ゲームでは学園のイベントで覚醒するはずだった。しかしリリアーヌは学園ではなく辺境にいる。そして覚醒の兆候が——私に触れた時に現れた。
辺境の魔力脈。エミルが言っていた「竜脈」。聖光草の異常な成長。そして今——聖女の力の覚醒。全てが地下で繋がっている。
リリアーヌは何も気づいていない。笑顔で廊下を歩いていく。ピンクブロンドの巻き毛が弾むように揺れている。
この子の笑顔を守りたい——と、思った。
ゲームの「ヒロイン」としてではなく。一人の、まっすぐな少女として。
処刑エンドのシナリオでは、この子が私を告発する。しかしこのリリアーヌは——告発どころか、弟子入りを志願してきた。
ゲームは壊れている。壊れたゲームの中で、新しい物語が動き始めている。
窓の外では、春の風がヘルムガルドの街並みを撫でている。鍛冶場の煙が夕焼けに溶けていく。この景色を守るために私は戦ってきた。そしてこれからは——この景色の中にいる人たちのためにも。
攻略対象三人と、ヒロイン。全員が辺境に揃った。ゲームの最終盤で起きるべき配置が、中盤で成立してしまった。
嵐の前の静けさだ。しかし今の辺境には——嵐を乗り越えるだけの人がいる。
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